エピローグ


 すっかり夜の帳が下りようとしていることに焦り始め、俺はあることに気が付いた。

「……立花さん、もしかして今日も歩いて帰るの?」

「? はい」

 やはりこの子は危機感が欠如しているのではないだろうか。

 こんな時間に、制服姿の女子高生を一人で家路に送り出すのはあまりにも憚られた。

「良ければ送ってくよ。車だけど」

 このド田舎において、社会人は車が無ければ生活するのはかなり厳しい。俺ももちろん車通勤をしている。

 図書館本館の裏手に見える駐車場を指して提案すると、立花さんはこれまたなんの危機意識も見せず「いいんですか?」と言ってのけた。

 俺が愛車の運転席に乗り込むと、立花さんは迷いながら助手席のドアを開ける。

 しっかりシートベルトを着ける立花さんから大まかに家の場所を聞き出すと、車を出す前に俺はもしもの時のために協力を頼むことにした。

「立花さん。もし俺が誘拐罪で通報されかけたら、ご両親に事情説明してくれるかな……」

「え。九重さん、顔青いですよ。だいじょうぶですか……?」

 立花さんは高校生、つまりは未成年であり、俺は一応成人済みの社会人である。

 誓って潔白に真っすぐ家まで送るつもりだが、正直俺が立花さんの親なら、こんな得体のしれない男が娘を車で送ってきたら間違いなく怪しむ。

 そんな予防線を張りつつも気まずい雰囲気で運転したくはないので、運転中の他愛ない世間話はしておく。

「先生目指すってことは、やっぱ教大行くの?」

「そうですね。来年受験です」

 あ。今更ながら高校二年生だったのか。

「……俺も勉強頑張ってみようかな」

「も?」

 左隣から聞こえる疑問符に、なんだか照れくさくなる。

「司書資格。目指してみようかと思ったんだけど、取れるまで四年くらい掛かるっぽんだよね」

 ミラーの隅で、立花さんが驚いた顔をしているのが見えた気がする。

 元々図書館で働くことになったのは成り行きなのだが、気が付けばこの仕事をすっかり気に入ってしまった自分が居たのだ。

「じゃあ、大学も四年だし、おそろいなんですね。お互いがんばりましょう!」

 図書館に足しげく通うほどに勉強熱心な少女は、もう爛々と輝く瞳が想像できる声で言い切った。

 これは、この子の中で確定事項になってしまったのでは……?

 どう逃げ切ろうか考え始めた頃、目的地近くの道へ辿り着いた。

「ここでだいじょうぶです」

 言ってドアを開けると、立花さんは降りる前に俺にまた耳打ちした。

「今日はありがとうございました」

 普段と違い、天井がある車内で伝わる吐息は、それを受け取る俺の左耳に妙な心地を覚えさせる。

 ますますこの子の将来が思いやられ始めたところで、立花さんは夜だと言うのに随分晴れやかな笑顔を窓越しに見せて車のドアを閉めた。



 ▼



 ……思えば、あの日の後からだった気がする。

 立花さんの纏う雰囲気が少し違うものになったのは。


「九重さん? どうしました?」

「いや、なんでもないよ」

 下から聞こえるひそひそ声にむずがゆさを感じていると、不意に立花さんはすいと離れた。

「それじゃあ、そろそろ自習室行きますね」

 ようやく解放された感覚にほっとして本棚に視線を戻すと、再び左側に気配を感じた。耳朶に触れる小さな吐息に、緊張が走る。

「──九重さんって、左耳の方が弱いですよね?」

 衝撃的な一言に言葉を失っていると、いたずらっぽく笑う天使の声を持つ少女は静かに軽快な足取りで去って行った。


 もしかしたら、あの子は持ち前の声の使い方というものを知ってしまったのかもしれない。

 知識を得ることに貪欲な彼女が、いつまでも純真無垢な少女で居ることはきっと不可能なのだから。





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僕はその声を知っている 猫矢ナギ @Nanashino_noname

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