第4話
その日、立花さんと出会ったのは、珍しく図書館の玄関ロビーだった。
ロビーに置かれた長机の上、平積みされた地域の小さなイベント事のチラシを整理している時である。
ガラス製の自動ドアが開き、やって来た立花さんは制服姿だ。午後四時を迎えようという夕暮れのため、学校帰りだろうか。その表情はどこか暗く、いつになく落ち込んでいる……というより思いつめているように見える。
「立花さん、こんにちは」
俺が声を掛けると、立花さんは徐々にその顔に色を取り戻し、慌てて反射的に頭を下げた。
「こ、こここんにちはっ!!」
俺がこんな所に立って居るのは彼女としても予想外だったのか、上ずった甲高い声がロビーに反響してしまう。口元を押さえて恥ずかしそうに紅潮する立花さんに、申し訳ない気持ちになる。
「な、なんかごめん……」
「……っ。だいじょーぶですっ!」
いつもに輪をかけて消え入りそうなほど微かな声でそう言い捨てると、立花さんはロビーの端にある階段を駆け上って行ってしまった。
──あ。自習室、使いに来てたんだ。
この図書館では、館長の意向で二階の閲覧室が自習スペースとして開放されており、誰でも自由に使うことが出来る。夏休み期間ともなると五十席近くが埋まることもあるのだが、まあ時間が時間なので空いているだろう。立花さんが無事に席に着けて勉強が捗ることを祈りつつ、俺は仕事に戻った。
あれから一時間半ほど経ち、間もなく迎える終業時刻について考えながら貸出カウンターで座していると、一般資料室に立花さんが訪れた。
立花さんはしばらく本棚の間を行ったり来たりさ迷った後、カウンター横にある検索機へとやって来る。この図書館はあまり広くもなく、利用者が多いわけでもないので、検索機はタッチパネル式の物が一つあるだけだ。
特に苦も無くタッチパネルの上で指を滑らせる立花さんは、ふと左横のカウンターの内側で座る俺の方に目を向けた。
──しまった。じろじろ見すぎたか!?
それなりに親しくなったとはいえ、年頃の女の子を凝視するのはだいぶ気持ち悪いのではないか。釈明の言葉を頭の中で練り上げていると、立花さんはそろそろとこちらに寄って来た。何か言いたげに見えるその表情に、心して非難を受け入れようと耳を貸すと、傾けた俺の右耳に囁かれたのは予想外の申し出だった。
「この後、お時間いただくことって出来ますか……?」
何か聞き間違えたかと思考が停止して硬直していると、立花さんはあわあわと不安気に付け足した。
「閉館時間でお仕事が終わりなわけじゃないんでしょうか……?」
この図書館の閉館時刻は午後七時。今から一時間半後だ。
「閉館後もいろいろあるけど、まあ……。用事あるのでって、早めに帰らせてもらうこともできなくはないよ……」
「えっと、じゃあ、終わった後に入口のとこで待ってますねっ」
まるで放課後に帰る約束を交わすように、小さい声を弾ませながら言うと、立花さんは本棚の陰へと消えて行った。
その後、一冊の小説を手に再びカウンターへ訪れた立花さんの、本の貸し出し受付を請け負う。ほのかに笑みを湛える立花さんのどこか浮足立った表情に、俺の心中はどうしようもない不安に支配された。
──だ、大丈夫か? この子……!?
立花さんに限ってこの誘いにやましい意図は含まれていないと思うが、危機感が無さすぎではないだろうか?
三歳年下の妹が学生の時分に彼氏と夜遅くまで遊んで帰って来た時に感じた、いずれ訪れるだろうが出来れば直視したくない現実が見えたような、なんとも言えない複雑な感情が蘇って来そうだ。
頭を抱えたくなる衝動に耐え、表面上は平静な表情を顔面に貼り付けるうち、遂に時計の針が閉館時刻を指した。
どうにかこうにか七時半を迎える前に職場を出ることに成功し、待ち合わせした図書館の玄関口に向かう。
日没にしてはまだまだ明るい、夏の白んだ宵の空。
周囲を見渡すと、探し人は花壇の傍にある木製のベンチに腰掛けていた。多少清涼感を与えてくれる風に身を委ねながら、手元では先ほど借りていった小説が膝の上で開かれている。
その姿になんとなくほっとしながら、立花さんの左隣に俺も腰を下ろした。
「おまたせ。暑くない?」
「だいじょうぶですよ」
この木のベンチもまだまだ日中に浴びた熱を保っている気がするが、少女の優しい気配りに水を差すわけにはいかない。
「それでどうしたの、急に」
「えっ……と、その……」
立花さんは読んでいた本を閉じると、俺から視線を逸らすように伏せがちに呟いた。
「すごく自分勝手なんですけど、相談、に乗っていただきたいな、って……」
あまりに神妙に言うものだから、思わず目が丸くなる。
そういえば、今日ここに訪れた際の立花さんが、何か思い悩むような雰囲気を纏っていたことを思い出した。
「全然良いけど、なんで俺なの?」
「友達とか家族には、なんとなく恥ずかしくて聞けなくて……」
「なるほど……?」
親しい人には逆に聞けなくて、俺くらいの距離だとちょうどいいこととは。
立花さんは一度俺の目を見て静かに息を呑むと、意を決して口を開いた。
「私って、声……小さい、ですよね……?」
その一言は、一瞬過った突風に搔き消されそうだった。
「え? あ、うん……」
俺の反応を見た立花さんは、見る見る顔を赤くして唇を噛みしめながら下を向いて行く。
「いやごめん! 続けて続けて!」
なんとか気を持ち直した立花さんは語った。
「もうすぐ、クラスメイトの五人で応募した研究発表会みたいなものがあるんですけど、壇上に上がって話したりするので、その練習でたまに学校で集まってるんです」
やたらと制服姿を見るのは、そういう理由があったのか。同じ年頃の俺なら確実に参加していないような活動に、積極的に参加するほどとは。想像以上に、知識欲の強いタイプだったりするのかもしれない。
「私、その、人前で声を出すのが恥ずかしくて、あまり得意じゃなくて……。声が小さくなったり、言いよどんじゃうので、他のみんなにいろいろ任せてしまってるんです。それがすごく、申し訳ないというか、何より情けなくて」
確かに、立花さんがそういう方面が苦手なことは、数週間にも満たない付き合いの俺でも知っている。
「向き不向きはあるもんだし、別に無理しなくてもいいと思うけど……」
「ち、違うんです!」
俯きがちだった顔を上げると、必死に俺にその目を向ける。
力強いわけではないが、それでも凛と澄んだ声を響かせて立花さんは告げた。
「私、教師になりたいんです!」
その瞳は雄弁に、夢を語りかけていた。
教師といえば、数多の生徒の前で話をしなければならない事もあるだろう。
これまで見てきた立花さんのいろいろな姿に、しっくりくる答えを得た気がする。
「──ああ、なるほど……! 小学校の先生でしょ」
「! なぜそれを!?」
「いや、なんとなくだけど」
しかし、口数少ないだとかぼそぼそ喋る教師くらい、これまでの半生で別に珍しいほどでもなかったが、小学校の教諭となると立花さんが悩むのも分かる気がする。
手のかからない子供ばかりなら、児童書コーナーが別フロアに分けられることもないというものだ。
「まあ確かに、それは声小さいと困るかもしれないね……」
「うっ」
本人は相当に気にしているようだが、実のところ、俺はそこまで心配する必要もないと思っていた。
「でもきっと、立花さんは向いてるよ。学校の先生」
「なんでです?」
彼女の過去やら事情やら、心根の深いところなどろくに知りもしないくせに言い切る俺に、立花さんは少し拗ねたように訊ねる。
でも、そんな俺でも目の前で見た──否、この身で体感したことがあるのだ。
「俺は立花さんの声が、いざという時にすごく頼もしいことを知ってるからね」
忘れられようはずもない。炎天下で惨めに倒れた俺を一番に駆け寄って助けてくれたのは、まぎれもないこの子なのだから。
自分の得た知識をちゃんと実践で人のために使えるのなら、それはもう一種の立派な適正と言えるのではないだろうか。
いまいち理解できない、と不思議そうな顔をする立花さんに、大人らしい手助けもしておこう。
「人前で話す特訓したいなら、休日の絵本の読み聞かせやってみる? たぶんボランティアになるだろうけど紹介できると思うよ。立花さん、声可愛いんだし」
考えさせてください、と言った立花さんは急にそっぽを向いて黙り込んでしまったが、まあ悪い反応ではないだろう。たぶん。
流石に暗く染まり始めた夜空を見上げ、未来ある若者の行く末が明るいものであることを星に願った。
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