第3話
特筆すべきこともない、平和な夏日。
強いて言えばロビーではしゃぐ子供たちが母親に叱られる声が耳に入り、元気だなと感じる程度の朝。
「九重くん、じゃあこれよろしくね」
開館まもなく気のいい年配の女性司書に任されたのは、二段になっている棚状のカートに積まれた返却本を並べ戻す、単純な配架作業だ。この先輩は腰を痛めてしまったらしく、棚の下の方に本を戻すために要する屈む動作が難しいため、俺に一任されることとなった。
それでなくともこの仕事は腰に悪い動作が多いため、こちらとしても心配である。なんせ司書という存在は、この図書館において最も重要と言っても過言ではないのだから。
「他にもなんかあったら言ってくださいね、全然やるんで」
「あはは。ありがとうね~」
問題など抱えていなさそうな明るい返答に、逆にハラハラする気持ちを抑える。夏休み期間とはいえ開館すぐの館内に人は少ないので、遠慮なくカートを押しながら棚の間を進むことにした。
対象のほとんどを占める小説コーナーでの配架が終わり、人も増えてきたので一旦カートをカウンターの近くまで戻した。残りは少しずつ抱えながら運べば事足りるだろう。
数冊手に取り、背表紙に貼られたラベルを元に本の在るべき棚を目指す。
YA──ヤングアダルトコーナーのようだ。邪な大人には一瞬ドキリとするジャンル名だが、ヤングアダルトとは児童文学と一般文学の境、いわゆる中高生向けの本に相当する。この図書館では絵本など児童向けの本を扱うコーナーは別フロアに存在しており、少し対象年齢の上がるヤングアダルトコーナーはこの一般資料室の隅、ちょうど貸出カウンターの対極の位置に置かれていた。
このコーナーには学習漫画の類も置かれているため何かと荒れやすく、ついでに書架整理もしていくことにする。
利用者の推定年齢の影響で他より低めのものが使用されている棚の前で屈み、並ぶ本の背表紙を睨みながら格闘していると、背後に人の気配を感じた。利用者優先だ、と立ち上がろうとした時。
「九重さん」
左の耳朶を打ったのは、吐息交じりの聞き覚えのある声だった。
「立花さん……!?」
珍しく上から降ってくる少女の声に驚きながら小声で振り返ると、立花さんは私服姿だった。前回出会った際に制服だったためか、大きなフリルで飾られた白いブラウスに膝下まで長い色の濃いロングスカート姿は、幾分大人っぽい印象を受ける。
「ふふ。こうやって九重さんを見下ろすと、なんだか思い出しますね」
いたずらっぽく声を抑えて笑う立花さんの言葉に、何と言われずとも苦い記憶が呼び起こされる。
「えっと、この棚に用事……?」
タイミングよく周囲に人はいないため、話し声がすぐには迷惑にならないだろうと、声量には気を配りつつ訊ねてみる。
「そういうわけでは……。本を探してるんですけど、どのコーナーにあるのかちょっとわからなくて……」
なるほど。確かに図書館の本というものは、意外な所に分類されていたりする。占いの本が心理学の棚とエンタメ棚に点在していたり、本屋ではこのコーナーにあったのに……なんてこともざらだ。
「なら、今カウンターに居る司書さんに訊いてみるといいよ」
足腰を伸ばしながらゆっくり立ち上がりつつ、貸出カウンターの方を見やる。先ほどの女性司書である先輩がパソコンと向かい合って業務に取り組んでいるようだ。
立花さんは首をかしげて、不思議そうに呟いた。
「九重さんは司書じゃないんですか?」
「ハハハ……。俺は主に受付と書架整理とか雑務やってる、雇われの一般職員。司書の資格は持ってないよ」
図書館司書は、図書資料の発注から貸し出しまで本の管理全般を担い、図書館業務の全てを行う国家資格の必要な役職だ。図書館の運営には、司書資格を持つ者が誰かしら勤務していることが絶対条件となる。
職員全員が司書資格を持つ図書館もあるのだろうが、こんな地方の市立図書館が司書資格を持つ職員ばかりで成り立つはずもなく、有資格者は限られた人数しか在籍していない。
「今時間空いてそうだし、行ってみな。優しく教えてくれるよ」
相変わらず人に話し掛けるのが苦手そうで緊張している様子の立花さんの背を押しつつ、俺は配架作業に戻ることにする。
しばらくして、一先ず返却本を並べ終わった頃。書架整理する俺の肩が控えめにつつかれた。
何事かと思えば、そこには例のごとく立花さんが居る。その手には、数冊の本が抱えられていた。
「本、見つかったんだ」
小さく話しかけると、立花さんは背伸びをして手で隠すように俺の耳にその柔い口元を寄せる。
「はい。司書さんってすごいですね。読みたかった本以外でも、同じテーマの本を紹介してもらえて大発見でした」
にこにこと微笑む立花さんが嬉しそうで何よりだ。
しかし、立花さんは耳打ちが癖なのだろうか。いくら場所が場所とはいえ、そこまで近寄らずともささやき声で充分会話はできるのだが。
「でもやっぱり、図書館ってお喋りが聞こえないから余計に、話しかけるのって勇気が要りますね……。……九重さんだったら緊張しないんですけど」
いつの間にやら、この子にとって俺はかなり気安い間柄になっているらしい。……いや、初対面があれだったから、最初から年上の威厳が無さ過ぎてハードルが低いのかもしれない。
何はともあれ、間接的とはいえ立花さんの手助けが出来たようで、俺としても喜びを感じられた出来事だった。
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