第2話


 心に引っ掛かるものを抱えたまま、それでも日々は過ぎて行く。

 さらに一週間後。俺は再び、水やり当番の順を迎えていた。

──同じ失敗は繰り返さねぇ!

 と意気込んだ俺は、今日はしっかりと水分補給をし、自前のキャップを被って来た。

 おまけに、路面に蓄積された一日の熱量が襲ってくる前回とは違い、現在は日が頂点に達する前の午前八時。開館時間の九時半に先んずる作業だ。

 寝起きの植物を叩き起こすように水を浴びせるのは、当の花たちがどう感じるかはともかくとして、俺としては雪辱を果たした清々しい気分である。

 そんな調子で滞りなく敷地内の花壇や植え込みに水を撒いてると、段々と太陽の下で空気が熱を持ち始めて来た。

 じっとりとした暑さに汗が滲み、真夏の朝は短いなと骨身に染みる。

──そろそろまた水飲んどくか……。

 ホースの先端の散水ノズルに掛けた指を外し、首に巻いておいたタオルで汗を拭う。

 その時、ふと背中の腰の辺りに何かが触れた気がした。

「あ、あの……」

 風に揺れる木の葉のさざめきより遥かにか細い、小さな鈴の音のような声が遠慮がちに鳴る。

 驚いて振り向くと、うっかり腕が当たってしまいそうなほどすぐ近くに、女の子が一人立っていた。

「ぁえ!?」

 間抜けな感嘆詞を飛び出させる俺を前に、涼しげな白いセーラー服を纏った少女は伸ばした手をしまいながら恥ずかしそうに俯く。

 間違いない。俺を助けてくれたあの子だ。

 まともに向き合うのは初めてだが、例え二文字の連体詞であろうと、もうこの声を忘れるはずもない。

「え、っとその……」

 口を開いた少女の続く言葉を待つ。

 しかし、俺に話しかけたはいいものの気恥ずかしくなってきたのか、少女の顔は暑さで誤魔化しきれないほど段々と赤く染まってきた。

「この前、倒れた俺を助けてくれた子だよね?」

 問い掛けると、少女は不安げなその瞳を俺に向けてくれた。

 やはり相違ないようだ。

「あの時は本当にありがとう。……やっと言えたよ」

 ただ一言。たった五文字を伝えられたことで、ずっとつっかえていたものがようやく取れた気がした。

「いえ、こちらこそ。お元気そうで、よかったです」

 ほっとしたように返す少女に、ふと疑問に思う。

「図書館まだ開いてないけど、今日はどうしたの?」

「今日はこれから学校に用事があって……。その前に本を返しに来ただけなので」

 言いながら少女が指し示した先には、入り口の側に置かれた図書返却ポストがあった。開館時間内にカウンターに来られない場合などに、郵便ポストのように本を入れると図書の返却ができる物だ。

 なるほど、と思う。この図書館は街のど真ん中、敷地を出ればすぐに交差点があるような場所に位置する。

 あの日も制服姿だったのは、学校の帰りだったのだろう。

「それで俺が見えたから声掛けてくれたんだ」

「……はい」

 ぶっ倒れた俺は、安否が気になるほどよっぽどな状態だったらしい。

 再び顔色に照れを滲ませる少女は、人に話し掛けるのが苦手であろうことが見て取れる。にもかかわらず、俺を気にかけてわざわざ声を掛けてくれたのだから、彼女の優しい人となりがよくわかった。

 ふと、思いついた。

「学校って飲み物持ってっても平気?」

「ジュースじゃなければ大丈夫ですが……」

 目についたのは、図書館敷地内の隅に置かれた自動販売機だ。

「ちょいこっちおいで」

 自販機の前に少女を呼びながら、作業着のポケットに突っ込んでいた五百円玉を自販機の硬貨投入口へと入れる。

 適当にミネラルウォーターのボタンを押して一本買うと、それを下の取り出し口から取り去ってから少女に言った。

「好きなの買っていいよ」

「えっ!?」

 出会ってから耳にした中で、最も大きな声量だった。

「いや、先に飲み物奢って貰ったのは俺だからね。成人してる男が制服着てる学生に奢られっぱなしはカッコつかないから、俺の個人的な名誉のために貰ってくれ」

 そこまで言うと、少女はおずおずとボタンを押した。今回はスポーツドリンクではなく、CMで親しみの深い緑茶飲料だ。

「これでやっと、君との貸し借り無くなったかな」

 緑茶のペットボトルを回収する様子を見届けて言うと、少女は顔を上げて俺の目を射抜くように見つめた。

「……立花です」

「ん?」

「立花葵、です。私の名前。……九重ここのえさん、ですよね」

 目の前の女の子の口から、予想外に出てきた自分の名前に呆気に取られる。

 驚いて間抜けな顔で硬直する俺に、少女──立花さんはおろおろと不安そうに慌て出した。

「くじゅう、さん……とかでした……?」

「ここのえで合ってるけど、なんで俺の名前……」

 いや、と思い直す。

 そういえば、俺の方は全く認識出来ていなかったが、立花さんは俺の顔を覚えていたはずだ。この前のカウンターでのやり取りの際、目の前の男が例のお騒がせ野郎だということを彼女は気づいただろう。

「あ。名札か」

「はい……」

 今は付けていないが、館内では苗字の書かれた名札を首から下げている。目に入ったのなら知ることが出来るだろう。

 お互い名前を知れたところで、登校途中の子を長く引き留めてしまったことに気が回る。

 そして俺の方は職務中である。もしかしなくてもこの時間はサボり同然だ。

「やば。ごめんね引き止めちゃって」

「いえ! お茶、ありがとうございます」

 相変わらず礼儀正しくお辞儀とともに礼を述べる立花さんは、身軽な足取りで学校へと続く道に踏み出した。

「じゃあね、立花さん。気を付けていってらっしゃい!」

 徒歩登校らしい去り行く立花さんの背中に声を掛けると、少し遠くで紺色のスカートが映える白いセーラー服が再び振り向いて軽い会釈だけ返してくれた。

 なんとも爽やかな気分で職場へと向き直った俺は、開館時間までにやらなければならない外作業を慌てて再開する。

 よくよく考えると、仕事をサボってこんなところで制服の女の子と喋っている姿は、上司に見られたらだいぶ問題ではないか、と不安に駆られながら。



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