第1話


 暑い。本当に暑い。

 なぜこんな灼熱の中で、俺は焼け付くようにべた付いたホースを持って水を撒いているのか。

 手元から溢れ出るそれなりにぬるい水のシャワーを、心地よく浴びる花壇の花たちすら疎ましくなってくる。


 時は八月。頭上は晴天。

 目の前に広がり、燦燦と振り下ろす陽の光をくらくらするほど照り返してくるのは赤いレンガタイル。

 なんとここは、図書館の入り口である。

 新人職員である俺が、何故真昼間に花に水を遣っているのかといえば、ただの水遣り当番だからに他ならない。

 図書館という建築物の周りは、何故かやたらと植物を飾ったり植えたりしているのだ。しかしこんな田舎の市立図書館で、花の世話をする人間を個別に雇うことはまず無い。もちろん俺ら職員で持ち回りだ。そして正面玄関を前に、打ち水をすることも兼ねている。

 打ち水をする。つまり今は夕方だ。陽は沈み行こうとしているはずなのだ。

「なんで夕方でこんな暑いんだよ……」

 思わず出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。あまりのガラガラ声に唾を呑み込むが、潤うはずもない。反して、拭った汗が嫌に冷たく感じる。


 未だ高い太陽が、一際眩く輝いた気がした。

 目が霞む。

 どうしてだ、と疑問が浮かぶ前に、視界が酷く歪んだ。

──いや、傾いてんのは俺か。

 辛うじて働く頭で考えながらも、体は無意識にその場に膝を突いていた。

──やばい。体は動いてないはずなのに、すっげー視界が揺れる。

 一致しない視覚と触覚に今にも意識が飛びかけている最中、もうまともに認識する力を失った眼前に人影が一つ駆け寄ってきた。

 血の気の引いた俺の顔を、覗き込んでいるのはなんとなく分かる。口元が動いている気がする。おそらく何か声を掛けてくれているのだろうが、もう俺の頭にはまともに届かなかった。

 返事もできないでいることを察したその人物は、くずおれる俺の右腕を抱え込むように両腕で掴むと、懸命に引いて行く。

 眼下に見える纏められた黒く長い髪と、陽の下で眩しいほど輝いて見える白いセーラー服で、ようやく気が付いた。

──女の子、か?

 この近所に建つ高校のもので相違ない制服を纏ったその少女は、情けなくふらつく足元の覚束ない二十代の大の男を日陰へと誘導してくれる。そのまま地べたに座り込んだ俺の肩を、様子を伺うように随分と細いその指先で触れて微かに揺すった。

「だいじょうぶですか?」

 右耳のすぐ近くで声がする。

 ようやく俺の頭に音として届いたその声は、驚くほど澄んだ、しかしか細い音色をしていた。

 あまりに儚げな美しさを纏う響きに、いっそ天からの迎えかと勘違いしかける脳を叱責し、どうにかこうにか首を振って反応を返す。

 少女は見るからに大丈夫ではない俺を見て、右肩に掛けたスクールバッグの辺りから何かを取り出す動作をした。

 次の瞬間、驚いて思わず肩が跳ねる。汗ばんだ首元に、ひんやりと水の滴る冷たい何かが宛がわれたからだ。

「これ、さっきそこの自販機で買ったもの、なので」

 促されるまま力無い右手で受け取ると、それは知らない人はそうそういない彼の有名なスポーツドリンクのペットボトルであった。

「えっと確か……。首と、腋と、太ももの付け根の辺りを、冷やすといいかもです」

 身振り手振りを付けて説明してくれているようだが、俺のぼやけた視界ではよくわからない。

 聞こえづらいと思われたのか、反応の鈍い俺を見て、少女は再び耳元まで近づいて口を開いた。

「人を呼んで来るので、飲めそうだったらそれ、飲んでくださいね」

 言うや否や、紺色のスカートを翻して少女は図書館の中へと駆け込んだ。少女の開いた自動ドアから、館内からエアコンの冷気が流れてくる。

 親切な少女の有難い贈り物を首元に当てると、確かに少し楽になった気がした。

 首筋を伝って脳まで冷やす心地に癒されながら、冷静に動き始めた頭の中で、ついに現状の自分について気が回る。

「俺、情けねぇ……」

 項垂れた頭の上を、日暮れを目指し少し下がった太陽が容赦なく照らしつけた。



 ▼



 あれから数日。

 本のページを捲る音が微かに聞こえるだけの、静かな図書館内。

 その貸出カウンターの内側で座る俺の視界の隅には、カバーを身に着けたスポーツドリンクのペットボトルが、失態を忘れさせまいと訴えかけるように鎮座していた。

 館内では、一部のスペースでのみ飲料を飲むことが許されている。先日の俺のやらかしにより、細心の注意を払うとの前提の元、職員も特定の場所に限り飲料水の持ち込みが許可された。


 あの後、何歳も年下であろう通りすがりの女学生に介抱された俺は、彼女の呼んで来てくれた職場の同僚によって職員専用の休憩スペースに担ぎ込まれた。

 貰った飲料のおかげで喉に潤いを取り戻し、救急車を呼ぼうとする肩を貸してくれた先輩職員をどうにか止めることに成功した頃には、助けてくれた少女はとっくに帰った後だった。

──お礼言い損ねたな……。

 などと感慨に耽る間もなく、母に叱られる幼子のように年配の女性職員から「水分補給を怠らない! 屋外に出るときは熱中症に気を付ける!」との言葉を賜り、言いつけを守って今こうしている次第である。

──ここに座ってると、外の気温のこと頭から抜け落ちるんだよなぁ……。

 暑すぎず、寒すぎず。館内のエアコンは、ガンガンに効いているわけではない。

 涼しくはあるが常にどっちともつかない半端な温度設定の中で作業をしていると、外に出た時の落差を急激には感じづらく、つい油断してしまっていた。

 物思いに耽っていると、貸出カウンターの前に人が立った。

 無言で置かれた数冊の本。

 その上には貸出カードが既に添えられていた。

「カードお預かりします」

 流れ作業で、貸出カードと本に付けられているバーコードを機械に通して行く。

 新刊コーナーに置いてあった新作の青春ものの小説の下に重ねられていたのは、人体に関する科学系の本と古典の翻訳本だった。

「貸出期間は一か月ですが、こちらの本だけ、新作のため返却期限が一週間後になります」

 レシートを挟み込み、積み上がった本を差し出す。

 あまり利用者の顔などまじまじと見たりはしないため、そこでようやく相手が若い女性であることをまともに認識した。

 普段この図書館の利用者の多くは年配やご老人のため、今が夏休みの最中であることを実感する。

 その彼女は、受け取った本を両手で抱えると一言呟いた。

「ありがとうございます」

 図書館という話し声が制限される空間でなければ、聞き逃してしまうほど小さな声だった。

 去って行く華奢な背中に、感謝の言葉を添えてくれるとは俺と違って礼儀正しい子だなと感心したところで、小さな違和感が去来する。

──今の声……。

 思い出す。

 その声を、俺は知っていた。

「〜〜〜〜!!!!」

──俺を助けてくれたあの子だーーーー!!!!

 静粛なる館内で、上げられない叫びを押し殺す。

 あの時は制服だったため、先入観が強く、まったくもって気が付かなかった。

 手を伸ばそうとも、もう彼女の姿は見えはしない。

『ありがとう』。彼女が掛けてくれたそれは、俺が返すべきはずの言葉だった。



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