泡沫の幻想世界

 現実世界に意識が戻る。


 同時に、人格が半分だけ僕にも渡された。


 動くのは右半身。左半身は、多分だが響くんが動かすのだろう。僕の意思ではピクリとも動かない。


 チラリと心愛を見ると、彼女の右目は不思議な色に輝いていた。


 彼女の右目が、2つの色に明滅していたのである。


「不思議な感じ……だね?」


 僕と同じように、人格を半分にしているのだろう。


 不思議な感じで瞳が明滅している理由。これはおそらく、彼女たちが主に使うのは右半身だから、人格のベースが右に強く出るのだと思われる。


 本当に不思議な光景だが、恐怖は感じなかった。


「行こうか」


 響くんが口を開く。間違えなく僕の声なのに、まるで僕が喋っていないみたいだ。


「……うん。行こう」


 今度は正真正銘僕の声。もう決意は固まった。早く奏でようではないか。


 心愛の方も、楽譜の裏に意味深な形で置いておいた画板と白紙。そしてペンを手に取っている。


 準備は万端らしい。彼女は琴葉ちゃんを想起させる笑みを浮かべた。


 1つ頷くと、僕の左手が動き出す。


 低音域がまずは曲の形を作り出した。周波数の関係上、どうしても耳には残りにくいはずの低音域であるが、響くんが弾くとそれは一気に毛色を変える。


 儚くも美しい幻想世界。それを思わせるような音色。聴くだけで泣き出してしまいそうなぐらい、静かで綺麗な音色だ。


 こんな表現ができるのは、先にも後にも響くんだけだろう。指先1つで、あっという間に会場の空気を支配してしまった。


 だが、聴き惚れている時間はない。


 僕も右指を動かし、高音域で彼の作り出した幻想世界に彩りをつけていく。


 相変わらずの、一瞬の気も抜けない恐ろしい楽譜。しかし、今日この瞬間だけは、僕は心穏やかにこの楽譜を演奏していた。


 泡のように今にも消えてしまいそうな淡い幻想世界が、少しずつ形をハッキリと現していく。


 そこに広がるのは、誰もが悲しまない理想世界。多くの人が夢に見て、そして幻だと諦める理想世界であった。


 そんな世界の中心に広がる大草原と、立ち並ぶ満開の桜の下。そこにポツリと置かれたピアノを、僕らは弾いている。


「ねえ、お兄ちゃん」


 彼が話しかけてくる。


「楽しいね。とても」


……ああ、そうだね。楽しいよ。とても。


「生きてる間に、お兄ちゃんと出会いたかったな。こんなにも楽しく、そして幸せな連弾ができるなら」


 響くんの言いたいことは、僕には痛いほど分かる。なぜなら、僕もこの上なく楽しんでいるから。


 でも、それは少し違う気がした。


 彼の心臓を受け継いだから、僕はこうしてこの場に立てているのだ。


 1つでも運命の歯車が違えば、この素晴らしい連弾は存在しない。それは、間違いない事実なのである。


「運命には、基本的に人間は逆らえない。生きている間に、僕は響くんに出会うことは絶対になかったと思う。君が生きていれば、反対に僕は死んでいるはずだから」

「……うん、そうだね。神さまと運命って残酷だから、お互いの共存を許さないと思う」


 表裏の存在なのだろう。僕たちは。


 だけど。だからこそ。


「だからこそ、本来は出会うはずのない君と。こうして連弾できるのが楽しい。響くんの想いが生み出した奇跡の時間だからこそ、こんなにも幸福を感じるんだと思うよ」


 人の想いは運命すら変える。交わるはずのない僕と心愛が、響くんと琴葉ちゃんの想いの力によって、偶然にも出会えたように。


 少し驚いた様子の響くん。しかし、すぐに笑みを浮かべた。


 どこか消えてしまいそうな笑みではない。確かな存在を感じる、花のような笑みを。


「そっか」


 一段と、響くんが奏でる低音の深みが増す。


「僕の心臓を受け継いだのが君で、本当に良かった」


 幻想世界の美しさも、時間の経過と共に増していく。


「心残りは、もうないや」

「……絵の話はもう良いの?」

「隣で琴葉ちゃんたちが描いてくれてるじゃないか。その絵もほら。こんなにも美しく素晴らしい」


 チラリと心愛の手元にある紙を見れば、そこには目を疑うような凄まじい絵が世界を広げていた。


 儚くも美しい。消えそうだけど確かに残っている。そんな僕らの演奏を、モノクロにも関わらず色鮮やかに表現している。


「凄い……」

「琴葉ちゃんの集大成とも言えそうな絵だよ。これまで見た、僕の演奏を描いたどの絵画よりも素晴らしい。まるで、僕と琴葉ちゃんが確かに生きていた。その証を示すかのような絵だ」


 でもね、と響くんは前置き、少しだけ寂しげに笑った。


「心愛お姉ちゃんからすれば、きっとこの絵は通過点にすぎないんだ。なぜなら、生きる限りは必ず腕が上達するから。だから、これから先。何度も何度も、飽きるほど。最高を更新する絵をお兄ちゃんは見ることができる」

「響くん……」

「少しだけ羨ましいかな」


 ずっと。彼に対して僕は、どこか神格めいた何かを感じていた。


 神さまが直々に才能を与えた、本物の神童であると思っていた。


 でも、実際は違う。こんなにも違う。


 人間なんだ。彼も。


 年相応の、人間だったんだ。


「人間なんだね。響くんも」


 ポツリと言葉が溢れる。


 それとほぼ同時に、急速に泡沫の幻想世界は収束を始めた。


 曲の終わりが近いらしい。


「そうさ。僕は人間だよ。どうしようもないぐらい、人間さ」


 色を失っていく世界。創造主であり、神さまである響くんが己を人と認めたことで。世界は崩れていった。


 でも、ちっとも嫌な感じはしない。


「幸せな夢や幻は見せられる。でも、そこまでだ。僕は神さまじゃないから。人間の本質的な部分は変えられない」


 低音と入れ替わるようにして、今度は高音域が色を増した。現実世界への回帰を遠くから願う、誰かの声のように。


「でも、お兄ちゃんは変えたよね。穏やかではないけど、ついさっきも変えた。確かな現実に残る幸福を届け、荒んだ心愛お姉ちゃんの心を救った」


 低音域が徐々に聴こえなくなってきた。高音域に掻き消されるかのようにして。


 夢の終わりを。幻の終わりを。静かに彼が告げている。


「幽夢の奏者だと自身を卑下する必要なんかない。君は、正真正銘本物の……」


 砕け、そして崩れ。もう形すらも残していない幻想世界。


 最後に残ったのは、極色彩の小さな小さなシャボン玉。


「無限の奏者だ」


 そのシャボン玉も。空虚な音を鳴らしながら、儚く砕け散った。


 シャボン玉が砕け散ったと同時に、世界が一転する。


 上も下も。前も後ろも。右も左もない。ピアノも消えた。本当に何も存在していない、真っ白な世界が、視界いっぱいに広がっていた。


「心太さん」

「心愛。君か」


 隣には、さっきまでの幻想世界では見えなかった心愛の姿がある。


「響くんはいるのかい?」

「うん。お兄ちゃんの真後ろに。あ、でも振り返らないでね」


 言葉通り、響くんの声は背中側から聴こえる。


 咄嗟に振り向こうとしたのだが、それよりも早く制止されてしまった。どうしたのだろうか、一体。


「琴葉ちゃん。貴女もいるの?」

「もちろん! でも、振り返ったらダメ。そのままでね」


 思わず2人で顔を見合わせる。


 僕も。そしておそらくは心愛も。現状を全く理解できていない。


「ここは、お互いの精神世界が入り混じった空間だよ」


 なるほど分からん。頼むから詳しく説明してくれ。


「不安定な世界だから、間違いなくすぐに壊れちゃうけど。でも、これが最初で最後の対話になると思うな」


 置いてきぼりにされる中、彼らはお構いなしに口を開くのだった。

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命のカケラが結ぶ恋 へったん愛好家 @Hetzer999

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