息吹く琴

 顔が熱い。ええ、それはもう熱いですよ。


 こんな大勢の前で、自分から熱烈なキスをしてしまったんですからね!


 彼の演奏があまりにも心地良すぎて、私の気分も最高潮になっていたようだ。恐るべし、心太さんの演奏。


「珍しいね?」

「……あまり言わないでください。あと、あまり変にからかわないで。拗ねますから」

「そっか。なら、何も言わない」


 ああ、もう。本当にこの人、優しすぎてカッコよすぎ。


 胸の高鳴りが一向に収まらない。こんな人前でイチャイチャするのは柄ではないのだが、ちょっと今日だけは別だ。もっと存分に見せつけてやろう、だなんて思ってしまってる。


『うわあ……すっごい熱々なカップルだね!』


 言うなそれを。悪い気は全くしないし、めっちゃ自覚あるけど、改めて口にされるとものすっごく恥ずかしいから。


 相も変わらず茶化してくる琴葉ちゃんに頭を悩ませながらも心太さんのことを見ていると、心太さんは楽譜をはらりとめくった。


 そうか、まだ終わってない。観客も、何なら私も凄まじい充足感を感じてるけど、まだ楽章は残っているんだ。


「ねえ、心愛。ちょっと頼みたいことがあるんだけど」


 そう聞いてくる心太さんの顔は、いつにもなく真剣な表情である。


 キリっとしたお顔も素敵……じゃなくって。


「はい、何なりと」

「実はさ。これからの楽章を、琴葉ちゃんベースで聴いてもらいたいんだ。僕も人格のベースを響くんにする」


 ああ、なるほどと。私はこの瞬間、彼がどうしてこの楽章にこんな表題を付けたのかを理解した。


 いや。正確には響くんが、か。


「分かりました。残りの演奏が終わるまで、変わりますね」


 キョトンとした雰囲気を出している琴葉ちゃんは、まだこれから何が起こるのか分かっていないようだが、私は構わず人格を琴葉ちゃんへと譲った。


 人格を譲り、少し経ったところで彼女も何かに納得した様子である。私には分からないけど。


 心太さんも人格を響くんに譲ったらしい。姿形は心太さんと変わりないけど、纏う雰囲気が全く違う。


 会場がどよめいた。一変した心太さんの雰囲気に呑まれるような形で。


 これまで数度、響くんの人格が表面に出た心太さんを見てきたが、その度私は思う。


「なんて儚く今にも消えそうな笑みを浮かべる人なのだろうか」と。


 見ているだけで思わず涙を流してしまいそうなぐらい、彼が浮かべる笑顔は儚く美しい。


 そう。まるで、夢か幻でも見ているのかと錯覚するぐらいに。


 響くんは、琴葉ちゃんに向かって1度笑みを浮かべると、静かに鍵盤に指を置いた。


 途端、心太さんとはまた異なる独特な世界が広がる。


 青々と広がる澄み切った空。だけど、ほんのり揺らいだ水面のようにも見える。ちょっと不思議な空だ。


 青空の下に、地平線の果てまで広がっているのは大草原。そして、中心にポツンと設置されているピアノ。


 そのピアノを弾いている人物の姿を見て、私は強烈な既視感を覚えた。


 服装は入院患者が着るような患者衣だ。身長だって少し小さく見える。だけど、初めて顔元のモヤが晴れた状態の響くんの姿は。


「心太さん……?」


 恐ろしいぐらい、心太さんとそっくりだった。


 まるで、現在の心太さんをそのまま幼くした姿を投影したかのような。それくらい似ている。


 そして。そんな彼の元へ、フラフラとした足取りで歩み寄る人がいる。その人の姿は。


「私、なの?」


 今度こそ見間違えはなかった。私自身を見間違えるほど、視力はバカになってはいない。


 患者衣を着た小学生ぐらいの姿の私が、そこには確かにいた。


「ウソでしょ。そっくりさんだ……」

「え、心太さん?」


 不意に横から声がしたのでそっちを振り向くと、私が見慣れた心太さんその人が、呆然とした様子で佇んでいた。


 高校生の私たち。そして小学生ぐらいの私たちに似た誰か……と言うか、十中八九で響くんと琴葉ちゃん。この4人が今、全員が全く同じ場に立っていることになる。


 状況が完全には飲み込めない中、響くんと思われる人物が、ピアノを弾きながら私たちへ視線を送ってきた。


「近くへ来てほしいってことですか?」

「分からない。でも、君がそう言うとそんな気がしてきた」

「……もう、こんな時にまで」


 嬉しい。すごく嬉しいけどね。この場でそれを言いますかい?


 必死にニマニマとしないように必死な私をよそに、心太さんはゆっくりとピアノの方へ歩み出した。


 私も追従する。ピアノとの距離が近づくごとに、古傷である手術跡が疼いて不思議な感じを脳に届けてくるのだが、構わず足を動かす。


「やあ。こうして顔をしっかり見て話すのは初めてだね」


 ピアノに数メートルぐらい近づいたところで、響くんが口を開いた。


 声の感じは全く心太さんと違う。それに、よくよく顔を見てみると、細部は心太さんとかなり異なっていることが分かった。遠目だと本当にそっくりなのだが。


 ちなみに、心太さんの声は聴くだけで優しさに包み込まれるような感覚を得る。対する響くんは、なんだろう。水晶だとか、ガラス細工だとか。そんな感じのものを想起させるような声である。


 まあ、あれだ。端的に言ってしまえば、すごく儚さを感じ察せる声質ってことだ。


「もう! いつもいつも、響くんは急に何かを始めるんだからさ……」

「あはっ、ごめんね変わらなくって」


 そう咎める琴葉ちゃんも、目は優しく笑っている。


 本当に大好きなのだろう。生前、神さまの生まれ変わりとまで称された響くんとの格差に悩みながらも、命の灯火が消える日を迎えるまでそのまっすぐな愛情を変えないほどに。


「で、いつ話すの? こうして2人を呼んだ理由」

「ああ、そうだった。久しぶりにこうして琴葉ちゃんと話せたもんだから、つい本来の目的を忘れそうだったよ」


……心太さんの恋人キラー要素は、多分だけど響くんから受け継いだものなんじゃないかな。


 顔を赤くして目を逸らしている琴葉ちゃんの隣に立ち、彼女の頭を撫でながら思いっきり頷いてしまった。


 分かるよ、すっごい分かる。恥ずかしいと嬉しいがごちゃ混ぜになって、恋人の顔をマトモに見れない感じ。


「あれ、何か悪いことしちゃったかな」

「さあ……」


 向こうは向こうで意気投合している。やっぱり似た者同士なのだろうか。


「とにかく。僕がここに君たちを呼んだのは、結構ありきたりな理由だよ」


 相も変わらず素晴らしい演奏を続けながら、響くんが言葉を紡ぐ。


「まず、お礼がしたかったんだ。2人に」


 お礼? 響くんの書いた楽譜を引き継ぎ、それを苦心の末に完成させた心太さんはともかく。私は彼に対し、何かしたっけ?


 ダメだ、全く見当がつかないぞ。考えても考えても答えは見えない。


 思わず頭を抱えてしまった。ごめんね、こんな情けないお姉さんで。


 だが、響くんは微笑みを崩さない。ピアノを弾きながら。


……さっきからスルーしてたけど。平然と超絶技巧を用いてピアノを弾きながら、私たちと普通に会話しているの凄すぎるな?


「君がいてくれたから、お兄ちゃんはあんなにも素晴らしい演奏ができたんだ。僕なんか足元にも及ばないぐらいの演奏をね」


 そう言って少し笑みを深くした響くん。本当に心から嬉しいのか、その瞳の奥まで曇りのない喜びの感情で染め上げられていた。


「人の心を揺さぶる楽譜を生み出し、そして演奏だなんて。ましてや、自身の想いを過不足なく他者へ音色で伝えるなんて、そう簡単にはできないんだ。それを彼はやってのけた。でもさ、それができた理由はね」


 左手のみで鍵盤を叩きながら、響くんは私を右手で指差した。


「私……?」

「そう、貴女。他でもない君の存在があったからだ。でしょ? お兄ちゃん」


 心太さんの方を見る。


 彼の表情を言葉にすると、ほんの僅かだけ悲しさを含んだ笑みである。そんな、ちょっと不思議な表情だ。


「そうだね。心愛がいなければ、あんな楽譜は作れなかった。演奏もつまらないものになったと思う。でも、君とこれからの日々を永遠に歩みたいから。それを皆に意思表示するため頑張ったんだ。その結果があの演奏さ」


 全て、私とこれから歩みたいからだと。そして、暗喩的にあの素晴らしい演奏はあくまでも結果論だと、彼は言ってのけた。


「本当に素晴らしかった。お姉ちゃんも、それに琴葉ちゃんも。みんなが同じ感想を言うと思う。耳が恐ろしいぐらいに肥えた3人が、だよ」

「……うん、確かに。私にとっての1番は響くんで変わりないんだけど、それが一瞬揺らぎそうになるぐらい凄い演奏だったと思う」


 心太さんの瞳から、ハラリと1滴の涙がこぼれ落ちる。


 慌てて駆け寄るが、彼は静かに首を横に振って微笑んだ。


「嬉しいんだ。とても」

「嬉しい、ですか」

「これでやっと、あの楽譜を皆の前で弾く資格を得られた。僕と響くん。2人で」


 ずっと悩んでいたのだろう、彼は。


 神童とまで言われた少年から、あまりにも大きすぎる遺産を引き継いで。プレッシャーで押し潰されそうだったのだ。


 かつて、耐えきれなくなって私に訴えかけたほどに。ある程度は吹っ切れても、それは完全ではなくて。未だ心の奥底では疑念と悲しみが眠っていたに違いない。


「資格だなんて。あえてその言葉を使うなら、君に夢を託したあの日から、その資格を持ち合わせていたと思うよ?」

「そうさ、新たに得る資格なんてない。でもね響くん。やっぱり不安だったんだ。僕なんかが引き継いで良かったのかなってね」


 心配性なんだよ、僕って。


 そう彼は言って笑った。


「響くんは何も悪くない。僕の心が弱かったから、こんなに悩んでたのさ。でも、それは今日で終わる」


……耳に入ってくるピアノの音色は、徐々に優しさを帯びてきている。曲の終わりが近いらしい。


 そんな中で、心太さんは響くんの目をまっすぐに見つめて口を開いた。


「これは僕のワガママ。だけど、聞いてくれるかい?」

「うん。何でも言ってよ」


 心太さんが何を言わんとしているか分かった私は彼から目を切り、琴葉ちゃんと向き合う。


「琴葉ちゃん。おそらくだけど、心太さんのことだからさ。楽譜の裏側に白紙が置いてあると思うんだ」

「白紙? ……ああ、なるほどねお姉ちゃん。私、言いたいことが何となく分かったかも」


 心太さんがまずは口を開いた。


「響くん、僕と連弾してくれるかい?」


 私も口を開ける。


「私と一緒に絵を描こう、琴葉ちゃん」


 これが最初で最後だ。多分だけど。


 夢幻の奏者と、完全に覚醒した幽夢の奏者の連弾。


 天才絵師同士が描き上げる奇跡の合作。


「……待ってたよ。君のその言葉。この世の誰もが目を見開くような、素晴らしい連弾に仕上げよう」

「よーしっ、久しぶりに張り切っちゃおうかな! 最高の作品を作ろうね!」


 始めよう。数分足らずの、奇跡の時間を。

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