幽夢の奏者

 ずっと。長いこと、僕は考えていた。


「僕の演奏。その個性って何だろう?」と。


 響くんと邂逅してからは、その疑念はさらに深まった。


 無個性。それがある種、僕の特徴であり個性かもしれないと考える時期もあったぐらいである。


 それが覆ったのはつい最近のこと。何なら昨日である。本当に運命としか思えない形で、それは姿を現した。


 単に「心愛と歩む」と示したいがために、少し格好いい言葉を選んで作った楽章別の表題。


 その第5楽章。何気なく選んだ言葉である「幽夢」こそが、僕の演奏全てを表す言葉だったのだ。


 昨日、僕が「特等席の心愛に最高の演奏を捧ぐ」と決意しなければ。きっと気がつかなかったであろう。


 これまでの演奏で。僕がとても上手くいったと感じる演奏ができたのは、全て彼女が隣にいるときだ。


 出会った翌日、2人であの病院へ足を運んだとき。咲良お姉ちゃんの店に行ったとき。公民館デートをしたとき。


 この全てに、心愛は隣で演奏を聴いていてくれて。僕は、そんな彼女に最高の演奏を届けようと奮起していた。


 この2つの条件が揃っていたから、最初に演奏を聴いたランばあちゃんや院長先生が濁流のような涙を流し、咲良お姉ちゃんも何かを感じ取れたのだろう。


 とある存在をトリガーとすることで発現する個性……だなんて少し厨二病みたいな設定だし痛々しい表現だが、まあ良い。発現する、僕の大事な個性。


 咲良お姉ちゃんいわく、僕は何か条件が揃うと人の心を大きく揺さぶる演奏をするらしい。それも、響くん以上に。


 抽象的な咲良お姉ちゃんの表現。それをしっかりとした言葉に表す。それこそが、「仄かな夢のような映像を視聴者に見せる」演奏なのである。毎回はできないが、これが僕の個性なのだ。


 曲に込められた想いを、まるで我々が朝方見る仄かな夢のように、音で脳に見せることができる。


 だから、僕は僕自身をこう呼ぶことにした。


「幽夢の奏者」


 何となく。本当に深く考えず、何となく選んだ言葉。それがこんな形で僕を表す言葉になるなんて、とても運命的である。


 僕は、例えどんなに複雑な負の感情であっても演奏で表現できる。心愛に捧ぐために演奏をする、ただその時だけ。


 限定的すぎると批判すべきなのか、それとも素敵な個性だと称賛されるべきなのだろうか。僕には分からない。


 ただ、僕はこう思う。


「愛する人をトリガーとするなんて、とてもロマンチックだ」と。


 そんな僕自身を表した表現であるこの楽章は、休むことなくやって来る落ち着いた音色が特徴的だ。


 同時に僕は、この楽章にありったけの感情を込めて楽譜を作り上げた。


 喜ぶも、悲しみも、怒りも。全部、全部詰め込めるだけ詰め込んだ。


 まあ、分かりやすく言ってしまえば「この連弾に込めた想いの総括」と表せるだろう。


 まず表すのは、心愛と引き離されて感じた怒りと哀しみ。


 折角運命の人と巡り会えたのに、こうも他意によって簡単に引き剥がされて。やりきれない感情を、これまでの楽章よりも強く心に宿しながら鍵盤を叩く。


「お前じゃない」

「そうだ、お前じゃない。僕が共に歩みたいと思う人は」

「心愛以外の人は考えられない」

「近づかないでくれ」

「もう2度と、視界に入るな!」


 だが、そんな物悲しい音色はこの楽章ではそう多くない。


 6小節も演奏すれば、そこから先にあるのは正の感情を表した音色群だ。


 正の感情。と言うか、単に心愛への愛情とも言えるだろう。


 これまでとは一転し、明るく華やかで、そして心が踊りそうな音色が会場を包み込む。


 愛情にしては少々重たすぎるかもな、なんて思いつつも僕が抱えている、混じり気が一切ない心愛への純情。そして愛情を表現する音たち。


 アップテンポなリズム。そして数多く配置された音符が、僕の演奏を聴く全ての人の耳を飽きさせない。


 こんなにも愛してるんだよ。こんなにも、僕は心愛を一途に思っているんだ。


「君が好きだ」

「心愛だけを愛してる」

「永遠に一緒が良い」


 演奏を聴く人たちには伝わっているだろうか。僕の想いは。


……いや、そんな心配はしなくても大丈夫だな。もしも仮に、観衆にこの想いが届いていなかったとしても、僕にとってはそこまで大きな問題ではない。


 隣で演奏に聴き入っている心愛。彼女ただ1人に、この想いが届いているならば。僕はそれで良いのだ。


 第5楽章はこれまでの楽章と比べるとかなり短い時間で終わる。それこそ、時間にしたら2分や3分ぐらいだろう。悦に入って演奏していれば、演奏の終わりはあっという間にやってくる。


 残る第5楽章の楽譜は1枚。


 ここから先は、短いながらも響くんが制作した楽譜と似た形の音色がこの世界を彩る。


 アップテンポでせわしない音は落ち着きを取り戻した。だが、奏でる音の数はむしろ増えている。ゆったりなテンポ。そこに限界まで張り巡らされた音の数々。


 視聴者の聴覚が絶対に飽きないメロディーライン。それを届ける代償は、演奏者の腕の寿命と精神。


 腕は軋み、脳はもう限界だぞと叫んでいるはずなのだが、僕の心中はなぜだかとても穏やかだった。


 痛いはずなのに。息をするのだって苦しいぐらいに疲労しているはずなのに。穏やかな気持ちが先行して、無の境地に辿り着いたかのような全能感を僕は感じ取っている。


「はは、凄いな……」


 ピアノの音に搔き消される僕の声。演奏中に声を出すのはご法度な行為なのだが、それでも声に出さずにはいられない。


 どうしてこんなにも、穏やかな心持ちで演奏できているのか。その理由は、もはや僕が口にしなくても分かるだろう。


 上がる口角を直さぬまま、僕はひたすらに鍵盤を叩く。


 心愛が好きだ。心愛を愛してる。世界で誰よりも、君を愛してる。


 説明不要の想いをありったけ込め、1度のミスタッチをすることもなく。僕は、この第5楽章を弾き切った。


 最後の音符を優しく叩き、余韻までもを演奏に組み込み。そして右を向く。


 少し惚けた顔をしてる心愛の顎を軽く右手で持ち上げると、そのまま自身の唇を彼女の唇に触れさせた。


「んぅ……!?」


 流石にビックリさせすぎたかな? 反省はしないが。


 唇をゆっくり離して、キスの余韻を感じながら心愛の瞳を真っ直ぐ見ると、少し潤んでいた。


「ここまでが演奏。これで完成だ」

「……ずるいです」


 唇を尖らせて、ちょっといじけた顔してる君も可愛い。


 髪の毛をクシャっと撫でる。不満顔はまだ晴れないが、目元だけは笑っている。


 大歓声と黄色い声が包むこの会場の音が全く気にならないぐらい、心愛が可愛くて。そして愛らしくて仕方がない。


 もっかいキスしようかな。それともまだ髪の毛を撫で回していようか。そんなことを考えていると、不意に心愛の顔が僕の視界いっぱいに広がった。


 ついさっきまで感じていた、あの唇の感触。それをまた、僕は感じている。


 ほんのり顔の距離が離れたのち、心愛は世界で1番の笑顔を浮かべながらこう言った。


「ずるい人。でも、私もずるい人間なんです。えへっ」


 可愛すぎか。

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