怖かった。とてつもなく、怖かった。


 未だ呼吸を整えている心太さんを眺めながら、私は何度も心の中でホッとする。


 確かに信じていた。私の声で、彼があの世へ旅立つことを防げると。必ず帰ってきてくれると。


 でも、怖いものは怖い。


 もしも。その可能性未来が脳をよぎって。泣きそうになるのを必死に堪えていた。


 彼が存在しない世界なんて考えられないし、そんな世界でこれから先を生きようとも思えないのである。


 だからこそ、しっかりと帰ってきてくれたことは嬉しかった。それと同時に、ほんのちょっぴり怒りも感じたが。


 だから、私は可能な限りジト目を作り。そのまま口を開いた。


「もう、2度とやっちゃダメですよ? すっごく怖かったんですから」

「……ごめん」


 少しプリプリしながら言うと、心太さんはすぐさま謝ってきた。


 一瞬にして毒気を抜かれた私は、1つ大きなため息をつく。


 怒ってはないが、こっちの心労もかなりの物だったのだ。あとでいっぱい労っていただきたい。


 少々焦りながら様子を伺っている心太さん。彼は、まだ私が怒っているとでも思っているのだろうか。


 そんな様子の心太さんが可愛くて、私は思わず目尻を下げて微笑んだ。


「でも、ちゃんと帰ってきてくれて嬉しいです。他でもない私の声で」


 心太さんの顔が少し赤くなった。ペースを握られることが最近は多かったため、赤ら顔はとても珍しい。


 だが、目を逸らしたら負けだと自分自身に活を入れたのか、彼も負けじと口を開いた。


「君とこれからも共に生きたいから。心愛とこれからの人生、ずっと一緒に歩みたいから帰ってきたんだ」

「あの縦読み通りですか?」

「バレてたか」


 しっかり伝わっていますよ。最初に楽譜を目にしたときから。


「心愛と歩みたい」という彼の想いを受け取ったからこそ、こうして私はこの場に立っているのだ。


「私だって同じ想いです。お互いが死ぬその日まで。可能なら、その先の来世でも。貴方と一緒が良い」


 あ、心太さんが少しだけ目を泳がせた。気恥ずかしいようだ。


 そのまま2人だけの世界に入り込んでも良かったのだが、私と心太さんは誰かが鼻をすすった音によって我に返った。


「そうだ、まだ演奏の途中だったね」


 心太さんがまずは言う。


 最後までやり切らねば。この腕が上がらなくなるとしても。


 そんな決意が見え隠れする心太さんに、私も告げる。


「私も手伝います。そこで倒れてる人とは違って、そう沢山は弾けませんけど。でも、貴方の右手の助けになれたらと思ってます」

「そんな気負わないでくれ。君が隣にいると分かっているだけでもやる気が出る。それに加えて心愛との初連弾。これから、とても素晴らしい演奏ができそうだ」


……やっぱり、ズルい。


 楽譜をめくり、次の楽章のページを開く。


 堂々と。そして力強く。表題にはこう書いてあった。


「曙」


 かの有名な枕草子で使われた表現でもあるこの言葉が指す意味。それは明け方他ならない。


 無限とも思われる、憎悪のみで形成された地獄の階段を登りきり、そして訪れる優しい朝日。いや、曙。


 心太さんが左手で奏で始めた低い音色が、段々と明けていく夜を表している。


 第1楽章の物悲しい印象。第2楽章の、心太さんの怒りが噴き上がるマグマと重なるイメージ。第3楽章の心をかき乱すメロディーライン。


 そのどれとも異なる、静かで落ち着いた音色だ。


 やがて心太さんは右手も加え、重厚な音色で曙を表現していく。


 私もそれに合わせ、指1本ずつではあるが音を重ねていった。


 心太さんと名倉詩織による連弾とはまるで比較にならない完成度だろう。専門家や有識者から見れば、この演奏は聴く価値もないものに違いない。


 だけど、周りの評価なんてどうでも良かった。最愛の人と、こうして同じ作業ができる。ただそれだけで良いのだ。


 優しく、そしてゆるやかに流れていく、2人旅の時間。そんな中、心太さんがありったけの想いを乗せて響き渡る音色は、なぜか涙が出そうなぐらいにジーンとするものである。


「見つけた。ようやく君を」

「もう、離れない」


 永久とも思える長い長い階段を抜けて、私のことを優しく抱きしめる心太さんの須縣が、私の脳内には映っていた。


 目の前にある楽譜よりも鮮明に見えるその光景を見て、私は改めて感じる。


「心太さんは凄まじい人なんだ」と。


 自身が心の中に持つイメージを、何1つ間違うことなく正確に。それをピアノの演奏によって、脳内に映像を思い浮かばせることで余さず伝える。


 言葉にするのは簡単だが、それをこんなにも高いレベルで実施できる人間が、いったいどのくらいこの世界に存在するのだろうか。


 少なくとも、私はこれまで心太さんしか見たことも聞いたこともない。


 今にも風と共に消えてしまいそうな儚げな顔で、こんなにも凄まじいことをしている心太さんが私は誇らしく感じる。


 こんなにも素晴らしい彼氏が、私にはいるのだと。こんなにもカッコよく、そして可愛い最愛の人がいるんだよと。今にも叫びたい気分だ。


 そうこうして気分が極限まで高まったからなのだろうか。


 ポロリと。私はごく当たり前のように言葉をこぼした。


「私も大好きです。貴方以外の男を考えられないぐらいに」


 その刹那。脳内に浮かび上がっている映像に急激な変化が起きた。


 映像の中の私が突如動き出し、今呟いた言葉をそのまま口にして。そして、心太さんの唇を奪ったのである。


「へっ……!?」


 あまりに突然の出来事。ピアノの音に掻き消されはしたが、私は思わず声を上げてしまった。


 心太さんも目を見開いている。彼にも、この映像がしっかりと見えていたらしい。


 ほんの一瞬だけ私の方を向いた心太さんは、指は一向に休めず静かに微笑む。


「嬉しい。君と全く同じ想いを持てて」


 映像内の心太さんが口を開く。まるで、私の言葉に答えるかのように。


「僕も、君以外の女性が目に入らないぐらい、心愛のことが大好きだ」


 脳が溶かされそうだ。幸せすぎて。


 多分、私は他者には絶対見せられないぐらいニンマリとした表情を浮かべているのだろう。口角が下がらない。


「幸せです。とっても」


 そんな私の想いを、映像の私がそのまま言葉として心太さんに告げた。


「ああ。僕も、幸せだよ」


 きっと私にしかできない。いや、私たちにしかできない、2人だけの会話だ。


 この光景が他の人にも見えているのは少し恥ずかしいのだが、そんな気恥ずかしさを吹き飛ばすぐらい幸福を感じる気持ちが大きい。


 こんなにも素晴らしい時間が、永遠に続けば良いのに。


 そんな私の願いとは裏腹に、第4楽章は最終盤に差しかかる。


 朝を知らせる鐘の音のように、交互に1音ずつ鍵盤を叩いて。伸ばした音の余韻までも演奏の一部として。


 最後に私と心太さんが指を重ね、同じ鍵盤を叩くことで、この楽章最後の音を奏でた。


 ほんの僅かな時間しか目にできない朝焼けがごとく。あっという間にこの楽章は終わってしまった。ほんの少し、寂しい気分である。


 だが、第4楽章が終わっただけだ。演奏自体はまだ続く。


 楽譜をめくり、次の楽章の表題が目に入ったところで、私は強烈に鳥肌が立つのを感じた。


「まさか……」


 以前、心太さんは響くんという1人の人間をこんな風に評していた。


「夢幻の奏者」と。


 その理由を聞くと、彼はこう述べていた。


「どんな人にも夢を与えられる演奏を行えたけど、彼自身の夢は“死”という出来事で儚くも幻となった。だから夢幻の奏者なんだ」


 儚いものの喩えとして使われる“夢幻”という言葉。それを非常に上手く使い、響くんを表現してるんだなと感じていた。


 だが、同時に1つ気になった。


「心太さんは何の奏者なんですか?」


 夢幻の奏者という言葉のように、何か心に響く表現があるのだろうかと期待して、私はそう聞いたのである。


 しかし、この時の心太さんは困ったような笑顔を浮かべて答えてはくれなかった。


 以来、私はほんのりモヤモヤしながらも日々を過ごしていたのだが……。


「心太さん。これってもしかして……」


 さっきまでは何気なく見ていた文字の羅列。しかし、今ではどうだ。途方もなく大きな意味を持った言葉に見えて仕方ない。


 私の問いに、心太さんは微笑みながら言葉をポツリ。


「これが答えさ」


第5楽章 幽夢の奏者


 直訳すると「仄かな夢幽夢の奏者」だ。


「朝方。寝てるか起きてるか分からないときに見る、仄かな夢のような光景をピアノによって心に映し出させる奏者。それが心太という人間なんだよ」


 鍵盤に指を置いた心太さんが、私の目を真っ直ぐに見た。


「“心太”という人間。その全てを音にしたのがこの楽章だ。そしてこの第5楽章を、僕は君に。心愛に捧ぐ」


 ブワリ。そんな音と共に霊風が吹いた。そんな気がした。


 幽かに蒼く光り輝く心太さんの瞳。吸い込まれてしまいそうなぐらい、とても綺麗な瞳。


 私が心太さんの瞳を凝視したままの状態で、彼は最初の1音を奏でるのだった。

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