永久の階段

 胸の奥がチリチリと嫌な痛みを感じている。


 場所は心臓付近。手術跡が時折出す痛みとは別物だ。表面的な感じではなくて、もっとこう……中の方と言うべきか。


 第2楽章暁月。昇華された僕の怒りと憎しみを、そのまま楽譜に描き上げたものである。


 僕が感じた負の感情は、当然他の人にもしっかりと伝わっているようだ。


 第2楽章が終わる頃には、弾き始めと比べて体育館内のザワザワ度合いが大きくなっていた。


 だが、終わりではない。この程度で終わると思ったら大間違いである。


 怖がらせてしまっているかもしれないが、まだ目を背けないでもらいたいのだ。


 ここからが本番なのだから。


「永久の階段」


 最初と同じように、また低音域をこの章では担当する。


 しかし、この章は第1楽章とは大きく異なる点がある。それは、低音域も高音域と同じぐらいメインを張る場面が多いことだ。


 低音域は高音域のサポートをする。これは偏見ではなく、どんな曲においても非常に多い形だ。


 だが、低音域がメインを張る曲もあるし、何なら低音域と高音域の両方がメイン級の音符をそれぞれ叩き出すものも存在している。


 今回は後者の形を僕は選んだ。


 あえて整合性を取らないような音符の並びをさせたので、この楽章はひたすらに不協和音が続くことが大きな特徴としている。


 この楽章を作るのは、ある意味で1番簡単だった。


 比較的新しい感情である「混沌」と「無」に加え、さらに「僕の想い」を参考としているのだから。


 聴く者を少しずつ不安にさせる旋律を選び、感情を込めて鍵盤を叩けば、哀しみや憎悪を通り越した僕の心中を表現するに至るのである。


「っ、また……」


 名倉さんのミスが増えてきた。もう誤魔化しが効かないぐらい、多くのミスタッチを行っている。


 最も近い距離で僕の演奏を耳にしている彼女は、常に精神攻撃を仕掛けられているに等しい状況に陥っているのだ。


 名倉さんを否定する気持ち。そして僕の負の感情。その全てを耳から情報として取り入れ、脳に記憶させながらピアノ演奏を行う。さぞかし大変なことだろう。


 演奏開始前、僕に告げられた言葉も多少なりとも影響しているのだろうか。


「貴女は第3楽章までしか弾けませんから」


 その第3楽章に、遂に突入した。警戒度も、緊張度も段違いに上がるはずだ。


 余裕のない心。それが命取りとなる。


 楽曲は中盤に差し掛かった。ここからは、題名通りのループに入る。


 やることは非常に単純だ。練習曲ハノンと似ているかもしれない。


 半音含めた4音上がったら弾き始めの次の鍵盤を叩く。4回繰り返したら、それぞれの4音中の最高音と最低音を親指と小指で叩く。そして振り出しに戻る。それだけ。


 なお、不協和音は相変わらずである。ピアノの左半分と右半分。それぞれで、各々が好きなように弾くのだ。


 これまでの不協和音に加え、不可解なリズムと音色が聴覚を襲う。これにより、聴いている側は何とも言えない不安感を募らせるのである。


 弾いている側もそれは例外ではない。


 実際、練習中にこの楽章で指が止まってしまうことが多々あった。やることは非常に単純だが、それ相応の難しさも密かに隠れているのだ。


 ループ回数は驚きの30回。楽譜を見れば、気が滅入ること間違いなしである。全く変わり映えのない同じ音符が、ただひたすら均等にズラリと並んでいるだけなのだから。


「っ……」

「く、またっ」


 僕はここで最初のミスタッチを。彼女も何度目かのミスタッチをする。


 この楽章に限れば、ちょっとのミスタッチぐらいなら不協和音を引き立てる率役者となれるのだが、こちらの心労は半端ではない。


 だが、普通に演奏するだけではダメだ。この楽章で、彼女の心を完璧にへし折るのだと決めているのだから。ちょっとやそっとの心労など気にしている場合ではないのである。


 この曲に込めた僕の想い。それは……。


「お前じゃない」


 ただ、それのみ。


 僕の隣に立ってほしいのはお前じゃない。


 僕が愛している女はお前じゃない。


 そう、お前じゃないんだ。僕が望む女性はお前じゃない!


 心の中が黒く染まっていく。第1楽章で感じていた心の穏やかさも、第2楽章での哀しさと寂しさも。一切合切が消え、代わりに現れたのは全てを塗り潰す黒。


 目の前が少しずつ霞んでいく。楽譜も上手く読めない。


 でも、どうせループなんだ。指の動きは変わらない。見えないところで、別に困りはしないのである。


 音もイマイチ聞き取りにくいのだが、それも無視して僕は指の動きを加速させた。


「お前じゃない。お前じゃない。お前じゃない。お前じゃない。お前じゃない。お前じゃない……」


 口からも僕の想いが溢れ始める。だが、構わない。


 これ以上、もう我慢できなかった。昨日今日。いや、ここ1ヵ月以上。名倉詩織、お前のせいで僕は心愛と離れ離れになったのだ。


 考えれば考えるほど、彼女に対する憎しみが強くなっていく。


 そして、憎しみの度合いに比例する形で僕の指も。また加速していった。


『っ、ダメだ! これ以上速いまま演奏を続けたら、両方の腱が切れる!』


 脳内で反響する、元の心臓主の声。


 だが、止まらなかった。止まれなかった。


 ここで仕留めなければ。終わらせなければ。もう、彼女を仕留める機会は訪れない。そう思っているから。


 仮に腱が切れたとしても止まらないだろう。ピアノがもう2度と弾けなくなったとしてもだ。


 響くんから託された夢を捨てたいわけではないけど、これから過ごす心愛との日々を、僕はどうしてもこの手にしたい。


 彼には申し訳ないが、それでも。それでも、お互いが死ぬまで心愛と一緒が良いんだ。


 ループの終わりも近い。僕はいっそう、これまでの倍を意識して鍵盤を叩く速度を加速させる。


 一瞬だけ隣を見ると、名倉さんと目が合った。


「ひっ……」


 すぐ彼女から目を逸らし、ダメ押しだと言わんばかりに加速していく。


 それに追従する形で、彼女もまた打鍵の速度を上げてきた。


 両腕から嫌な音が聞こえてくる。ミシミシ、ミシミシと何かが限界まで張って今にも千切れてしまいそうな音が。


 それでも動かす。それでも加速させる。


 哀しみを。憎しみを。僕が心奥に持っている、ありとあらゆる負の感情を全て己の力と変えて。


 気がつくと、耳障りな腕の音も。憎き人の演奏している音色も。観客の声も。全部。全部が聴こえなくなっていた。


 吐き出すにも近い僕が奏でる音色。それだけが、この場を冷酷に包んでいく。


 ループの規定回数が終了しても、僕の指はまるで止まる気配を見せない。


 まだ足りない。まだ終わらせるわけにはいかない。あいつの心を完全に折るまでは。



……瞬きを忘れ。そして呼吸を忘れて。まるで機械人形のように指を動かし続けるのを、いったいどれだけの時間繰り返したのだろう。


 もう指先の感覚はないし、目の前だって見えていない。音も聞こえない。


 刻一刻と早さを増す響くんの心臓の鼓動だけが、僕に伝わる唯一の感覚だ。


 感じるのは随分と久しい、死を隣に置いたときに心臓が奏でる早鐘。人としても、ピアニストとしても、その命を刈り取る死神がすぐ近くにまで迫っていることは鈍感な僕でも察せた。


 そんな危険な状態だからこそ、叫び続ける響くんの声が痛いほど耳に入る。


『ダメだ、ダメだよお兄ちゃん! こんなとこで死んだら、恋人さんはどうなるのさ!』


 彼女は悲しむだろう。多分、絵を描けなくなるぐらいには。


『こんなこと言いたくないけど……でも、あえて言うよ! 僕の夢を継いでくれるんじゃなかったの? 死んだらそこまでだ。あの言葉は噓だったの?』


 嘘なんかじゃない。凡人な僕だけど、僕の可能な限り響くんの夢を継ぐつもりだ。


 それは、今も昔も変わらない。


『ならっ!』


 大丈夫だ。このまま死ぬつもりはないから。


『でも、このままじゃ……』


 死ぬだろうな。間違いなく。


 だけどさ。僕の死をもっとも望まない人が、そんな様子をむざむざ見逃すと思うか?


 僕は思わないけどね。


 絶対に彼女が動くと、僕は信じているから。


『心愛を信じるんだ、響くん』


 君も信じてくれ。琴葉ちゃんの心臓を受け継いだ心愛のことを。


 彼にそう言った次の瞬間。僕の右腕に、人肌特有の温もりが一部分だけ戻った。


 そうら、期待以上の速度だよ。


「心太さん」


 音が完全に消えたはずの世界で、心愛の声だけが鮮明に響き渡った。


 途端、急速に色を取り戻していく世界。


 まず、聴覚が戻った。さっきとは違う隣の人物の吐息音が良く聴こえる。


 次に、視覚が戻る。開きっぱなしの楽譜と、横側に崩れ落ちた名倉さんの姿が僕の目には映った。


 呼吸も戻り、荒いながらも呼吸を再開できた。とても苦しいけど、どうにか酸素を取り込んで生を繋ぐ。


 全身に酸素と血液が巡り、末端までの感覚が取り戻せたところで、僕は隣に座っている心愛の方を向く。


 彼女は、少し拗ねたような表情をしていた。

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