暁月
座る位置を変えた心太さんが、さっきとはまた違った音色を鍵盤から叩き出す。
物悲しい雰囲気だったさっきとは一変し、激しく力強い音色が場を支配した。アップテンポで、かつ音符の数も多い。
楽譜を見ると、楽章が移ったことが分かった。
「暁月」
古語の意味合い的には明け方の月を指す言葉である。または有明月とも。
数ある様々な言葉の中から、あえてこの言葉を選ぶ心太さんのセンスは変わっているというか、それとも独特なのだと見るべきか。
最近ではそんなに見かけない言葉を使ってでも心太さんが表現したいもの。それは何なのだろう。
題名的にはしっかりと繋がっている。心の雨が降っていたのを夜更けと見れば、かなり自然な形で時間の繋がりを察せる。
雨が止み、空に浮かぶは有明のお月さま。夜半に見れる月とは異なり、真っ白い死に化粧をした月を容易に私は想像できた。
名倉詩織の弾く低音域と、心太さんの弾く高音域。2つがやがて交錯し、そして調和する。
綺麗な音色だな。そう感じていた私の脳裏には第1楽章を聴いていたときと全く同じく、ビジョンが浮かび上がってきた。
「心愛……」
傘を閉じ、空を見上げる心太さんの姿がハッキリと見える。
こちらから彼の表情はうかがえない。だが、その背中からは深い悲しみと寂しさが滲んでいた。
「……あいつだ。あいつが僕らを引き裂いた」
そう言うと、心太さんが身にまとっていた空気の質が途端に変貌する。
胸の奥に抱えた深い悲しみが、やがてドス黒い憎しみ色の炎へと変わるのにそう時間はかからないだろうし、その想像も容易だ。
「何の権利があって、僕ら2人の仲を引き裂くんだ。ふざけるな……!」
雨が止み、月が見えるぐらいには晴れている空が突然、真っ暗闇に包まれる。
ハッとして心太さんの背中を見ると、服が黒みがかった炎に焼かれていた。
思わず駆け寄って炎を消そうとするが、あまりの高熱と熱風が苦痛で。そして不快で近づけない。
憎しみの炎。轟々と燃え盛るそれは、遂には心太さんの全身を包み込む。
「許さない。あいつだけは許さない……」
火だるまになったまま、心太さんの姿は暗闇へと消えていってしまった。
ふと現実に回帰して演奏を続けている心太さんを見ると、さっきまでは浮かべていた微笑みが完全に消えているではないか。
変わりに顔面に貼り付いていたのは、何かに対する強烈な憎しみと憤り。
率直に言ってしまおう。
……心太さん、めっちゃ怖い。
目の奥に宿っている怒りの炎が、隠されることなく解放されてしまっている。
譜めくりするため近づくのすら少し怖いぐらいだ。
遠くで聴いている人たちにも心太さんの感情は鮮明に伝わっているらしく、
「何あれ怖すぎね?」
「見ろよこれ。鳥肌エグいんだけど」
「さ、寒気が止まらない……」
随分な物言いをする人の声が、私の耳にもしっかりと届いた。
先ほどから苦しそうな顔をしていた名倉詩織の様子も、その辺りから一気に変化する。
「くっ……」
近くで聴いているからこそ分かる。低音域のミスタッチが、最初と比べて明らかに増えたのだ。
私の耳が心太さんの演奏によって肥えているからなのか、少しでも音のズレだったり違和感が非常によく聴こえる。その回数が明らかに増えた。
実際問題、そんなに気になるような大きいミスではない。分からない人には分からないだろう。心太さんの弾く高音域が目立っていることもあり、低音域のミスはそこまで大きく演奏には響いていない様に感じる。
しかし、ピアノの腕には絶対の自信があるであろう名倉詩織のことだ。さぞかし苛立っているに違いない。
名倉詩織がそんな有様だからなのか、彼女とは対照的に全くミスをしない心太さんの姿はどことなく不気味だ。
まるで精密機械。しかしそれは指裁きだけであり、その顔は般若かと見間違うほどに険しい。
そんな心太さんに、私は言いようのない不安を感じ始めた。
演奏は、これまで聴いてきたどの瞬間よりも素晴らしい。連弾であることを差し引いてもだ。ちょっと恐ろしいなと思うぐらいに。
心太さんの感情が全て伝わるぐらい、気持ちの入った演奏。正の感情も、負の感情も関係ない。それが心配だった。
そのうち、自身の感情に呑み込まれてしまうのではないか。
特に負の感情。あまりにも強い憎しみと怒りの感情に、このまま呑まれてしまうのでは?
杞憂で終わってしまえばよいのだが……。
私の心配をよそに、心太さんはまた鍵盤を叩きながら立ち上がった。
楽章がまた、移り変わる。
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