心の雨

 心愛を先に行かせて楽譜めくりが立つ位置に誘導し、続いて僕は椅子に腰を下ろす。そして、名倉さんが隣に座った。椅子の調整は必要ない。既に済ませてあるから。


 2人で腰を下ろすとやっぱり狭い椅子。


 好きでもない人との連弾なんてまっぴらごめんだが、まあ頑張ろうではないか。


 さて、第1楽章。弾き出しは僕から。鍵盤に指を静かに置くと、胸いっぱいに空気を吸い込んでから躍動を開始する。


「心の雨」


 心愛と離れ、耐えようのない悲しみを表現した楽章。まるで戯曲のような寂しい音色が、一瞬にして場を支配した。


 音符の数は多くない。テンポはゆったり。短調旋律の物悲しい曲調。弾いていて楽しくはない。


 さらには、メインとはお世辞にも言えない低音域であれば尚更である。


 だが、僕の心はすこぶる晴れやかだ。


 その理由は案外単純である。近くに心愛が佇んでるから。それ以外の理由がない。


 やがて、名倉さんも僕の演奏に合わせて指を動かし始めた。第1楽章で彼女が担当するのは高音域。音色のメインをつかさどる。


 流石と言うべきか、彼女のピアノの腕前は超一流で。それはもう見事に楽譜を表現していた。


 常に悲しみと寂しさの感じる音色を彼女は叩き出している。だからなのか僕の低音と綺麗にかみ合っており、深い哀愁がピアノ全体から飛び出ているように僕は感じていた。


 だが、ピアノの腕は超一流でも。ずっと彼女が見せていた余裕面はもう存在していない。


 多分、彼女の異変に気がついているのは僕と心愛だけだろう。


「……何で。何であいつが」


 僕にしか聞こえないぐらいの音量で、彼女はずっとそんなことを言っている。


 特に、心愛が譜めくりをする度にその顔は醜く歪んでいた。愉快で仕方がない。


 完全なる2人旅を想定していたのだろうが、残念だったな。


 顔を険しくしていく名倉さんとは対照的に、僕は少し笑みを深めた。


 鍵盤を叩く力を強める。無論、音はそれだけ大きく出る。同時に、ずっと演奏を通して表現している、僕の心に降る雨脚の強さも増していくのだ。


 ぽつぽつから霧雨。細やかな霧雨から普通の小雨に。小雨に加えて風が徐々に吹き始め。そして雨脚は強まって大雨へと。


 心愛が胸元を軽く抑えたのが見えた。何か、感じてくれたのだろうか。


 彼女に続き、名倉さんの顔色もみるみるうちに変わる。血色の良い肌はどこへやら。随分と顔色が真っ白だ。死に化粧でもしてるのかと言いたいぐらいだよ。


 連鎖的に、観客側からも声が聴こえてきた。ザワリ、ザワリと場が波立っている。


 彼らにも見えているのだろうか。僕の心の中が。


「会いたい。どうしても君に会いたい。でも、今は会えない」

「離れているのがこんなにも辛いなんて」

「泣くことしかできないんだ。僕は無力だから」


 低音域で雨音を表現するパートに入ると、僕はさらにギアを上げて鍵盤を叩いた。


 慌てて追従する名倉さんのことは全く考えず、ただひたすら鍵盤を叩く、叩く、叩く。会えなかった悲しみと悔しさをありったけ詰め込んで。


 ピアノから飛び出す無数の音色。空から降り注ぐ数多の雨粒のように、止まることなく次々と。


 凍りついてしまいそうなぐらいに冷たい寂しい音符たちは、僕の心をも凍てさせていった。


「心太さん……」


 大丈夫。君は心配するな。ちょっと、普段の倍は感情移入しているだけだから。


 つー、と瞳からこぼれ落ちた涙を乱暴に拭うと、僕は立ち上がりながら第1楽章最後の音を紡ぎ、そしてついさっきまで名倉さんが座っていた位置へ腰を下ろした。


 第2楽章で僕が担当するのは高音域である。だが、始まってすぐに僕の出番があるわけではない。


 僕の弾く高音域が必要とされる箇所までの間、心を落ち着かせようではないか。


 ハラリと楽譜をめくった心愛が、離れる間際に僕の肩に手を触れさせる。


 彼女の方を見ると、少し泣きそうな顔をしていた。


 でも、その顔は悲しいが故に生まれたものではなさそうだ。


「ありがとう、心太さん」


 口パクだけど、彼女は確かにそう言った。

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