木馬の夢
青木はじめ
第1話
物語を生むことは、私にとっては息をするのと同じようなことだ。
幼い頃から架空の絵を描くのが好きで、おばあちゃん子だった私はよく祖母に「この子誰?」と聞かれては毎度困っていた。お絵描きあるあるだと思う。そして小学生の時、母に一世一代の告白をした。「漫画家になりたい」「馬鹿なこと言わないの」。完全に沈黙である。あの言葉は二十年近く経った今でもトラウマに近い傷跡を私に残した。それでも絵を描くことはやめず、落書き帳を買って貰えなかったのでチラシの裏に絵を描きまくっていた。漫画を描くのは、小学生でやめた。
そして早十数年、なんとなく、本当になんとなく小説を書き始めた。当時流行っていた携帯小説である。今思うとあれでも本気で書いていたつもりである。しかし、携帯小説は需要のあるカテゴリーが限られていると知り、好きなジャンルを見て貰えないのならばと私は携帯小説から離れた。そこからはひたすら友人へ即席の短編小説を真夜中にメールで送るという迷惑行為を日常的に続けることになる。そして、友人間でつけられた通り名が、「庶民の太宰」。おそらく「冬に可愛い夏服を貰ったから夏まで生きる」という言葉を掲げているせいであるのと、実力は無いくせにプロ意識だけは高いせいだと思う。太宰先生が才能も努力もない人だったら、どう生きていたんだろう。生憎太宰先生の大ファンという訳では無いので分からないが、大クズか善人かのどちらかだと思う。たぶん。そんな「庶民の太宰」は今日も真夜中、ノートに世界を書きなぐる。
ふと空想に耽ってみた。いつものことであるが。もし「庶民の太宰」が作家デビューしたのなら、ペンネームはどうしようか。まるきり違う名前にしようか。苗字か名前どちらかを本名から持ってこようか。非常に楽しい時間である。次に考えるはサインの書き方。と、考えようとしてやめた。頭の中にミスタービーンが現れて巨大クラッカーを鳴らして無理矢理我に帰されたからだ。少女よ、我に帰れ。もう、少女なんて歳ではないけれど。
ブブッとテーブルに置いた携帯電話が鳴った。この着信音の長さはメールだ。パカ、と音を立てて開くは友人からの小説の感想。簡潔にいうと「今回もすごいね!」。はなから細かい感想は望んじゃいない。ましてや批評なんぞされた日には三日は寝込む豆腐メンタルである。褒めて伸ばして欲しいのが本心だ。だが、「すごい」だけでは物足りないのが未熟でも作家魂。しかしどこをつついて欲しいというべきところもないのが現実だ。それくらい、私の作品はフワッとしている。友人曰く、好きな人は一定数いるだろうと聞く。だが一定数では足りない。目指す場所へ行くには力が足りなさすぎる。そうして、私は毎日のように超短編小説や新しいネタを書き綴った。
それから数年後、まあまあいい歳になった私はまだまだ自信も実力もないが、夢ができた。「本を出版したい」。「賞」に作品を出すことにした。結果は案の定惨敗だったが、神様は味方してくれた。否、父は味方してくれた。生まれて初めて「お願い」をして、自費出版が出来ることとなった。思ったより早く夢が叶った。その事実だけで半年は生きていけると思った。だが、私の精神は持病による作用のせいで、病院で本の編集作業をすることとなった。冒頭で言い忘れたが、私の病気は統合失調症という、まあ、ポピュラーな精神疾患である。私の場合は集中力散漫、被害妄想等々極めて内側で起こる症状だ。少し具合悪いだけで幻聴に悩まされ、視線や妄想に取り込まれている。だが、ペンは握り続けていた。出版社の担当さんも病気に理解のある方で、安心して作業を続けられた。退院してからは主となる編集作業を真夏のむしむしと暑い部屋の中でカタカタとノートパソコンをひたすら叩いていたのが懐かしい。時折集中力が切れて血管がぷっつんしそうになったが、幸いなことに、作業中に発作が出ることはほぼなかった。それだけ、やりがいがあったということだろう。私は小説家だ。なんて言うには烏滸がましいと思いつつ、私は小説家になるんだ!とどこかで胸を張る自分がいた。
編集を終え、ひと段落している時、人間関係のトラブルで再び豆腐メンタルがぐちゃぐちゃになった。単なる対人関係の裏切りではあるが、二回目の自殺未遂を行った。処方されている薬等、ありったけの薬を一気に飲んだ。某薬は胃がスースーした。数十錠飲んだだけでは死に至らないと知った自分は無意識に薬を追加した。追加して飲んだ記憶はない。記憶が飛んでいるということに気付いた時、ふと冷静になり、とりあえずかかりつけのクリニックに電話をした。再び入院が決まった。ちなみに一度目の服薬自殺未遂は父と喧嘩した際に行い、即入院した。そんなことはともかく、担当さんに急いで連絡をし、自宅に届く書類は全て父に病院へ持ってきてもらうことになった。二回目の編集作業は病室で行ったが、如何せん全く集中出来ない。集中出来なくても、ひたすら活字を追った。「読者目線で考える」。ひたすら、インクの海を泳いだ。
なんとか毎回期日には間に合い、書籍のカバー案も病室でうんうん迷った。そうして、病室で校了を迎えた。
ギリギリ発売前に退院が決まったため、病棟の看護師さん達に宣伝してから退院した。
「本を出版する」という事実は少しの間でも、私を死から遠ざけた。看護師さんにも「本を出すんだから死んでられないよ」と言われて、なるほどと思いはしたが、死にたい時は死にたいのだ。
そして数日後、ようやく出版されたはいいが、何せ発行部数が少ないため書店に置いてないという問題がまず発生した。大手通販サイトには在庫ありと書いてあるが、書店に置いてないとなると話が違う。私は焦りのような何かを覚えた。認めてもらえなかった時のような、酷く悔しく悲しい孤独感。夢は叶ったのに。どうしてこんな気持ちになるのだろう。何故だか、悔しくて悔しくて堪らなかった。力が、圧倒的に足りない。自分はまだまだ自費出版に手を出すには早すぎたのではないか。甘く見ていたのかもしれない。悔しい。悲しい。苦しい。自分の作品が認められないと、自分を否定され貶されている気分になる。悲しい。悲しい。こんなことならやらなきゃ良かったなんて、思いたくはなかったのに。
それから、しばらく小説は書けなくなった。
退院してから落ち着かないと理由もあるだろうが、根本的な何かがすっぽりと欠如してしまった感じだ。あんなに好きだった、暇な日だと朝から晩まで描き続けるくらいだった絵も描けなくなった。「夢を叶える代償」に、大切なものをなくしたようだ。私が私でなくなる感覚。とても孤独だ。
木馬の夢を見た。
見た目だけは回転木馬、メリーゴーランドのようだが、回ることはない。姿かたちだけ木馬の見た目をしていて、まるで自分のようだと目を背けた。
次の日も、木馬は現れた。ほんの少しの違和感。よく見るとつるつると肌触りがよさそうな木馬の表面がところどころはげている。胸の奥がちくりと痛んだ気がした。
また次の日も、木馬は現れた。否、木馬だったもの、だ。
木製の鞍はボロボロに砕けて、木馬の足もやっと立っているというような細々としたものになっている。触れたら一気に壊れそうな木馬に、何故だか私は近付いて、手を伸ばした。無機物のはずなのになんだかほんのり温かい。まるでついさっきまで動いていたかのよう。こんなにボロボロで、美しさなんて欠片もないのに、夢を乗せた木馬は動き続けていた。私の見えないところで、動き続けていたんだ。
一番背の低い木馬に恐る恐る腰掛ける。すると、瞬く間に周り、私の周りか木馬の周りかは分からないが、光を帯びた。金平糖を散らばしたような淡い星屑の光。思わず目を瞑った。その瞬間、何かが私の中にするりと入ってきた感覚。辺りに散らばっていた金平糖をかきこんだような胸焼け感が私を襲った。胸が金平糖の凹凸でちくちくと擽ったくて少し痛い。それでも、微かに感じた光で、私は目を覚ました。
まだ弱々しい誓いだが、星屑の金平糖は確かに私に勇気という光を与えた。
また、物語を生み続けていたい。
靄の中に、仄かな光を見つけた。
どうして私はこうまでして物語を生み続けたいのだろう。まだ肌寒い早朝にペンを握り机に向かいながら思った。
あの木馬のようにボロボロになっても、これからもっと傷付くことは増えるだろう。なのに、どうして書くことをやめられないのだろう。
そんな日の午後、スマホが一度震えた。何となしにごろごろしていたままの格好で着信を告げたスマホのメール画面を開く。目をこれでもかと見開き、心臓は一度止まった。「佳作」。その文字が脳内を太陽系のようにぐるぐる回った。佳作を討ち取ったのだ。応募したのは何回目だろう。数えるのを忘れるくらい、書けたら応募、書けたら応募していたからわからない。また夢がひとつ、叶った。やっと認めてもらえた。涙がじわじわと染み出てきた。ちゃんと、見ていてくれる人がいた。嬉しいや幸いでは表せられないこの感情をどう表現すればいいのだろう。物書きの端くれなのにうまく浮かばない。恐悦至極。それがいいか。ひとまず、今までメールで小説を読んでもらっていた友人へ連絡した。やけに緊張する。人にとってはちっぽけな賞かもしれない。確かに同じ賞でたくさん入選した人は山のようにいる。私は氷山の一角ですらない。大きな山の朝露一雫程度であると自負している。友人に言ったらきっと褒めてくれるかもしれない。でも、先程までの喜びは「まだまだだ」という不完全燃焼へと変わっていた。いつもそうだ。正直に喜んでも、内心では「もっとできたら」と悔しがっている。所詮「庶民の太宰」だ。プロ意識だけやたら高い。なのに実力が伴っていないから自分で自分の首を絞める。阿呆みたいだ。なんて少し笑ってみる。今の自分ではたいしたことは書けないと分かっているのに、自意識過剰なのだろうか。それともプライドの問題だろうか。いつもどこでも自分を許せない。だから、作家を目指したのかもしれない。
作品が認められれば自分が認められた気分になる。承認欲求。また自分に嫌気がさした。なんとももどかしい。
私自身、本は好きだが、本の虫というほど大量に読んでいる訳では無い。やはり病気の症状で読むのが難しい時が大半であるし、病気のせいにしなくても好みでないジャンルは手を出さない。しかし興味のないものでも興味のある私であるからして、色んなジャンルを書いてみたいとは思う。実際、佳作を得た作品は今まで書いたものとは少し変わったジャンルではある。
うんうんと考え込んでいると先程までのネガティブがどこかへいったようだ。我ながら情緒不安定である。家族へもメールを送った。賞の内容はわからないだろうが、まぁとりあえずすごいんだろうなとは思ってくれるだろう。どのくらいすごいなんて、自分でも分からないけれど。
木馬は夢に度々現れた。
元気な時、大きく居られない時、精神面に関係なくそれは姿を変えて現れた。ボロボロなおんぼろ木馬の時もあれば、つるりと丸い輪郭が綺麗な時もある。しかし、色がつき、動いているところは見たことがない。いつでもモノクロかセピアな世界の真ん中に鎮座している。いつの日か、キラキラと動いている姿が見たい。けれども、無理だと思う気持ちも同等にあった。
印税というものがはじめて手に入った時、数は少なくとも、胸を張りたいような自慢してまわりたいような、しかし大事に内緒にしておきたいような気分になった。
実力なんてない。わかってる。自惚れるな。わかってる。あれはただの奇跡だ、私の実力と努力なんかじゃない。才能なんて、認められる力なんて、ない。暗闇から手招きされる。面白いのが書けたんだ、読んでよ。面白いんだよ。ねえ、評価してよ。相反する想いが交差して飛び交ってぶつかって砕けてバラバラになって、ぐちゃぐちゃになって。そうしていつも頭を抱えて泣き叫ぶ姿を斜め上辺りから見下ろす私。私は私を許せない。
私は多趣味だ。どれもなんでも好きなものがたくさんある。だからこそ、「たったひとつ」に夢中になって「たったひとつ」に秀でた人間が、昔から、羨ましくて仕方なかった。全部を上手くこなす器用さなんてないのに。ピアノもギターもイラストも歌も本も、物理的に精神的に手が足りない。だからどれも中途半端だ。だから認めてもらえないのも当たり前だ。至極当たり前だ。天才が努力をしている世界で「庶民の太宰」がいくら頑張ったとて見てもらえるわけもない。わかっているのに知らないふりをしている。無知は幸せだね。自信がない、ただそれだけじゃない。知らないふりをして頑張っているふりをして、有精卵のなかに紛れ込む無精卵。自信がないのに、心のどこかで、自分は違うのだと思っていないと生きていられない。無精卵だと認めたくない。いつまで続けられるだろうか。無知な頑張り屋をいつまで続けていられるだろうか。園芸初心者は種の殻の中が空っぽなのを知らずに土に植えた。他の芽に目を奪われて、出ない芽の事なんかいつか忘れて、そうして土の中で眠り続ける。
いつも叶わないことを願っています。毎度叶わないとわかっている恋をしています。きっと叶わないとわかっているから、願うんだと思います。思うだけならタダだから、思い続けるんだと思います。全て悲しい事です。いつも悲しい事をしています。
泣き叫ぶ夢を見た。木馬がとうとう壊れたのかもしれない。喉の奥から、瞳のずっと奥から思い切り絞り出すように涙を堪えながら泣き叫んだ。喉を焼かれたように熱くて、寂しい。目を覚まして一番にやってきたのは虚無だった。
布団に転がって目に入る天井を眺めて、ああ夢か、やはり夢だったかと現に目をこらす。小さく開けた窓から風の音が内緒話のように聞こえてきた。
私には何が出来るのだろう。思春期のような悩みが時折顔を出す。普通に働けない私にはどこからどこまで出来るか、もうわからない。逃げるように物語を生み続けては否定をされる毎日。はたしてこれはいい事なのだろうか。私は「悪い子」なのではないだろうか。「悪い子」は排除されてしまう世界でどう生きていけばいいのか、そう考えて辿り着いた先も、小説を書く事だった。
話せないから書く。歌えないから書く。そうして想いを伝えて行けたらいい、だなんてたまには綺麗な事も言ってみる。そうやって自分のご機嫌取りをしながら毎日を過ごす。つまりは怠惰の極みだ。怠惰と共に生み出す物語は、まるでゆとり世代。上がりも下がりもないジェットコースター。どこへ行くかもわからない。辿り着いた先もよくわからない。そんな色はモノクロでしかない。木馬の世界のようだ。今度見る木馬はどんな姿なんだろう。よそ見をするように木馬へ想いを馳せた。
今日も落選の夢を見た。否、こっちが現実なのだと思う。あの佳作は幻影か、嘘で、この落選続きで鬱になっている方が現実だ。
誰にも認められず、自分でも認められず、中途半端な作品を提出しては落選し落ち込んで死にたくなる毎日。同じように入選する夢も見る。キラキラした世界。完全なる理想郷だ。寝ている状態でも夢だとわかった。
この夢を見続けているせいか、ぱたりと木馬の夢を見ることはなくなった。もう木馬がどんな姿かたちだったのかも覚えていない。競走馬のようなすらりとした馬の形だったのか、はたまたポニーのようなずんぐりとした可愛らしい馬の形だったのか、感触すら忘れてしまった。いつの間にかこんなに大事になっていた夢を、私は忘れてしまった。衝動のまま頭を掻き毟る。また落選のお知らせがスマホに届く。夢か現か。もうわからない。もうどうでもいい。短編だけしか書けないんじゃ作家にはなれない。そう思おう。この世はオールマイティにこなせなければどんな事でもやっていけない。不器用で中途半端なのが悪いんだ。器用で完璧だったら何かが出来ていた。そうだ。機会にも人にも恵まれず、だらだらと生きているのがとても悲しい。神様、神様。もしもいるのなら、神様、聞いてください。次もし人間に生まれたのなら才能をください。あっと言わせるような才能をください。私はそのために生きます。次はそのために生きます。
引っ越したばかりでダンボールが散らかっているリビングを通り抜けベランダへと出た。初夏の風が涼しくて心地よい。そんな風を浴びながら、私は飛び降りた。
お腹がぐるぐる鳴っているような音で目が覚めた。少しぼやけた視界にはカーテンで囲まれた白い天井。音で起きた気がするが、音の無い世界。遠くでボーッと何かが鳴っている気もするが、気の所為だろう。
私は確かに飛び降りた。しかし体中に痛みが戻ってきたように痛みだしたことにより、「失敗」の二文字が頭をちらついた。あんな簡単なこともこなせないのか私は。と、自責の念にもまれる。神様はいなかったのか、無視をされたのか。まぁ、単純に三階程度の高さでは足りなかった、それだけの事だろう。
考え込んでいると視界も安定してきて、カラカラと音も近付いてきた。その中に知っている音と、よく知っている音が存分に混じっていて、今更「怒られるだろうか」と心配になってきた。台車の音がすぐそこで止まる。
「目が覚めたんだね」
姉の友人は看護師だ。某病院のICUで働いている。同じ病院で働いていた時は更衣室で鉢合わせた時があったが、まさかまたこんな形で会う事になるとは。
私の友人でもある彼女は少し呆れたような怒ったような悲しいような顔で、「骨折れてるからね」とさらりと言い放った。ちょうどいい。入院したかったんだ。と頷くと折れたであろう体が痛んで変な顔になったと思う。
その後主治医が来たり父が来たりまた違う看護師さんが来たりでなんだかんだ忙しく一日が終わった。掠れた声で友人に「お疲れ様」と言うと「本当だよ」と返された。
かの太宰先生も毎回こんな気持ちだったのだろうか。いや、自分なんぞが語るなんて烏滸がましいにも程がある。けれども、今だけは「庶民の太宰」として憂いさせてほしい。消灯後に嗚咽を必死に殺して、泣きじゃくった。ああ、神様。
どうして私は評価されないのか。
介助浴の時間もリハビリの時間もずっと考えていた。行き着く先は「どうして生まれてきたのか」。出た、思春期モード。ただ力が足りないだけならもっと頑張ればいい。でももう頑張っているのならこれ以上なにをどう頑張れば夢に手が届くのか。夢はモノクロだ。あの木馬のように傷付き動かなくても夢はいつもそこに在る。夢を裏切るのはいつも自分自身だ。体調が悪い。精神が不安定。いつも言い訳をして夢を置き去りにしていた。唯一の味方だったのに。潤んだ瞳の奥に木馬が在るような気がして、涙を止められない。リハビリの先生が気を使って休憩にしてくれた。
「生きるのは痛いね」
先生が膝をついて優しく言った。ふとどこかで聴いた歌を思い出した。痛い。生きるのは痛い。痛みは生きる事だ。太宰先生、痛みは生きるという事です。認められない痛みも、夢を裏切る痛みも、病気で思うようにいかない痛みも、現実。ああ、今すぐペンを取りたい。この痛みを紙上に書き尽くしたい。これもまた認められないかもしれない。きっとされないだろうな。「もう、痛くても逃げ出さない」。否、また逃げ出しては木馬に呆れられてしまうかもしれない。それでもいい。それが、私だ。
木馬は動かない。
久々に見た木馬は何時ぞやの光を帯びているわけでも、おんぼろになっているわけでもなく、少し煤けた状態で当たり前のように鎮座していた。
木馬を目にした私自身も、嬉しいとか会いたかった等という感情が湧いてくるわけでもなく、木馬だな、としか思わない。それでいいのかもしれない。きっと、望んでしまったらまた会えなくなってしまうから。
木馬が光り輝き優雅に回りだす日は来ないかもしれないし、来るかもしれない。もしかしたら今でも私が見てないうちに動いているのかもしれない。かもしれない運転で安全に生きていきたい。神様が叶えてくれなかったこの命をいつか木馬へ捧げるために。
久々に帰る家はまだダンボールが残っていて、少し笑えた。私の部屋も布団は捲りあがったままだし、机には書きかけの小説が乱雑に置いてある。捨てたように置かれたペンの先は乾いてしまっていて、何度もティッシュでペン先を擦っていたらやっとインクが出た。
あの日と変わらない、まるで情景。このまま進んでいけと言われているよう。この道を、物語を文字で紡ぐ道を選んだ私を、秋の夜の風が撫ぜた。
「あーあ!また落選だよ!死ねってことかな?」
片道一時間の紅茶専門店にて小声で想いを叫ぶ。正面に座っている友人の苦笑いが見なくてもわかって、自分も苦笑いを零す。
ほんのり甘いシフォンケーキがテーブルに置かれて、店員さんにお礼を言うとすぐにフォークを手に取った。ふわっと言葉を目にしたような柔らかな、でもしっかりとした感触に、食べる前から「美味しい」と思ってしまう。こんなファンシーな食べ物、木馬が動いたらきっと似合う。
両者無言で食べ進め、カチャンとフォークを置くと再び愚痴タイム。しかしだんだんと話すは主に新しい物語の話題。ああすれば、こうすれば。話すだけでペンを踊らせているようで楽しい。あの日飛び降りた影響で私はほんの少しだけ生まれ変わったのかもしれない。最近、小説を書くのが楽しくて仕方がない。そうだな、やっぱり、私は好きなんだ。昔から当たり前のように、物語を生み出すのが、好きなんだ。自分で考え出したのに勝手に動き出す登場人物達を抑えて、いつの間にか変わる風景の時に抗わないようにしつつ整えて、言葉の武器を振り下ろさないよう気をつけて、最後に読んでもらう。そして誰かに読んでもらう事によりまた、始まる世界。それが何より大好きなんだ。
木馬の夢はたまに見る。動かない木馬を、じっと見つめる私は滑稽だろう。時々煤を落とすように木馬を撫でるとまたペンを取りたくなる。
「庶民の太宰」は一生「庶民の太宰」なのかもしれない。それでも、私は木馬と共に、生きていく。
「あのさ」
紅茶のカップに口をつけた友人におずおずと秘密の話をするように話しかける。
「動かない木馬の話を書こうと思ってるんだ」
木馬の夢 青木はじめ @hajime_aoki
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