シトラスリップ

平賀・仲田・香菜

シトラスリップ

 五感から得られる情報はいつも私を惑わせる。視覚は情報量があまりにも多くて疲れてしまうし、世界は聴きたくない声や話に溢れている。可能な限り自分の手を汚すことも避けたいし、生野菜も食べたくない。この世の全てに背を向けたく、部屋の隅で目を瞑り両手で耳を塞いでも生活の匂いを捉えて不愉快だ。

 いっそのこと目や耳を潰してしまいたい衝動に駆られることも少なくはないが、私のような小物に勇気が湧くことは齢二十に至る今までに一度もなかった。大学に通い始め一人暮らしを始めてもその性分は変わらず、今日も私は世を憚る。憚りつつ小さく、夏の匂いに塗れて私は生きている。


 大学は夏休みを迎え多くの友人は帰省に精を出すその頃、私は一人孤独に暮らす我が城の大掃除に追われていた。それこそは私、星暁(ほしあきら)の女王としての責務であった。

 親元を離れ遂に乳離れができたと鼻が高かったのは最初の数カ月。クローゼットからは洋服が溢れて見るには耐えず、水回りを素手で触ることは精神衛生にも被害が及ぶ。深夜にはカサカサと許可なく住み込んでいる同居人が活動を始め、仕送りの野菜はもはや原型を留めず腐敗臭に鼻は疲れ果てている。この住心地は筆舌にし難い。

 不要な私物の処分から始めようと、部屋中の引出しを解放すればその果てしなさに私の心は逆に閉ざされ始めている。

 早朝に掃除を始め、漸く最後の引出しを開くに至ると、そこに収納されるのは思い出が中心であった。高校生の頃に集めたプリントシール帳、今見るとスカートの丈が随分と短く、見ているこちらが不安になる。家族旅行の出先で買ってもらったぬいぐるみもあるが、色も褪せたしワタも出ている。

 どれも捨て去ることのできない大切な我が思い出だが、私は大掃除中の身である。悩んだ末、断腸の思いで引出しを閉じようと試みたその時、手元に転がる一本の筒を見つけた。

「リップ?」

 いやに古めかしい。直ぐに物を失くす私にはリップクリームを最後まで使い切ることができた経験もないため、見覚えのないリップが雪崩のように転がり出てきても不思議ではない。

 しかし嫌に古めかしいそれは、埃に塗れ、脂が固まって蓋が固着し始めている。それに。

「これは最近発売された商品、だよね」

 今夏の季節限定商品。甘酸っぱい夏みかんが香る薄桃の色付きリップクリーム。雑誌でもよく紹介されている上、SNSでインフルエンサーの宣伝も重なり今季で一番のヒット商品という話も出ている。値段の割に色持ちも良く、何を隠そう私も先日購入したばかりである。

「買ったばかりなのに、ここまで古ぼけるものかしら?」

 そもそもの話として、この引出しに片付けた覚えもないのだ。まあ、どこに仕舞ってあるのかを正確に覚えている訳でもないのだが。

 とはいえアタリは付けられる。普段使いの筆入に紛れ込んでいる可能性が高い。失くさず持ち歩き、咄嗟に手に取れるようにしている算段を私はしているはずである。

 大掃除もそぞろ、私の興味はこのリップクリームに向いていた。思い立ったが早く、筆入を開けてみれば。

「やはり、同じもの」

 私の手には二つの同じリップクリーム。一つは埃を被った古いもの。もう一つはまだ開封もしていない新品のリップ。

 身に覚えのない古ぼけたリップクリーム。しかもそれは、発売したばかりであるのに数度の年を越えた年代物に見える。存在からして実に不気味な代物である。

 好奇心は猫を殺すと言うが、私は猫でなく人間でよかったと思う。理解の及ばないリップクリームに抱いた感情は、恐怖よりも若干の好奇心が優ってしまったから。人間ならば死ななくて済む話で終わるかもしれない。

 固着したリップの蓋を、力任せに引き、開く。

「望月(もちづき)、旭(あさひ)?」

 部屋中に広がる香り。古めかしい外観とは裏腹、その香りは力強く、まるでシトラスに部屋が満たされる錯覚を覚えた。

 くすぐられた鼻腔の刺激は脳へ抜ける。脳を満たす髄液までもが果汁に変わったその時に浮かんだ名前。

 望月旭。誰だ。大切な女の子。憧れたお姉さん。秘密基地。約束。裏切られた。憧れの味と匂い。失った。

 旭。名前を反芻し、咀嚼し、その名を噛み砕く。

 旭さん。そう呼んでいた。

「そうだ。十三歳の夏。私が憧れた人の名前だ」



 鈍行の下り列車はオンボロの私鉄で、冷房の効きは弱い。機械的なぬるい風は、ともすれば余計な汗をかきそうなほどだ。

 やりかけの大掃除に最初は気兼ねもしていたが、それも馴染みある地元の地名が増えるにつれて薄れ始めていた。もはや私の脳は柑橘系の山吹色に染め上がり、望月旭の存在に占められている。

 旭さんと初めて出会ったのは中学一年生の夏休みだった。


 当時の私は発育が早く、男子も含めた学年の誰よりも背が高かった。小学校からの友達も、新しく出会った級友も、私にとってはまるで小さな子どものようであった。背の高さはもとよりその内面までも子ども扱いしていたのだから、実に私は性格が悪かったと反省する。

 それ故か、せっかくの夏休みだというにも関わらず、私は一人で過ごすことが多かった。

 目的もなくショッピングセンターを歩いたり、流れる水をぼぅっと見ながら川に足を浸したり。部活も宿題も全てを投げ出して、私は一人だった。

 地元は自然豊かな町であり、少し足を伸ばせば小さな山がある。山道を外れて人を探しに捜索隊が組まれることも珍しくはなく、子どもが一人で足を踏み入れるなど以ての外。

 だからこそ、背伸びをしていた当時の私にとっては絶好ともいえた。

 だからこそ、家出をしてきたという当時の旭さんにとっても絶好といえた。


 だからこそ、私たちがその山で出会ったのは必然といえた。


 旭さんは山の中腹に拠点を構え、長期キャンプをするかのように夏休みを消化しているのだという。父親と死別して一年。母が新たに連れてきた男とソリが合わず、家で過ごすことに苦痛を覚えているのだそう。

 亡くなった父のキャンプ好きが幸いし、旭さんには道具も知識も十分であった。燻んだ橙色、三角形の小さなテント。少し錆びた折りたたみのテーブル。雑多に広がる食器やランタン。古ぼけた焚き火台は煤けた匂いを周囲に広げていた。

 私が旭さんに感じたのは大人の魅力だった。彼女は背も高く語り口も落ち着いていて、学校で出会った生徒の誰よりも、私よりもずっと大人に見えたのだ。

 すとんと伸びた髪は、キャンプ中とは思えないほどに滑らかで。陽の光を全て吸い込んでしまうのではないかと錯覚するほどに深い黒の瞳。艶やかな唇は薄桃色で、思わず手を伸ばしたくなるほどに柔らかそう。そして、むせかえるほどの夏みかんの香り。


 私が掃除中に見つけたのリップは旭さんから借り受けたものだった。


 私にとって初めての身近な大人であった旭さん。化粧品にもとんと当時は縁を持たなかった私が羨ましげに憧れていると、彼女は私にそのリップを塗ってくれたのだ。むら無く、丁寧に、優しく。

 間近に寄った旭さんの表情は真剣で、私の頬はチークの一つも塗っていないにも関わらず紅潮していた覚えがある。同姓といえど少し首を傾ければ唇も触れる距離。動かぬよう顎を固定されることも、まるで私は彼女の支配下にあるようで背徳的な感情までもが刺激されていたのだから仕方がない。甘酸っぱい柑橘系の香りも私の緊張を相乗しているようにも感じていた。

 彼女は、リップを私に貸してくれた。

『次に会うとき、返してくれればいい』

 そうだ。そう言っていた。憂いを秘めた、納得したような、そんな顔で。

 次の日にも彼女の山の拠点。あの秘密基地に遊びに行く約束をしていたのだからその時に返せればよかったのだ。



「でも、返せなかったからこれはここにあるわけで」

 揺れる電車、過去に馳せていた想いは手のひらに握った古いリップを軋ませる。手に汗とともに握っているそれは、この熱気に少しづつ融解しているのではと思わせた。

 あの日、借りたリップを塗り、母親の化粧品をちょろまかし、山にはふさわしくないほどに精一杯のお洒落着を身につけ旭さんの元へ向かった。

 そして秘密基地があった場所で、私は一人で泣き腫らしたのだ。

 旭さんの姿はなかった。それどころか、彼女がいた痕跡一つ無くなっていた。家出中だと言っていた彼女だ。単純に家へと帰ったのかもしれないが。

 しかし、どうして私に一言も言ってくれなかったのだろうか。何か悪いことをしてしまったのだろうか。いなくなるのに、どうしてリップを私に貸したのだろうか。嫌な気分ばかりが巡り巡り、私は声をあげて泣き腫らしてしまった。裏切られたような気分に沈み、まるで心臓をナイフで突かれているようだった。

 その日以来、旭さんとは会っていない。連絡先も知らないのだ、会えないことも当然だ。

 彼女が存在した痕跡、そして存在の証拠は私の思い出、そしてこのリップだけ。思い出と共に引き出しへと仕舞い込まれたリップが今、再び私の前に現れた。更に言えば今日、七月三十日は私が旭さんと初めて出会った日なのである。

 どこか幼稚で、情緒的で、運命的な偶然を引き当てたような気がして。私は思い出の秘密基地へと足を運びたくなった。苦くて辛い、当時は思い出したくもなくて封印した思い出のはず。そのはずなのだが。きっとカカオが強いチョコレートが食べられるようになったように、バッドエンドの物語も楽しめるようになったように。辛い思い出に浸ることも経験したくなったのだろう。

 電車を降りて、呟く。

「だってきっと、会えるはずもないのだから」


 そのはずだった。そのつもりだった。それなのに。

「これは、あの秘密基地がそのまま……?」

 燻んだ橙色、三角形の小さなテント。簡易的な折りたたみテーブルは少し錆びている。テーブルには雑多に食器やランタンが広がっている。古ぼけた焚き火台には燃えかすが残っていて、炭の匂いが辺りに広がっている。

「全部、見覚えがある」

 そしてテントには人の気配。もぞもぞと誰かが中で動いている。

 心臓が早鐘のように打つ。呼吸が浅く、早く。血液とはこんなに早く流れるものだろうか。ああ、胸が痛い。あの日の痛みに似ているような。

 あそこにいるのは。

「旭さん?」

 中から誰かが外を伺っているようだ。突然の来訪者に警戒をするのは当然だろう。

「私です。星(ほし)暁(あきら)です。覚えていませんか?」

 テントの扉が開かれ、ゆっくりと、未だ警戒を見せながら出てきた人は。

「旭さん? え?」

 私の目の前に現れた少女は紛れもない望月(もちづき)旭(あさひ)さんであったのだが、その姿は私がかつて出会った彼女そのままだった。当時女子高生だった彼女は少しの成長もしていない。七年という月日は誰にでも平等に訪れるものではないものか。少なくとも中学生だった私は大学生にまで成長し、少しは大人になったと自覚もしている。

 しかし彼女といえば髪の長さも、その目の色も、身長も。全てが私の記憶と寸分違わず変わらない。違いといえば彼女の唇であろうか。夏みかんの香りを彼女は携えていなかった。

「星さんと言いましたか? あなたとは初対面のように思いますが、どうして私の名前を知っているのですか?」

 私への口調も違う。年下の私に敬語なんて使ってはいなかった。同じだけれど、違う。

 旭さんと思われる女性は、私の存在に興味を持ったのか。私はテーブルに誘(いざな)われ、旭さんと語った。


「へーえ。私と昔ここで遊んでいたのですか」

 興味深そうに私の話へ耳を傾ける旭さん。からからと笑う彼女の様子はどこか懐かしく、私も饒舌だった。

「私はあなたに憧れていたんです。私にとって身近で、綺麗で、優しいお姉さんで……このリップもあなたがくれたんです」

「これってこの前発売されたばかりの新商品じゃないですか。ああ、そうかなるほど」

 私が見せたリップを手遊びながら、彼女は一人何かを納得したよう。古いリップと新しいリップ、二つをころころと転がし、目を細めてうんうんと頷いている。

 姿形こそ記憶の通りだが、どこか印象というか、雰囲気は違うようにも思える。本当に彼女は私の知る旭さんなのだろうか。

「あなたの話を聞いてわかりました。あなたの知る旭とは、私で間違いはありません」

「でも、あなたは私を知らない。それにどうしてあなたは年をとっていないの?」

「それはですね。あなたの語る私の過去は、私にとっての未来だからです」

 はっきりいって要領を得た解答ではとてもなかった。私は黙って彼女が続ける言葉の咀嚼をすすめた。

「私はタイムトラベラー。時間を越えて旅をしながら、歴史の特異点を観測して回っています」

 彼女の言う歴史の特異点とは、タイムパラドクスに決して影響されない純然たる時代の存在とのこと。その存在を観測、記録して完成された未来を作る組織に彼女は所属しているらしい。

「私はこれから六年前にタイムトラベルして、歴史の特異点を観測に向かいます。きっとそこであなたと出会い、私たちは仲良くなったのでしょう」

 私の過去で、彼女の未来。

 過去の人間に干渉することは如何なものかと彼女に問えば、小さな矛盾は大いなる歴史の波に呑まれて消えてしまうという。納得ができるような、できないような。私の頭ではもはや理解は追いついていない。

「タイムトラベルは自由自在ではありません。決められた場所、決められた時間でないとできません。私はあなたの過去で、元の時代に帰るため突然姿を消したと予想できます。ああ、もう時間だ。私はあと数分の後に過去へ行きます。その時はーー」

 彼女は私の手を握り、笑いかけた。

「仲良くしてくださいね?」

 そのまま立ち上がった彼女に手を引かれ、私は草藪に押された。訳もわからず尻餅をついた私を見下ろす旭さんは、橙色の夕陽を背負う。なんとなくかつての彼女を思わせる。

「このリップ。新しいほうを私にください。夏みかんの香りが気に入りました」

 悪戯っぽく笑う彼女は大人びながらも年相応で。私が憧れた旭さんそのままだった。唇にリップクリームを滑らせるその姿を見る私は、まるで中学時代にタイムスリップしたのではないかという錯覚に沈む。

 夕陽が強く明るく眩しく。閃光のように輝いたその刹那。瞬きの一瞬に旭さんは、秘密基地ごと消えてしまった。

 再会、いや、初対面の旭さんは夏の嵐のように過ぎ去った。私が会いたかった彼女とは少し違ったようだったが、あれは間違いなく旭さんだったのだろう。胸を抉ったナイフはすっかりと抜け落ちて、その傷跡はもうないように感じた。

 山吹色に輝く夕陽は大きなオレンジ。ゆらゆらと陽炎に沈むオレンジはまるで空気に溶けていくみたいだ。私の世界は橙に染まった。


「ただいま」


 立ち上がり、尻についた土を落として帰ろうかと背伸びをしたのと、秘密基地と共に旭さんが帰還したのはほとんど同時であった。そりゃあそうか。過去に行って、今日に帰ってくるのならばそうもなるものか。

「中学生の暁(ちゃん)、可愛かったなあ。背伸びしてて、私にべったりで。お姉さんは嬉しかったよ?」

 にまにまと軽い口調。これだ。私が出会った大人びながらも無邪気な旭さんは、私の思い出の旭さんは。私が恋した旭さんは。薄桃色で、夏みかんの香りのリップを塗った旭さんは。私と同じ思い出を持った旭さんは。

 私は古ぼけたリップを彼女に差し出す。旭さんはそれを受け取り、柔和に崩れた笑顔で言った。

「約束、守ってくれたね」

 五感から得られる情報は、いつも私を戸惑わせる。視覚は何も変わらなかった彼女の存在に惑うし、湿った空気を震わせる彼女の声は脳にまで響く。握りしめた彼女の手は汗ばんで熱いほど、触れ合う唇からは彼女の味を感じる。彼女の全てを捉えたい。目を瞑ってみると、シトラスの匂いに私たちは包まれていた。

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シトラスリップ 平賀・仲田・香菜 @hiraganakata

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