タナトスと踊れ
林ミサキが罪を認めた――
これでもう、思い残すことはない――
…………
弁護士の意見もあり、わたしは一時的に勾留を解かれることになった。もちろん無罪放免になったわけではない。わたしがこれから向かう場所は病院だ。
手錠をはめられたまま車に乗せられる。手には、それがお前の精神安定剤だと言わんばかりにノートと鉛筆を持たされる。
連れてこられた場所は目がくらむほどの白い部屋だった。ここはF市にある県立病院だ。もともと石橋総合病院内の精神科に連れていかれる流れだったらしいけど、加害者を被害者遺族が経営する病院に連れて行くのは道義的にどうかということになっり、県立病院に落ち着いた。
これはわたしの想定の範囲内。
「すぐに先生を呼んでくるからここで待っていなさい」
わたしをここに連れてきた刑事はそう言って部屋を出ていった。
部屋にはデスクとチェアがワンセットに患者用の丸イスが一脚。わたしはそこに座り手にしていたノートと鉛筆をデスクの上に置いた。室内を見回す。デスクの傍には書類が詰まった扉付きの書棚がある。壁には窓が一つ。外側には窓柵が見える。本来の用途は外からの侵入を防ぐためのものだが、この場所においてはその意味が逆となる。視線をさらに上げ壁沿いにずらすと隅にある監視カメラと目が合った。特筆すべきものはその程度だ。殺風景という言葉がよく似合う部屋だ。ものがない分白い部屋はより一層白が目立つ。白はクリーンなイメージを抱くが同時に精神的不安を生じさせる色でもある。
一人、部屋に取り残されたわたし。なんて不用心なんだと思うと同時に心のなかでほくそ笑む。
手錠をしているから大丈夫。あるいはカメラで見張っているから問題ないと思ったのかもしれない。いくらなんでも不用心すぎだろう。例えば第一発見者であるわたしに疑いの目を向けることができなかったこともそうだ。
「ほんと無能な人間が多すぎじゃないか」
あるいはわたしの策がうまく機能した結果なのかもしれない。 あるいはわたしの策がうまく機能した結果なのかもしれない。
最初に第一発見者を装って警察と相まみえた段階で、こちらから先手を打って石橋緑の名前を出すことは決めていた。小説を絡めた話をすることも。そうすれば警察は絶対にそっちに興味を惹かれると思った。なぜならF市に住む人間のほとんどが石橋緑が行方不明者であることを知っているからだ。特に警察であればその人物に飛びつくと思った。石橋緑の遺留品を敢えて一緒に埋めたのにもちゃんとした理由がある。
白骨化した人間の身元を割り出すのには結構な時間がかかる。その間にわたしのところに何度も警察がやって来ることは予想の範囲内だ。だからそれを回避するために身元の割り出しをしやすくしてやったのだ。
ミステリの世界ではいつだって警察は引き立て役だ。無能であればあるほど探偵役の主人公が際立って見える。警察が本気を出したら、この世にあるほとんどすべてのミステリ小説はものの数ページで事件が解決してしまう。そんなの面白くもなんともない。
わたしは視線をデスクの上に移した。
わたしがここに連れてこられた理由は、取調べ中にわたしがちょっとした騒ぎを起こしたからだ。それで精神の異常を疑われたけどあれは“演技”だ。こうなることを期待して。
でもあのときちょっとだけ驚いた。ノートと鉛筆を持って来るタイミングがわたしの予想に反してかなり早かったことだ。たしかにわたしは「ノート、鉛筆」と繰り返し叫んだけど、それだけでその二つを持って来いと解釈できたあの刑事――たしか白川と呼ばれていた――はそれなりにすごいと思う。
もしかして『タナトスと踊れ』を読んでいたから気がついたのかもしれない。わたしの取った行動がエースと同じだということに。だったらそれはカンニングだ。
「――いや、それはありえないよね」
小説の中身を知っているならエースが異常者を装って自殺するという結末だってわかっていたはずだ。だからあのときノートと鉛筆を手渡したりするはずがない。本当に優秀な刑事ならわたしの演技に気づいてそれを指摘したはずだろう。
それはとして、あのまま何もしなければわたしはずっと警察に拘束されたままだっただろう。それが嫌だったからわたしは一芝居打ったわけだ。刑罰の知識は多少なりともある。だから、わたしは絶対不起訴にはならないことも理解しているし、そうなったら絶対に無罪にもならないこともわかっている。異常者のフリをしたってそれは変わらない。なぜなら重要なのは犯行当時に心神喪失状態だったかどうかであって今現在の精神状態は関係ないからだ。
つまりわたしの目的は無罪じゃない。物語の終わりを他人に委ねるのが嫌だった。ただそれだけだ――
取り調べの際のやり取りを思い出す。
『小説のネタにするために犯行に及んだと言うが、だったらどうして似たような事件ばかり起こした?』
年配の刑事にそう指摘されてわたしは気づいた。いや、実際には少し前から気が付き始めていた。
一言で犯罪と言っても軽犯罪から重犯罪まで様々。そのどれもがミステリのネタとして扱える。むしろ様々な経験を積むことが目的ならわたしは多種多様な犯罪行為に手を染めるべきだったのだ。しかし実際にわたしがやったのは人を殺める行為ばかり。しかもそのほとんどが絞殺だ。ほんと芸がない。
最初は本当に小説を書くために殺人という行為に手を染めた。だがそれはいつしか建前になっていて“死”そのものを求めるようになっていた。首を絞める行為にこだわっていたのもそのためだ。一瞬で命を終わらせるのがもったいないと感じていた。じわじわと時間をかけてゆっくりと死に至らしめることで、一秒でも長くその快楽に浸っていたいという身勝手な欲望だ。
いつからそうだったのかはわからない。あるいは最初からそうだったのかもしれない。わたしのパパが異常者であったように、その息子であるわたしもまた異常者だったのだと言われても素直に納得できてしまうから。
渾身の小説を書いて、それをネットに投稿して、それは誰にも相手にされなくて……
その現実を目の当たりにしたあと、わたしの中の創作に対する意欲は薄れていった。それでも死に対する欲は消えなかった。
わたしが最後に犯した罪。小柴先生を殺したときのことだ。あのときわたしはその顛末の一切をノートに取らなかった。これが何を意味するのかは明白だ。
――わたしの精神は完全にタナトスに支配されている。
そうだ。
わたしにはその自覚があった。心のどこかでそれを受け入れていた。そうでなければ、あの小説に『タナトスと踊れ』なんてタイトルを付けるわけがない。
そして今なおその欲望はわたしの中に渦巻いている。その混沌としたどす黒い欲望が時折発露しそうになる。でもそれを発散する機会というのにはなかなか恵まれなかった。
「いや、それは嘘だ……」
わたしはデスクの上に置いた鉛筆に触れた。警察にもらった鉛筆の先は丸くならされている。
「これじゃ頼りない」
視線をずらせばデスクの上に四角いペン立てを見つけた。そこには数種類の文具がささっている。手を伸ばし、その中から黒のボールペンを抜き取る。
――現実から目を背けるのはやめよう。欲望を満たす方法ならある。最初からそのつもりで異常者を装ったのだから。
「ここにはわたしという存在がいる」
死に魅了されたわたし自らが死を経験することは、他人で言う自分を慰める行為にも等しい。でもそれをやったら二度とわたしは現実世界に戻ってくることはできない。
人はどうして一度しか死ねないんだろうと思う。でももしかしたらわたしは死後の世界から戻ってくることができるかもしれない。そうなったらそれこそ世界で初めての人間になれる。人類史上においての初めてを経験したことになる。ならば試さない手はない。
口を使ってボールペンのキャップを外してペッと吐き捨てる。あらわれた黒光りするその先端を自分に向ける。両手で力いっぱい握りしめる。一度大きく深呼吸する。そしてわたしはそれを思いっきり喉元に突き立てた。喉がカッと熱くなった瞬間目の前に紅い花びらが散った。力尽きるまでそれをグリグリとねじ込む。息ができなくなった。その苦痛はやがて快楽と変わる。
わたしがこれまで命を奪ってきた者たちもこんな思いをしていたのだろうか? ――だったらみんな幸せだったに違いない。こんなにも気持ちいいのだから。
背後で扉が開く音がした。複数の音階が混ざり合って耳朶に響く。すでに言語を認識する能力は失われていた。
悪が悪のまま、なんのお咎めもなく終わる結末には納得がいかない者もいるだろう? みんなが好きなのはバッドエンドや胸糞悪い終幕ではない。
いつだってハッピーエンドが至高だ。
魂が脳天を突き抜ける。それは紛うことなき昇天。わたしを支配する多幸感。これが、わたしが思い描く究極のハッピーエンドだ。
だれにも読まれなかった小説 改訂版 桜木樹 @blossoms
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