後編 人間原理

 音楽誌だけでなく一般誌でも、彼女の特集は再三に組まれている。次の文章はその一つから抜粋。


……女史のレパートリーは極めて広く、およそピアノという楽器で弾ける曲であれば何であっても自己の解釈に取りこんでしまうのは恐るべきことだが、不思議にバッハだけは演奏会で取り上げた記録がない。録音も同様である。

 彼女の演奏は世間で「千変万化」と称され、曲ごとにまるで違った印象をもたらして我々を喜ばせてくれる。バッハであっても自家薬籠中のものとするのは難しくはないと思うのは、筆者だけではないだろう。そういうわけで、過日、女史に話を伺った。


――先日発売された小品集はどれも面白く聴かせていただきました。しかし……

「バッハを入れない理由ですね(笑) 最近はみんなから同じことを言われます。結論から言うと、バッハは難しいんです」

――難しいですか。それは技術的な話ではなく、解釈の問題でしょうか。

「はい。バッハは人間原理の体現です」

――人間原理? 失礼、それはどんなものでしょうか。

「物理学、というよりは宇宙論の用語ですね。ごく簡単に言いましょう。この宇宙はあまりに人間に都合よくできている。それは何故か?」

――え? うーん……神様がそう作ったから、じゃないですよね?

「残念ながら(笑) でも、本質的にはそれに近いかもしれません。答えは、人間が存在するためにはこういう宇宙でなければならないから」

――すみません、もう少し詳しく教えてもらえませんか。

「こちらこそごめんなさい。説明を端折りすぎましたね。最近の学説では、宇宙にもいろいろな種類があるといわれています。例えば物理法則が違ったり、次元の数が違ったり。けれどほとんどの宇宙には生命が発生できません。私たちの宇宙はごく稀な例外というわけです」

――だとすると我々は幸運なんですね、生命の発生できる宇宙にいられて。

「そうでもないですよ。当たり前ですが、生命の生まれない宇宙に知的生物はいないですから。つまり、宇宙がたった一つだと考えれば、それが人間に都合が良いのは不思議ですが、条件の違う宇宙が無数にあるなら、中には人間が生まれる条件に適合したものが必ずある、それがこの宇宙。人間は人間の存在できる宇宙にしか存在しないのだから、私たちが観測する宇宙は必ず私たちの存在できる宇宙だと。人間原理の考え方は、こんなところです」

――なんだか鶏が先か卵が先か、みたいな話ですね。それで、今の話とバッハの関係はどのようなものでしょうか。

「バッハの人間原理は、そこからもう一歩進みます。宇宙を観測するものとして人間が生まれたなら、人間がいることが宇宙に影響を与えるのではないか。それこそが、人間が生まれた意味ではないか」

――やや議論が飛躍した気もしますが。

「はい、私もそう思いますが、これは私が直感的に捉えたことなので、うまく言葉に表せないのです。私はピアニストですので、この直感は言葉ではなく演奏で表現されるべきなのでしょう」

――それではもうすぐ貴女のバッハを聴けるのでしょうか。

「そうです。もういくつかはお披露目できる状態です。ただ一番難しいのはまだちょっと……」

――貴女をそこまで悩ます曲があるとは驚きです。よろしければ、曲名を教えていただけますか。

「『シャコンヌ』です。パルティータ第二番の」

――なるほど、それは納得がいきます。バッハの中でも大曲ですからね。演奏するなら、ブゾーニの編曲版ですか?(注:「シャコンヌ」は本来ヴァイオリン独奏曲だが、ブゾーニを始め複数のピアノ編曲版が存在する)

「いいえ。ブゾーニもいいのですが、ところどころ納得のいかない箇所もあって、今自分で編曲しているんです」

――新しい挑戦ですね、実に楽しみです。近々演奏会で聴けるのを心待ちにしています。それでは、本日はありがとうございました。



 生物学者は自室で録画された放送を観ている。

 オール・バッハ・プログラムの演奏会で、愛娘は次々に新解釈を披露し会場を沸かせたが、プログラム最後の曲に至って、舞台の袖に引っこんだきり、なかなか現れない。

 五分の待ち時間が十分を過ぎると、辛抱強い聴衆の間でもさすがにひそひそと話し声が目立ち始める。急病か、事故か、それとも精神的なものか。どよどよした声が大きくなる中、アナウンスが入る。

「予定しておりました次の演奏曲目は、演者の都合により変更いたします」

 変更? 変更か。ぱらぱら声が上がる。

「曲目の変更につきまして、演者から直接説明したいとの申し出を受けております」

 アナウンスと同時に袖からマイクを持って現れたピアニストを、カメラがクローズアップする。

 ピアニストはステージの端に立ち、まず深々と頭を下げる。

「本日は、私の勝手で曲目を変えてしまったこと、お聴きにいらした皆さんにお詫びします」

 飾らぬ、ほとんど素っ気ない声だ。

「元々『シャコンヌ』の演奏を予定していましたが、まだ私の力では及ばないと考えます」

 そう言うとピアニストはステージを眺めわたす。

「これから、別の曲を弾きます。私が、『シャコンヌ』の代わりになると感じた曲です。ラヴェルの『ラ・ヴァルス』」

 意外な選曲に、再び会場はざわめく。何故バッハの代わりが、時代もスタイルも違うラヴェルなのか。

「ご批判もあろうかと思います。演奏をお聴きいただいて納得できなければ、その時は拍手は不要です」

 ピアニストはマイクを傍らのアシスタントに渡し、いつものように無造作にステージの中央へ向かう。

 すぐに、聴衆のざわめきを写し取ったかのような低い蠢動が、左手のあたりから流れ出る。

 どろどろした音の塊はいつか、三拍子のリズムを刻み始める。ワルツだ。スピーカーを通しても伝わってくる、滑らかで硬質なタッチ。生物学者は音曲に身を委ねる。


 渦巻く雲の垣間から、ワルツを踊る人々の様子が断片的に浮かび上がる。各々の断片は、地平線に上りたての月のように、手を伸ばせば届きそうな生々しい存在感を放つにもかかわらず、その全体をつかみ取ろうとすると曖昧な雲が姿を隠してしまう。

 典雅さと不穏な気配が同時進行しつつ、曲は次第に盛り上がる。生物学者は次第に音楽に没入し、自らが踊り続けているような気分におちいる。だが舞踏の感覚は内面から生じるものではない。むしろ、音楽に操られているというのが近い。

 曲の進むのに連れてワルツの旋律はますます細かく砕け、リズムも不自然に引き延ばされ、または停止し、もはや自分が何によって動かされているのかわからない。それでも踊りやまない自分を、雲の向こうから見下ろしているのは誰か。先ほどまで自分自身だったはずのそれは、巨大で虚ろな影に変わっている。個人の意思の及ぶべくもなく、理由も明かさぬままに、それはただひたすら人々を動かす。これが世界の理、というものか。ならば、踊りが止む時は――

 そう思った瞬間、操り人形の糸が切れて音楽は終結する。生物学者を含め、聴衆はいきなり現実に戻されて、めまいに似た感覚に見舞われる。だがそれだけではない。この落ち着かなさ、足元が崩れるような不安、その源が音楽の中に潜んでいた。


 ピアニストが椅子から立って、こちらも糸が切れたような不安定さで頭を下げる。聴衆の半分くらいが拍手をして、残り半分はまだ崩壊の感覚に囚われている。満足そうに客席を見渡して、ピアニストはステージを去る。


 生物学者は動画を止め、長い息をついて気分を切り替えると、外出の支度を始める。

 服装にはこだわらない性格だから身支度はすぐに終わる。あとは使い慣れた鞄に簡単なものを詰め、その後少し考えて、机の上の妻の写真と、その横に置かれた封筒を手に取る。封筒には「父さんへ」と書かれている。何度も読み返したからすっかり覚えてしまったのだが、自分も感傷的になったものだと父親は独りで苦笑する。



 生物学者はコンサートホールにいる。彼の娘は、いましも「シャコンヌ」の第一音を打鍵しようとしている。


 「シャコンヌ」は、冒頭に提示される主題を繰り返し変奏していく形式を取る。最初の曲想は大変厳しいものだから、「ラ・ヴァルス」で受けた不安な印象を覚えている聴衆がかなり身構えているのが、生物学者にもわかる。

 ところが、演奏は予想に反して柔らかい。厄介な子だと思って、生物学者は思わず声に出して笑いそうになる。ただその優しさの中に、抗いがたい運命的なものが感じ取れる。

 あっという間に変奏は進み、曲は調性を変える。意外なほど親密な調べ。子供が両親に隠しごとを打ち明けるような無邪気さで、彼女は今、宇宙の秘密を語っているのである。


 生物学者は、ついホールまで持ってきた娘の手紙を思い出す。

「生物学者と物理学者、つまり父さんと母さんですが、二人はよくそれぞれの立場から議論を交わしていましたね。小さい頃はよくわからなかったけど、どちらも真剣だから私ははらはらしながら聞いて、それでも最後はお互い認め合って笑ってくれるから好きだった。でも一度だけ、それぞれの主張が並行線でまとまらなかったことがありました」

 それは生命についてだ。そして君はその答えを見出しつつある。

「母さんは物理学者だから、この宇宙はさまざまな意味で無限で、そうであるからには人類以外にも知的生命が絶対にいる、と言ってました。けれど父さんは、無生物から生物が生まれる可能性は宇宙の始まりから終わりまでで一度あっても奇跡的で、だからこの宇宙の知的生命は人類だけだと反論しましたね。二人とも譲らないで、最後には黙り込んでしまったから、私は少し怖かった。幸い、翌日には元に戻ったけど」

 あの時は私たちの方が子供のように、しまいにはふて寝してしまったと記憶している。

「母さんには悪いですが、この議論は父さんの勝ちです。生命は地球にしかない。私の弾く音楽がその証拠になります。それが、人に与えられた、存在の意味でもあります」

 私の存在の意味は君を生み出したことだ。そう父親は思う。

「わかっているでしょうけど、神様が人間を作った、とかそういう意味の話をしているのではありません。母さんの受け売りですが、地球は、たとえ神様が作ったとしてもすっかり忘れてしまうほど宇宙の端の、隅っこの方にありますから。人に意味を与えることができるのは、人しかありません」

 真っ直ぐに歩む旋律とともに、過去のイメージが映像になる。それは自分、自分たちの在りし日でもあり、また自分よりはるか過去を生きた人々の、あるいは人になる前の獣の、生命と呼べるあらゆるものの経験である。

 音楽はそれら全てを肯定してから、再び転調する。

「世界の終わり方には二つありましたね。宇宙の熱的死と、真空崩壊。熱的死の方は、私にはどうしても受け入れられなかった。何がって、私たちの存在も意志も全て失われてしまうことが。この宇宙が徐々に蝕まれて、いつ終わるともわからない均質な無に落ち込んでいくのは、どうしても嫌」

 生物学者は親子で物語をした夜のことを考える。自分も、できることならあの記憶を無に還さず、宇宙のどこかにずっと留めたい。

「真空崩壊でも、全てが消えることに変わりはないと思うかもしれません。でも、たった一つ残せるかもしれない。もし人が、自らの手で真空崩壊を起こすことができたら。そうしたら、真空崩壊が起きたという事実だけは次の宇宙の始まりとなって引き継がれます」

 変奏はぐるりと、最初に提示された主題に還ってくる。

「生命の存在の意味は、その意志で今の宇宙を終わらせ、宇宙を次の段階に繋げることだと、私は考えます。その力は、私たちの意志そのものにあります」

 冒頭と同じ、運命を感じさせる旋律の内に、しかし我々自身がそれを選び取ったのだと信じる力強さがある。

「私は演奏するという行為から、まず理解するという事象の本質を知り、それから自分自身を理解し、そして、理解することによって人間を外側から眺める術を学びました。今日はその次です」

 生物学者は、舞台の上に飛び出して娘を抱きしめたい衝動に駆られるが、その時間は残ってなさそうだ。

「『シャコンヌ』を通じて、私たちは人間の意志についてのまったき理解に至ります。その心の動きが、極めてわずかな物理的影響をもたらし、ある一点において真空の相転移が発生します」

 極小の一点で真空の相転移が起きれば、それは光速で連鎖する。真空崩壊、宇宙の終わりである。

「父さん、ごめんなさい。私は多分、地球史上最大の極悪人です。でも、それでも私はあの三人で過ごした夜を消したくなかった」


 父親は妻の写真を胸に掲げ、穏やかにステージ上の娘を見つめる。

 娘も父を見て微笑みを浮かべ、そして最後の一音が鳴り終わる。

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シャコンヌを弾かない女 小此木センウ @KP20k

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