シャコンヌを弾かない女

小此木センウ

前編 真空崩壊

 彼女は特異なピアニストとして歴史に名を刻む。いや、正確には刻まないのだが、果てなきと見えた時間の最期にあって、彼女は確かに燦然と輝くのである。


 彼女の出自は、生物学者の父、物理学者の母の子、である。

 ピアニストの出自を語るのにこう書くと奇異に感じる向きもあるかもしれないが、メロディもリズムもハーモニーも数字に支配される西洋音楽には、ある種理系的な面があり、そうであれば、両親が幼少の彼女にピアノを習わせたのも納得のいくところだ。

 両親の驚いたことに、ピアノに触れて間もなく、彼女は音楽について天賦の才を示し始める。音楽上の天才達には、幼い頃からその才能を発揮する者が少なくないから、これ自体は奇跡というほどではない。特筆すべきは、誰に習うでもなく、彼女が始めから、独特の内省的な演奏スタイルを獲得していたことであろう。



 ここに一つの映像がある。十三歳の夏、著名な国際コンクールで一位を取った時の抜粋だ。曲はこの世で最も難しく、またこの世で最も華美なコンチェルト、ラフマニノフの第三協奏曲。


 第一楽章冒頭から既に、通常とはかけ離れた演奏である。ラフマニノフらしい華やかさは欠片もない。音楽に混じって、低いざわめきが聞こえる。演奏に驚いた人々が、つい声を漏らしてしまったものと思われる。

 当時の聴衆の感想が挿入されている。

「とにかく普通じゃなかった。ピアニストはステージの上で弾いてるのに、まるで友達に隣から話しかけられてるみたいだったよ。夢でも見てるのかと思った」

 映像は終楽章も後半に飛ぶ。彼女は超絶技巧を子供向けの練習曲かなにかのようにするすると弾いて、曲の深奥にある強い感情のもつれを、理知的な光で照らす。

 結尾部はさらに、異様といっても良い。オーケストラの音は小さく、低く、遅い。全ての人間がピアノに集中し、一音も聞き漏らすまいとその流れを追う。ピアノの旋律は言葉に変じ、あるいはそれすら超越した力をもって、必ずしも万全ではない映像を通してさえ、聴く者にある直感を与える。

 演奏が終わり、ピアニストが手を膝においてなお一分以上も、拍手はおろか、しわぶきの一つすら聞こえてこない。原因は、感動よりは当惑と考えられる。たった今自分が感得したものが何なのか、わからないのだ。

 しかし、この直感は次第に失われる。聴衆は魔法が解けたようなぽかんとした顔になり、そのすぐ後で津波のような拍手が起きる。



「他人から見たら私も変人なんでしょうが、その私から見ても娘は変わってますね」

 ピアニストとしてのキャリアが始まってすぐ、彼女は母親を喪っている。以下はその数年後、父親へのインタビューである。

「小さい頃、そう、四歳くらいの時かな、毎晩、夜寝る前に物語をしてたんですよ。面白いのはあの子ね、どんな話を聞きたいか指定するようになって」

 父親は目を細める。

「ある夜にね、世界の終わりの話を聞きたいって言い出しまして。それで最初は、聖書の最後の審判の話を聞かせたんですな。そうしたら、神様が出てくるのは本当らしくないとクレームをつけられて。ませた子ですな」

 インタビュアーと父親は声を上げて笑う。

「現実的な世界の終わりといったら、戦争が思い浮かぶじゃないですか。でも人間同士の争いを子供に話したくないから、宇宙人が攻めてくるとか、怪獣が目を覚ますとか、そんな荒唐無稽なやつをでっち上げたんですが、それでも納得しなかった」

 やはり現実的ではないと? インタビュアーの問いに、父親は首を振る。

「いいえ、神様よりはありそうだけど、それで滅びるのは人間だけで、地球が残ってるじゃないかと言うんですよ。それじゃあというんで隕石が落ちてくるとか、ブラックホールに飲みこまれるとか考えたんだけど、今度は地球が無くなっても他の星が残ると」

 父親はお手上げのポーズをしてみせる。インタビュアーも苦笑して、先を促す。

「仕方がないから妻と交代して、宇宙が滅亡する話をしてもらったんです」

 ふと父親の目に、亡き妻への哀惜の色が宿る。インタビュアーは何も言わず、次の言葉を待つ。

「宇宙物理については門外漢なもので、私の理解が間違っていたら失礼」

 ややあって父親はそう断ってから続ける。

「妻は最初、宇宙の熱的死、つまり全てのエネルギーが均質になって運動を止めるということを語りましたが、これはどうやらお気に召さなかったようです。理由は、遠い未来の出来事だというのと、何より地味だから。そこで今度は、思い切って理論上のドラスティックなシナリオを話すことにしました」

 時おり手元のメモに目をやりながら、父親は語る。

「真空崩壊、というものをご存じかな?」

 インタビュアーはいいえ、と答える。

「さっきの話とも関係するが、エネルギーというものは高い方から低い方へ流れて、低いところで安定する。ここで、真空というのは最もエネルギーが低いわけですから、一番安定していることになる」

 はあ、とインタビュアーはわかったようなわからないような返事をする。普段音楽関係をやっている記者なのだから仕方あるまい。

「ところが、真空のエネルギーは本当に最低なのか、もっとエネルギーが低い状態があり得るんじゃないか、という説がある。わかりやすくいえば、例えば坂道を転がり落ちてきたボールが、坂の途中で窪みにはまる。この窪みにはまった状態が、我々の宇宙の真空としましょう。ボールは一見安定しているが、誰かが取り出すか、下の方から窪みの底に向けてトンネルでも掘れば、再び転がり落ちていく。つまりエネルギーの高い真空からより低い真空へ転移します」

 まるで指揮棒でも振っているかのように滑らかに手を動かしながら、父親は説明する。

「さて、真空の一箇所でこの現象が起こった場合、より高いところからより低いところへ転移した、その差額分のエネルギーが放出されます。この差額は莫大です。どれくらい莫大かというと、周囲の真空を同じように転移させるほど。そして転位した周囲の真空が、またエネルギーを放出する。これが続くとどうなるか、おわかりか」

 過程まで把握しているかは怪しいが、結論だけはなんとか理解できたようだ。ドミノ倒しですか、とインタビュアーはつぶやく。

「その通りです。新しくできた真空が、連鎖的に、光速で拡大する。この時、新しい真空はエネルギーの基準が違うから物理法則も変わる。そうなると、真空の転移とともに、元の世界の全てが消えていく。これが真空崩壊です。まごう方なき、宇宙の滅亡ですね」

 父親は手のひらの中でメモをくしゃっと潰す。

「この話を聞いて、娘はそりゃあもう喜びましたよ。良かったよかったと言って。何がそんなに良かったのかと聞いたら、全部のことには始まりと終わりがないとおかしいとか、そんな意味のことを喋ってました」



 マチネーは午後二時の開演ということで、休日のランチをのんびり楽しんだ後の客が多く、ゆったりとした、良い意味でわりと雑多な雰囲気だ。そんなくつろいだ空気に溶け込んだかのように、彼女はステージをとことこと歩いてきて、ピアノにちょっと手をかけてひょいと頭を下げると、椅子に落ち着く間もなくピアノに取りつく。全編を支配する明確で特徴的な主題から、シューベルトの幻想曲「さすらい人」が始まる。

 唐突な開始に聴衆は慌てるものの、駆け抜けてはまた現れる主題によって、すぐ楽想に引っ張りこまれる。そしてこれまた突然、ある理解に至って愕然とする。

 自分が今理解したものは何なのか。理解した、という感覚だけが先に来て、その中身がわからない。聴衆は考えあぐね、ステージ上の音に耳を傾ける。

 そこはまるで映画のスクリーンだ。音はほとんど視覚的に乱舞している。一つひとつの音ははかなく、つかみ取ろうとするそばから消えゆくが、にもかかわらず、音の連なりの中から、それを聴く者と精神を共有するなんらかの実体が立ち上がる、かに思われる。その正体を見極めようと聴衆が身を乗り出した時、強く鍵盤が叩かれ、続けて終楽章が始まる。

 最初から結論めいたものが提示されるが、無論のこと、聴衆にはそれが何を示すのかわからない。ただわからないままに疾走する音楽に身を委ね、そのうちに、音の流れの中に自分の経験したことのある感情が乗っていることに気づく。感情は映像に変わり、かつて見知ったこと、あるいはこれから知るべきことが次々と去来する。

 ああ何のことはない、この曲が語っているのは私自身じゃないかと気がついた瞬間に音楽は止まる。


「もう少しで、自分の人生の終わりまで見えるかと思ったよ」

 楽屋に花を持ってきた父にそう言われ、彼女はあどけない笑顔を見せる。

「母さんのことも見えた?」

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