第4話 顔を洗うシーン

 恋に落ちる、とはよく言ったもので。

 落ちた先は海の奥深くぽっかりと空いた底だった。


 夜露のようにしたたる水は、静かにシンクを濡らしている。指を鳴らせば人気のない部屋で一斉に動き出す規則的な仕組みは、ただ一人のために私によって組まれたプログラムだった。

 朝を演出するための、未来的なアトラクションだ。


 ぴっ、しゃっ、こぽぽ、ばすん。


 心地よい音楽を添えて部屋が息を吹き返す。

 この、仕組みには。対象がすげ変わったとしても、気付かれない。制御機器は視界の端っこでぷかりと頭上で浮いて沈黙している。

 まるで私の世界に引きこもった主人の最後の恨みごとを代弁しているかのようだ。


 鏡の中には化け物がいた。

 やつれた頬と外の光を受けつけないまぶた。何度見たってこの顔は――


「慣れない」


呟いたひとりごとだってすぐに部屋に消えてしまう。


 ちなみに恋に落ちた原因は主人のために食事を運ぶ運搬屋になった。はるか頭の先で今日もはにかむあの子の顔が見える。

 そうして同情するのだ。

 年間恋に落ちた人数は自殺者にも満たない、けれど。主人のように恋の味を知らないまま穴の中で一生を終える人間は少なくはない。


 顔を洗ってせめて、笑う。

 どうか今日こそ主人が目覚めますように、という祈りさえこめて。



 主人が消えて七〇〇日目の朝だった。

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ぷちヘキまとめ 井村もづ @immmmmmura

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