山西十七式は一夜限り

梧桐 彰

山西十七式は一夜かぎり

 境界を越えてはいけないよ。

 二度と帰れなくなるからね。

 すごく小さいころ、そう言われたことがあった。


 僕は日本人だけれど、大陸の大きな街で生まれた。正しく言うと、北京政府ぺきんせいふ奉天省ほうてんしょう奉天ほうてん。この地域を支配していた張作霖という人が爆弾で殺されたとき、僕は尋常小学校の五年だった。

 張作霖のあとを継いだ息子の張学良は北京にこもり、もうこの街にはいない。僕たちの小学校では「張学良は万里の長城の向こう、熱河省でアヘンを栽培させているんだぞ」というちょっと背伸びした噂が広まっていた。街はなんだかピリピリしていて、厳しい顔つきの軍人や警官が毎日のように見回っている。いつ、何が起きてもおかしくない、そんな空気が漂っていた。


 *


「今日も霧だね」

 小学校に行く途中で紗子が言った。

 毎朝会うこの同級生は、僕を見てもおはようとは言わない。代わりに天気の話をする。近所に住んでいる紗子は友達が多くて、次に来るのは絶対に噂話だ。

「今週ずっと霧だって、ふみちゃんのお父さんが言ってたよ」

 だいたいいつもこんな感じだ。

 奉天は霧が多くて、それが流れている日は見慣れた景色を大きく変える。僕たちの住む町も、遠くの山深い里も。この移流霧いりゅうぎりと呼ばれる足元をすり抜ける白いテンみたいな水の集まりは、暖かく湿った空気が冷たい地面を移動するときにできると学校で習った。

「霧の夜にさ」

 紗子が言った。

「城内に行くと幽霊が出るらしいよ」

「またそれ?」

 くすっと笑って紗子を見た。

 奉天は二つの場所からできている。一つは城内と呼ばれる、清の時代からある円い壁に囲まれた旧市街。もう一つは碁盤目のように区切られた城外だ。その間には商埠地しょうふちと呼ばれる銀行や企業が集まる新市街があり、二つの街の境界になっている。

 僕たちが住んでいるのはこの商埠地のそばの新市街だ。外は西洋のれんが造りなのに室内は畳敷きの建物で、持ち主は満鉄という会社だった。

「ほんとうだって、まー君も見たって」

 僕たち外国人が多い城外と違って、城内は昔から大陸にいる人たちの場所だ。二つの境界には道路を挟んで、違った制服の警察官が向かい合って立っている。その先に何があるのか、子どもたちは誰も知らなかった。

「だいたい幽霊って言ったって、誰の幽霊なのさ」

「奉天の人と戦って殺された馬賊とか、その家族よ」

 紗子が言うにしては珍しい言葉が出てきた。馬賊は中国の自警団だ。この奉天を含む満州では、僕が生まれる前あたりから盗賊がはびこっていて、それに対抗するために馬とピストルで戦う集団がたくさん結成されていた。張作霖ももとは馬賊だった。そうした集団の中には自衛を越えて、別の馬賊や外国の勢力と戦争のようなことをすることもある。

「怖いでしょ? 幽霊」

「怖いもんか。馬賊のほうが怖いよ」

「うそ、本当は怖いくせに」

「怖くないって」

「あっそ。じゃあとっておきのおまじない、教えてあげない」

 紗子はつんとそっぽを向いて、僕から一歩離れた。

「おまじない?」

 なんとなく気になって聞き返した。

「そう。幽霊を退治するおまじない。でも怖くないなら知りたくないでしょ」

「知ってるんだろ?」

「怖くないんでしょ」

「怖くないけど、知らないままだとなんかやだ」

「わがままばっかり。じゃあ教えてあげる。特別ね」

 紗子は僕の方へ向くと、ふふっと笑った。

「こうやって、右手を上にあげるの。それから前に振るの。こう」

 紗子は出席を取るときみたいにすっと上に腕を伸ばすと、それから、その手を振り回すように前に出して、ぴたっと止めた。

「こんな?」

 僕も上にあげた手を前にぶんと振った。

「そうそう。それで助かるんだから。いのちゃんのお兄さんが言ってたから間違いないよ」

「本当かなあ……」

 首をかしげる僕に、本当本当、と紗子が繰り返す。

「でも幽霊に会わないのが一番だからね。だから今日みたいな霧の夜は絶対出歩いちゃだめだよ」

 紗子はすぐお母さんみたいな態度になるけど、話の中身は子どもっぽいな。そう思ったけど、口には出さないでおいた。

「今日、授業は算術と国語だけ?」

「ううん。今日は理科も。先生、桶に水入れて振り回す話ばっかりだよね」

「遠心力?」

「そう遠心力」

「紗子がずっと前に振り回した時、ずぶぬれになってたよね」

「あの桶、重すぎるんだもん」

「遠心力をわかってないんだな」

「なにさ意地悪」

 紗子がくすっと笑って僕の肩を押す。

「次は僕に貸してよ。代わりに振り回してやるよ」

「どうせあんたもずぶぬれよ」

 僕も笑った。

 時折降りてくる雲の輝きを、最近になって立ち始めた電柱が歩くたびに遮ってくる。坂道のないこの街の道路は、先週までは真っ白な雪に包まれていた。それが今はまったく見えず、赤レンガにぶつかって波のように砕ける霧だけが包んでいた。

 

 *


 夕方。友達と遊んでから兄ちゃんがいる仕事場に寄ってみた。職場で兄ちゃんたちはなぜか広場に集まって整列している。ちょっと待っていたらすぐに解散になって、兄ちゃんはすぐ僕を見つけて手を振ってきた。

「なんか新しい仕事してたの?」

「いや、今日から職場でピストルの練習やることになって」

「なんで? 兄ちゃんも?」

「うん。最近物騒だからさ。こんなの貸してもらった」

 鞄の中から、兄ちゃんがピストルの形をした木の模型を出してきた。ニスも塗っていない、ただ削りだしただけのおもちゃみたいだ。

「こんなので練習になるの?」

「事務所に二丁しかないから仕方ないよ。それにピストルって、構えたら的と照門、照星、自分の目を一列に並べるのが練習のほとんどなんだって。その練習だけならおもちゃでもできるらしいよ」

「しょうもん? しょうせい」

「鉄砲の前と後ろについてる目印だよ。こんな感じで」

 そういうと兄ちゃんは両手でピストルを構えて、屋根の上のカラスに向けておもちゃを構えて引き金を引くふりをした。

「これがヨーロッパ式の撃ち方なんだとさ。教えに来た人は、馬賊みたいにブンブン振りながら撃つのは下品だとか言ってた」

「そりゃ振り回しちゃ当たらないでしょ」

「知らないよ。馬賊のピストルは山西十七式ってやつで、今日見たのとは全然形も違うみたいだし。まあ習った方法なら遠くの的には当たるだろうけど、人間なんて大きいんだし、そんな正確じゃなくていい気がするな」

「いい加減だなあ」

「どうせ撃ち合いになったら落ち着いてなんかいられないよ」

 兄ちゃんはおもちゃをカバンにしまうと、代わりにカチカチに固まったパンを出し、それを半分分けてくれた。

「でも、そんなのやってるなら戦争が起きそうってこと?」

 冷たいパンをかじりながら言った。

「新聞に書いてあったろ。警察隊が中東鉄道の電話局を占拠したって。張学良は国民政府と仲良くしてソ連と戦うつもりなんだよ。そうなると奉天も戦場になるかもな」

「ええー、やだなあ」

「幽霊が増えそうだ」

「なに幽霊って?」

「霧の夜に城内に出るらしいよ、幽霊」

「兄ちゃんもそれ信じてるの?」

「まさか。事務所でそういう噂があっただけだよ。馬賊の幽霊と決闘させられるとか。死者が増えたら幽霊も増えるんじゃないか」

「兄ちゃんの話、想像ばっかりだ」

 からかったけれど、笑って返された。兄ちゃんは戦う話とか国のためとか、男らしさを示すような話はしない。兄ちゃんは僕と違ってケンカはめったにしないし、売られても笑ってごまかしてしまう。頭がよくて真面目だけれど、男らしさなら僕のほうが上だと思っていた。

 霧がまた、山の上から目の前の道沿いにおりてきた。ふと目をあげると、その流れの先に、ぼうっと黒く城壁の一角が見え隠れしていた。その向こうで何があったと言っても、兄ちゃんは絶対に行かないんだろうなと思った。


 *


 夜。みんなよりも少し先に布団に転がって、いろんなことを考えた。学校のこと。戦争のこと。でも一番気になったのは、幽霊の話だった。

 中国人だけが住んでいる城内は、確かに僕たちにとっては謎だ。僕たちはあまりそこの人たちと付き合おうとしない。

 それにしたって、幽霊は嘘だろう。

 中国では、幽霊のことを鬼というらしい。桃太郎に出てくるみたいな鬼とは違って、お盆にやってくる死者のことなんだそうだ。でも紗子には悪いけど、そんなのいるわけがない。霧の夜に幽霊なんてそれっぽいけれど、ありえない。今の奉天は軍閥とかソ連とか、そっちのことが大事だ。幽霊なんて、非科学的だ。

 迷信だよ。

 窓の外を見ながら頭の中で繰り返した。白い霧はまだ町中に広がっていた。城内まで、ずっと。なかなか寝られなかった。なんだか妙にいらだって、目を閉じてもどうしてもまた開いてしまう。それが何度も繰り返された。嫌だなあ。紗子の話が嘘だってはっきりわかれば、こんなこと考えなくてもよくなるのに。そう考えているうちに、頭の中で、一つ、結論が出た。

 つまり、幽霊がいないってわかればいいんだ。

 耐えきれなくて、家族はもう全員電気を消してから、僕はこっそり起き上がって外着をさぐった。厚木をして、勝手口へ向かう。室内の暖気で窓の氷が溶け、まだら模様になったガラス戸を開けた。二重窓の外側は凍りついていて、バリバリと音が鳴ったときは少し慌てたけど、誰も起きたりはしなかった。

 えいっと覚悟を決めて、僕は外へ出た。

 外に置いてある温度計を見た。零下十度だ。霧は道路一面に広がって布団のようになっていて、そのうえで眠れそうだ。道は目をつぶってもいける。僕はこっそり持ち出した携帯電灯をつけ、二つの街の境界に向かって駆けた。怖いとは思わなかった。幽霊がいるのかいないのか、それだけを確かめたかった。


 *

 

 すぐに城門が見えた。周りには誰もいない。壁を超えると、その先にはがらんとした空き地がある。鉄条網がぐにゃりとひしゃげて一部が破れていた。その向こうに何か見慣れないものがあった。駆けよってみると、城門の上に、針金を通した丸いものがずらりとつり下げられている。

 提灯だろうか?

 寄っていく。黒いその並んだ塊にはでこぼこと、その並んだ二つのくぼみ、その下の小さな盛り上がり。提灯じゃない。背伸びして顔を寄せた。冷たい空気が喉をなでる。目を見開く。そこでひっと息を飲んだ。ビリビリっと電気が流れるような気持ちの悪い感覚が体を包んだ。

 並んでいるのは、人の頭だ。首を斬られた人たちの。

 死んだ人をこんなにはっきり見たのは初めてだった。冷凍室の肉みたいであまり生々しさは感じなかったけれど、目がひらいているのは見るたびに怖くて目を逸らしながら見上げた。

 その時、首の一つが目をぎょろりと動かした。

 見間違いかと思って、もう一度顔を上げた。体が震えた。寒い風の中で、僕の頬を季節外れの汗が流れた。目はもう一度はっきりと動いて僕の全身を見回した。パリパリパリとその皮膚から氷が剥がれ落ちて地面に落ちた。

 そして今度は、ゆっくりと口を開けた。

「今晩はこいつか」

 その声とほとんど同時に足が動かなくなった。釘か何かで止められたように。

「最近はよく来るな」

 隣の首も同じように口を開いた。

 二つの首は目だけを下へ動かし、そうつぶやいた。何か言おうとしたけれど、舌が顎に縛られたように動かなかった。何もできずに立ちすくんでいると、二つの首の周りから霧はするすると遠ざかっていき、はっきりと僕を見つめているのがわかった。

「子どもだな」

「こちらにも子供はいる」

「みたところ九歳か十歳か」

燈実トウミが十歳だ」

 そういうと、首が空へ目を向けた。その視線の先から、がちゃりと何かが僕の脚元に落ちてきた。二つの首は一度僕を見ると、続いて霧の中に落ちた何かへ目を移して話し続けた。

「規則は多くない」

「君はこの武器で相手と戦う」

「引き金を引いたら弾が出て薬莢が上に飛ぶ」

「また引き金を引けばまた弾が飛ぶ」

「弾は十発入っている。予備はない」

「君が相手を殺したら現世に還る」

「君が相手に殺されたら君はこちらに残り、相手が現世に還る」

「君達の勝負に邪魔は入らない」

「わかったね」

 首は耳に針金を通したまま、ぐらぐら交互に揺れながら説明し、それが終わると、金縛りのようになっていた手足や口が動くようになった。慌てて逃げようとしたけれど、突然足をすくわれてばったりとその場に倒れた。地震かと思ったが、地面は動いていない。

 足にまとわりつく霧が重さを持っていて、僕の脚をよろめかせたのだ。

 凍った地面をなでる指先に何かが触れた。霧を払うと、ホルスターに収められたピストルがホルスターに収められていた。

 山西十七式と書いてある。

 持ち上げると、左側には「壹柒式」、右側には「民国拾捌年晋造」と刻まれていた。兄ちゃんが言っていた馬賊の拳銃だ。あの首たちは、処刑された馬賊なんだろうか。

「君の相手が来たぞ」

 頭を上げて、道路の先を見た。城壁が続くずっと先に一人の姿が見えた。僕と同じくらいの背丈。薄暗くて顔は良く見えなかったけれど、片手に拳銃を持っている。はるか遠くのその姿が、銃を構えた。僕に向けて。

「うわあっ!」

 銃を握ったまま城壁へ向かって逃げたけれど、うまく走れない。ねっとりとした霧と、凍り付いた地面のせいで。流れの速い川につかって歩いているみたいだ。油断するとすぐに足を取られる。なんとか歩けるくらいだ。

 霧に転がされ、はいずりながらレンガの壁へ近づき、凍り付いた壁に背中をつける。その瞬間、ズギュンという音と同時に僕の脚元で銃弾が跳ね返った。

「やめろよ! 当たったらどうすんだよ!」

 びくっとその声に相手が身をすくませた。相手の体も震えていた。相手も怖がっているんだろうか。僕と同じように。

「叫んでいる間に撃て。還りたければ撃て」

「撃ち合うのがこの幽界での規則だ」

「撃鉄は起こしてある。引き金を引けば撃てる」

 首がぼそぼそと交互に言った。

 ピストルを撃つ?

 知りもしない人へ?

 無理だ。できるわけがない。震える体を抑えて、許してと言おうと視線を上げた。けれどそれを見ても、憐れむわけでもなく𠮟りつけるわけでもなく、呆れたような顔で二つの首が目を合わせた。

「ずいぶん臆病だな」

燈実トウミは還れそうだ」

 それを聞いてはっきりとわかった。言っても無駄なんだ。この幽霊たちには幽霊たちの理屈がある。こっちの話なんか知ったことじゃない。

「なんだよ、ちくしょう!」

 振り向いて相手を見た。霧の中を歩いているけれど、まだかなり遠い。

「やればいいんだろ! 本当に撃つからな!」

 拳銃を構えた。兄ちゃんに聞いた通り、両足を踏ん張って引き金を引こうとした。

 そこで風が強くなった。ぐらりと体が霧に押された。引き金を引くよりも前に。足を取られたのと銃の反動とが重なり、しりもちをついて地面に転がった。弾は爆音を響かせて霧を蹴散らしていったけれど、相手とは全然関係ない方角へ飛んで行った。

「なんだよこれ……」

「早く慣れることだ」

 首の声は相変わらずだ。

「当たるわけないじゃないか!」

 それを聞くと、首はとがめるように僕へかわるがわる言い放った。

「当たらなければ近づいて撃て」

「それが嫌なら遠くから当てられるよう工夫しろ」

「お前も燈実トウミも生まれて初めて銃を握る」

「年も体力もそれほど変わらないはずだ」

「霧と凍った地面に足を取られるのも一緒だ」

「条件が公平でなければ気の毒だからな」

 殺し合いをさせるのは気の毒じゃないのか。

 首がしゃべり終えたあたりで、また相手の銃声。カンと何かにぶつかった音はまだ離れている。それでもはるかかなたにあった相手の顔が、だんだんはっきりしてきた。真剣な表情だ。

 僕を殺せば生き返るのか。

 必至だろうな。でもこっちだって必至だ。殺されてたまるか。銃を持って体の真ん中に構え、また引き金を引いた。けれど、弾は飛ばせても狙いが全然定まらない。じっくり時間をかけて狙おうとすると、どうしてもその間に細かく震える霧に足を取られる。三発撃ったけれど、弾丸はどれも見当違いのほうに飛んで行った。向こうも当たらないけれど、こっちも当たりそうにない。一瞬で構えてさっと撃とうとしても、それじゃ力がこもらない。反動が大きすぎて弾は空へ飛んでしまう。

 言われたように近寄ればいいんだろうか。でもそれじゃこっちも危険だ。それに相手は思ったより慎重ですぐ逃げてしまう。まっすぐ全力で追えばなんとかなるかもしれないけれど、それじゃ的だ。かといって、ジグザグに走ればすぐ転んでしまう。

 広場の脇に立っている壁の後ろへ逃げ込んで、相手の様子を見た。

 向こうも同じような柱の後ろ側に隠れている。何度か顔を出しては撃ち合ったけれど、当たりそうにないのでそのまま様子見になった。

 少し休んだあたりで、急に疲れが押し寄せてきた。

 始まってから、まだ五分もたっていないと思う。でも緊張と寒さとこの地面のせいで、体力がいくらあっても足りない。このまま疲れ切って殺されてしまうんだろうか。家族にも友達にも会えないまま。

 もう、紗子にも……

 そこで急に、紗子の話を思い出した。

『こうやって、右手を上にあげるの。それから前に振るの。こう』

 まさか、あのおまじないって、ここで使うのか?

 考えてみれば、幽霊が目の前にいるんだ。だったらやる価値はある。銃を左手に持ち直して、右手を振り上げて前に振ってみた。何も起きない。もう一度やってみた。それでも何も起きない。何度やっても、何度やっても。霧の城内から逃げ出すことはできなかった。

 なんだよ! 紗子の嘘つき!

 奥歯を噛みしめてぎゅっと目を閉じ、くそっ、くそっ、とつぶやいた。八つ当たりもいいところだ。元はと言えば自分のせいだ。行くなと言われてたのに、境界を越えたんだから。それでも、何かにすがりたくなる気持ちは消せない。どうすればいい。どうすれば助かる? 考えながら、もう一度柱の横から様子を見た。そこで、あっと目を見開いた。

 いない。

 燈実トウミと呼ばれていた僕の対戦相手は、さっきまでいた柱の後ろから移動していた。細い柱だから、体を完全に隠すことはできないはずだ。

 どこだ。

 下がりながら拳銃を右手に持ち直し、腰を引きながらきょろきょろと見回した。どこだ。どこだ。がさっと何かが動く音がした。右だ。思っていたよりもかなり移動していた。

 姿勢を低くして下がる。視線の先に相手がいた。思ったよりもずっと近い。震える両手で銃を構えていた。

 火薬の音。

 続く空気の音。

 何度か聞いたその高くて重い音が響いた。横腹に火バシか何かを押しつけられたように熱く感じた。逃げながら自分の腹を見た。

 真っ赤だ。

 血があふれている。痛くない。熱い。でも間違いなく撃たれた。死ぬんだろうか。まだ走れる。でも血が出てる。

 足がもつれる。霧に流されて体が揺れる。歯を食いしばって一発撃ち返しながら、立木の陰に下がった。こんな不安定な態勢じゃ弾なんかあたるわけがない。馬の上で銃を撃つほうがまだましだ。

 馬の上で……

 そう思うなり、突然、僕の頭を大量に言葉が駆け巡った。

 馬の上で銃。馬賊は馬に乗ってピストルで戦う。なんで馬の上でピストルなんか撃って当たるんだろう。

 馬賊の拳銃は下品だ。ヨーロッパ式がいい。兄ちゃんの先生はそう言っていた。馬賊の下品な銃の撃ち方というのは、振り回す撃ち方だ。

 なぜ馬賊は拳銃を振り回すんだろう? なんでそんなことをする? 馬に乗っているから? 馬の上ではヨーロッパ式の撃ち方はできないから? なぜ? 

 揺れるから。揺れる馬の上では、狙って撃つと反動で姿勢がくずれるから。じゃあなぜ振り下ろして撃つ? 振り下ろすことに何の意味がある?

 遠心力を使えるから。

 理科で習った遠心力。銃を振り下ろして反動を殺すため。あの紗子のおまじないのように。紗子の教えてくれたあの姿勢。幽霊と出会ってから逃げるための。あれは幽霊を追い払うお祈りじゃない。

 あの動作は、馬賊が銃を撃つ方法だ。

 振り下ろす馬賊の撃ち方は、ヨーロッパ式が使えない時のための方法だ。足元がおぼつかない馬の上でピストルを撃つために、反動をそうやって殺してるんだ。

 本当にそうなんだろうか? 撃たれて、焦って、勘違いを信じ込んでるだけなんじゃないか? でも今のままならいずれは殺される。それよりも先生と兄ちゃんと紗子の話を組み合わせて、理屈が通ることに賭けてみたい。こんなところで死ぬなんて冗談じゃない。帰るんだ。みんなのいるところへ。

「やるぞ」 

 一言、小声でつぶやくと、繰り返し繰り返し頭の中で銃を撃つ姿を描いた。頭の中の自分が銃を振り下ろし、水平になったときに引き金を引く。僕は馬賊のように手綱は持っていないから、両手で持ってもいいはずだ。三度頭の中での練習をやってから、覚悟を決めて両手を振り上げ、木立の陰から飛び出した。

 手をぶんと前に振る。

 同時に引き金を引いた。当たらなかった。でも反動はほとんど感じない。やっばりだ。これが正解なんだ。

 もう一度だ。振り上げて振り下ろして引き金を引いた。バランスが取れないこんな中で、照門と照星なんか見ながら撃つのは無理だ。今までの何回かの感覚を頼りに、相手の心臓をにらみながら引き金を引くしかない。正確に当てるのは無理だ。でも人間の体は大きい。細かい的に当てる必要なんかない。兄ちゃんが言っていたことを思い出しながら。何発も残ってない。あるだけ撃ち込んでやる。

 相手の姿が見えた。歯を食いしばって銃を構えている。移動する僕を相手の銃が追いかけてきたが、銃口はふらふらと動いていて定まらない。一発、火花の色。でも銃弾は僕のはるか上を走っていった。直後、僕は霧をかきわけて銃を振り上げた。

 大きく両手を振り下ろし、素早く引き金を引いた。

 もう一度振り上げ、振り下ろして引き金を引いた。

 もう一度振り上げ、振り下ろして引き金を引いた。

 三度目で相手が吹き飛んだ。霧の中へ仰向けに沈むのが見えた。もう一度撃とうとしたけれど、もう弾はなかった。カチっという音がして、遅れて銃が焼けるように熱くなっているとわかった。思わず手を開いた。手を滑り落ち、武器は凍った地面を弾んだ。連続した銃声に耳をやられたのか、氷にぶつかる金属音は、奇妙に遠く聞こえた。

 膝を折る。冷たい地面の上に倒れる。血が流れる脇を抑えながら。僕の体の上を、真っ白な霧が流れていく。

 

 *


 家の布団にいた。

 跳ね起きて周りを見たけれど、まだ日は上ったばかりで、家族は眠っていた。拳銃はどこにもなかった。夢だったんだろうかと、シャツをまくってお腹の右側を見た。傷は完全に治っていて、痕は全く見えなかった。

 朝日が上り、母ちゃんが起きて食事を作り始めた。

 ふらふらと近づくと、あら早いのね、と、いつもと同じように言った。味噌汁と玄米のご飯がちゃぶ台に並び、家族と一緒に座る。兄ちゃんは職場ではピストルの練習なんかしたくないという話をお父さんにしていた。お父さんは渋い顔をしていたけれど、これも日本のためだと答えた。僕は何も言わずに、黙々とご飯を噛みしめた。

 学校へ行く途中で、紗子に会った。

 紗子は「霧、やんだね」と言い、僕は何度か口を動かしてから「昨日、城内で幽霊に会ったよ」と言ってみた。

「嘘ばっかり」

 紗子が口を抑えて笑った。

「紗子がいるよって言ったんじゃない」

「信じてない人には会えないのよ」

「信じてなくたって会えたよ」

「はいはい、今度連れてきてね。連れてきたら信じるから」

「本当なのに」

「じゃあ、おまじないした? 教えてあげたでしょ」

「した」

「どうなったの」

「すごく役に立った」

「嘘ばっかり」

 紗子が笑った。

 僕はなんだか急に嬉しくなって、紗子の手を引いた。

「行こうよ」

「どうしたの。なんか元気だね」

「うん」

 二人で軽く走って学校へ向かった。

 霧が晴れた奉天はまだ寒かった。


 *


 あの日以来、僕は城内に行っていない。

 同じ年、張学良が率いる奉天軍閥は、北京にいる中華民国の蔣介石の北伐軍に降伏し、ソ連との戦争に入った。それが一区切りついたところで、この奉天は日中戦争のきっかけとなる満州事変へ巻き込まれていくことになる。そこでは僕も招集を受けたけれど、満鉄で軍属のまま仕事をすることを選び、兵隊にはならなかった。それが自分に合っているように思った。そういう話が出るたびに、あの夜、対決した少年のことを思い出すからだ。

 彼はどうなったのか、ずっと気になっていた。

 生き返らないまま、あの霧の中にいるんだろうか? それともまた別の夜に、別の人と対決して生き返ったんだろうか? それとも現世に戻るのはあきらめて天国に行ったんだろうか? どれなのかはわからないし、それを教えてくれる相手もいない。でも、彼がどんな道へ行ったとしても、そのきっかけは僕の手によるものだ。

 僕にはもう、それを繰り返すことはできない。

 あの夜が、僕に銃を持たない道を選ばせた。

 だから僕が銃を手に取ったのは、僕が引き金を引いたのは、たった一夜。

 あの奉天を埋めつくした霧の夜だけだった。


【了】

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