危険ココア ダメ。ゼッタイ。――眠れる少女の終わらない夢

魔王城文芸ハッカソン

危険ココア ダメ。ゼッタイ。――眠れる少女の終わらない夢

「眠れない夜はやっぱりココアね」

「あんた、いつもぐっすりお休み三秒でしょうが」

 森永はそういって空っぽになったココアのカップをベッドわきの机の上に置いて布団に潜り込む。

 三、二、一、ほらもう寝息を立てだした。

 森永セイカはルームメイトだ。大学の寮の十畳の部屋を二人で分け合ってる。正直とても騒がしいルームメイトで、ほとほと世話を焼かされている。

 とにかく、行動が突飛なのだ。

 ある日、突然いなくなったと思ったら、巨大な蟹を持って帰ってきて

「北海道まで蟹、密漁してきた! ロシアの船怖かったよ!」

 とか

「まきばー、ラーメン食べに行こうぜ~」

 と誘われて、まあ、ラーメンならいいか、と思ってついていくと、気が付いたら新幹線に乗って、博多まで連れていかれた、っていうこともある。

 そんな彼女が今、ココアに嵌っている。

「まきば、ココアって言ってもこれはただのココアじゃないんだな。なんと、あの『ココア売りの少女』のココアなんだぞ」

『ココア売りの少女』。最近学部や街で流行ってる都市伝説だ。その少女は心の底から強く『望んだ夢がみたい』と願っている人のところにしか現れない。そして、彼女の売るココアは『望んだ夢が見られるココア』で、そのココアを飲むと望みの夢が見られるというのだ。荒唐無稽だ。

 森永は、そんなココアをどこからか手に入れてきて飲んでいる。それも一回だけでなく何回も。もし本当にその少女から手に入れているとしても、よくそんな得体のしれないものを飲めるな、と思う。

 でも、もし、本当に。自分の願った通りの夢が見れるというなら、それが例え夢でも、望んだ景色が見れるというなら。私はどんな夢を望むのだろう。

「ふひひひ」

 ベットで森永がだらしのない笑い声をあげる。どうやら楽しい夢を見ているらしい。布団を蹴り上げて、口の端からよだれが垂れている。汚い。おせっかいだと思ったが、布団を直してかけてやった。

 最近の森永は寝てばかりだ。前みたいに突然くいだおれ人形をどこかから持って来たり、市街地を走る暗渠の探検に付き合わされることもない。おかげでとても、平和な毎日だ。


「ほら、森永、起きな! 一限目始まるよ!」

「すー、すー」

 声をかけても、森永は寝息で返事をするばかり。ゆすっても起きる気配がない。お前、そろそろ単位やばいんじゃなかったのかよ。もう知らないぞ。

 私も単位を落とすわけにはいかないので、森永を置いて、授業に出かける。

 時間ギリギリで教室に滑り込む。語学、出席してるのは大体いつものメンバーだ。ただ、いつも前の方の席に座っている杉山がいない。一生懸命なのに要領が悪い。出席だけは頑張っていたのにな、あいつ。他のみんなは後ろの方の定位置に座って、教授に聞こえないようにボソボソと話をしている。彼女たちの会話を聞こうと思っていたわけではないが、自然に耳に入ってきた。同じ学部の子の噂、悪口。そして、『ココア売りの少女』の都市伝説。彼女たちの話してる話は、ほとんど森永から聞いた話と一緒で、本当にこの話広まってるんだなあと思った。でも、森永から聞いた話と違うところが一つだけあった。

「……だから……なくなっちゃうんだって」

「え? なに?」

「そのココア、飲みすぎると目が覚めなくなっちゃうらしいの。自分の好きな楽しい夢の中で、一生出られなくなっちゃうんだって」

「えーでも、別にいいじゃん、ずっと楽しい夢なんでしょ? 私もつらい現実から逃げたいよ」

「何のび太みたいなこと言ってんの」

 ……目が覚めなくなる?

 私は教室を飛び出していた。教授が呼び止めるのも聞かずに。


「おい! 起きろ! 起きろ森永!」

 胸倉をつかんで森永の頬を思いっきりひっぱたく。なんどもなんども。それでも、森永は寝息を立てたままだ。気持ちのいい夢を見ているのか、口の端で薄く笑ってさえいる。

「起きろ! 起きろってば! 森永! 森永セイカ!」

 ゆすって、つかんで、転がして、でも何をしても起きない。

「こんな、夢の中に逃げて、あんたらしくないよ、起きろ!」

 いつからこんなだったんだろう、なんで私は気付かなかったんだろう。森永が、このまま起きなかったらどうしよう。鼻の奥がツンと熱くなる。眼鏡が白く曇る。森永をつかむ指はしびれて感覚がなくなっていた。


 丸一日経っても目覚めない彼女を前にして、私にできることは救急車を呼ぶくらいだった。外傷なし、病の傾向なし。病院では精密検査にかけられたけれど、結論として彼女はただ眠っているだけ――診察をした医師はそう断じた。

 森永は奔放で身軽なやつだったけど、まさか彼女の親族までそうであるとは限らない。今一番彼女の近くにいて、状況を理解している人物として私は医師の話を黙って聞いていた。壮年の男性医師は続ける。

「脳波に異常はありません。もちろん身体にも。医学的に見て、彼女はこれ以上ない健康体です。一日以上眠りから覚めないというのは明確に異常事態ではありますが、おそらくは精神の問題、我々にできることは現状維持以上のことはありません」

 森永の腕からは点滴の管が伸びている。それは臍帯を思わせた。生まれる前のまどろみ。果たして彼女はどんな夢を見ているのだろう。以前彼女が言っていた通り、それはそれは楽しい夢なのだろうか。

 現実よりも?

「似たような症状で運び込まれる患者が最近増えてきています。その例からいうと、彼女の状況もここから悪化することはないでしょう。もちろん、目覚めるかは別問題ですが」

 医師はそう言うと、ストレッチャーに乗せられたままの森永と私を診察室から出し、六人の相部屋をあてがってくれた。そこでは皆一様に眠り、衣擦れの音一つなく、呼吸の音が嫌に耳についた。私以外にも付き添いの者は何人か部屋にいたが、患者たちはもう眠り始めてから何日も経っているのか、不意に目覚めるような期待を持っている者はいないらしかった。

 眠り続ける森永の姿は、あの気まぐれで奔放で活動的だった彼女の面影を残しつつも静謐で、まるで眠り姫のようだ。もう目覚めない、そんな悪夢が一瞬頭をよぎる。この奇妙な病気から目覚めたものは誰もいない。私もやがて期待に疲れ果て、他の人たちと同様に、毎日彼女の寝顔を見て過ごすだけになってしまうのだろうか。

 その絶望的な想像に彼女の顔をそれ以上見ていられず、私は部屋を出た。朝起きてからまだ何も食べていない。病院の購買に立ち寄って、適当なサンドイッチをつまみ上げ、飲み物の棚に目をやったときにそれに気づいた。紙パックに入った飲料に表記されているのはココアの文字。

 ココア。彼女が眠りにつく前に求めていたもの。楽しい夢をもたらしてくれると言っていたもの。彼女はそれを少女から買ったと言っていた。最近は毎日のようにそれを飲んでいた。もしそれが彼女を永遠に続くかもしれない眠りに追いやったのだとすれば?

 確信はない。私はそのココア売りの少女には出会えなかったのだから。だけどあのときは切実ではなかった。興味本位だった。今はなんとしても会いたい。「ココア売りの少女」に。会ってなんとしても話を聞かなければならない。

 大学に行けば他にもココアの愛飲者はいる。その人達にまずは聞いてみるほかあるまいと思いつつ、病院の中庭に出る。日の差す中庭では患者や見舞客たちがめいめいに日差しを浴びていたり、笑い合ったりしている。私は彼らの視線を避けるようにして端っこのベンチに陣取り、購買で買ってきた包みを広げた。

 人々に混ざる気持ちにはなれなかった。誰もいないそこでサンドイッチに目をやり、一つつまみ上げてから視線を上げると、不意に少女と目が合った。フリルの付いた、ちょっと時代がかったドレス。手にはかごを下げていて、中からは魔法瓶と紙のカップが覗いている。

 誰もいなかったはずなのに、どうして。その姿は患者のものにも病院関係者のものにも見えない。端的に言って場違いな彼女は、当然のように、私を見ている。

「あなたがわたしを呼んだのね?」

 少女の声は私の耳朶を打った。呼んだ。ということは彼女が?

 忽然と現れたことといい、明らかに人知のうちにあるとは思えない少女の声はしかし可憐なだけの普通のもので、私はたまらずこう聞いた。

「あなたが『ココア売りの少女』?」

「そう呼ぶ人もいるわ」

「なんでこんなところに?」

「あなたがわたしを呼んだから」

「嘘つくな。今までも探した。けど一度も姿を現したりなんかしなかったくせに」

 少女は笑った。それはきっと年相応のかわいらしいくすくす笑いだったのだけれど、今のわたしには癇に障るノイズでしかない。

「あなた、夢なんて見ないじゃない。あなたに見えているのは現実だけ。そんな人にあげるココアはないの」

「みんなを目覚めない眠りに陥れた目的は何?」

「心外ね。みんな幸せな夢を見ているのよ。わたしはそのお手伝いをしているだけ」

 少女は魔法瓶と見覚えのある赤い紙コップをかごから取り出すと、ココアをゆっくりと空気を含ませて注いだ。それを両手に持って私に差し出してくる。

「次の目標は私?」

「違うわ。望んだのはあなた。見たい夢があるのでしょう? 現実に嫌気が差して、取り戻したいものがあるのでしょう?」

 そうだ。望んだのは私だ。森永がどこかに行ってしまったのだと不安だった。博多のときのようにわたしを連れて行ってくれないのだと、置いていかれるのかと恐怖した。

 けれど、これを飲んでわたしまで眠ってしまったら?

「戻ってこれるか不安? そうよね、当たり前よね。あなたのお友達は何度も戻ってきた――けれど結局は行ってしまった。あなたほど強く求めるものがあるのなら、一度で戻ってこれなくなるかもしれないわ」

「もう一度聞くけど。あなたは見たい夢を私に見せてくれるのよね?」

「そうよ、わたしは夢見のお手伝い。ココアの柔らかな夢をわたるもの」

 それならば。ためらうことはない。わたしの見たい夢は森永を取り戻す夢。夢の中で森永とともに過ごすことなんかじゃない。

 わたしが奪い取るようにココアのカップを彼女の手から獲ると、彼女はニッコリと笑って言った。

「あなたにも良い夢を」


 病室の中はしんと静まり返っている。わたしの手の中でココアの水面が揺れて、不安げな自分の顔が映った。

 彼女がもし幸せな夢を見ているとして。帰ってきてほしいと思うのはわたしの自己満足なんじゃないのか。夢見た先で出会った彼女が、現実の彼女と同一とも限らない。連れ出せるのか。私に。

 それでもやるしかない。もう一度、彼女に会いたい。彼女の安らかな寝顔なんかじゃなく、快活そうに笑った顔が見たい。二人でまた蟹を食べたい。

 わたしは意を決してココアを飲み干した。甘ったるい塊が喉の奥を通っていくのがわかる。それと同時に、抗いきれない眠気がわたしを襲う。

 背を起こして座っているのもままならず、私は森永の眠るベッドに倒れ込むようにして覆いかぶさった。反射的に眼鏡だけは外して、手の中に握り込む。意識が、落ちていく。


 まどろみの中、舌先を甘味がかすめる。それを頼りに意識が戻っていく。枕もとのスマホを探ろうとして、ここがベッドではないことに気づく。チョコレート。違う。この舌に絡みつく甘ったるさは、ホットココアだ。

 跳ね起きる。そもそも寝転がってすらいなかった。二本の足で立っているような気がするけれど、どこに立っているのかも判然としない。見えないわけではなくて、よく分からない。いちばん強い感覚は、ココアの甘味と芳香だ。夢の中では味覚や嗅覚がないような印象があったけど、これはこれで夢っぽいかも、という気はする。

 これが私の見たい夢なんだろうか。そのわりには、あんまりにも曖昧模糊としている。自分がどこにいるのか目を凝らそうとするけれど、どうにも意識が集中できない。茶色っぽいマーブルのイメージ。ココアの海? という想像が浮かんで、すぐに馬鹿らしいと思う。とりあえず歩こうとしてみても、まず右足を踏み出して、そして左足を踏み出す。そんな単純な行動がどうにもうまくいかない。前に進むというイメージをうまく保てないのだ。自分の手足が感覚的に自分のものでなくて、リモコンか何かでむりやり操作している感じ。思ったよりも居心地が悪い。


 人の声が聞こえた。今度は簡単に意識が向いて、吸い寄せられるように体が動いていく。ぼんやりと、何かが見える。同じ科の杉山だった。あんまり同級生といるところを見たことのない、地味な人だ。同級でオタクっぽいグループはいくつかあるけど、そういう連中ともあまり絡まない、印象の薄い人。その杉山が、なんでか人だかりの中心になっていた。あれは多分前期試験の過去問をクラスに共有しているところだ。それを知り合い伝いに回していく中心に、杉山がいる。でもたしか杉山、過去問の存在を知らなくて今回遂に初の赤点だったんじゃなかったか。

 杉山のことはどうでもいいので、私は周りを見渡す。なんとなく周りを見渡すという行動ができるようになっていた。澱みのようなものが無数に見えるのだ。そのそれぞれの中に、誰かがいる。夢特有の理屈のない納得感で、私は澱みを覗き込む。あの人はたしか森永の入院する病院で見かけた人だ。何度かすれ違ったが、とにかく顔色の悪い人だなと失礼なことを思っていた。その人が、今は異様に黒光りして山男みたいになっている。というか地元の有名人みたいな枠で顔を見たことのある登山家だった。

 別の夢に顔を突っ込むと、私の知るこの町があった。やたらホットココアの出店とか看板が出ていて、そこだけが現実と違う。そういえば、昔この町には有名なココア工場があって、ちょっとした城下町みたいな栄え方をしていたと聞く。今では全国レベルでもかなり規模を縮小してしまって、とりあえず銘柄は知っているくらいの飲み物。その事業が撤退せずに栄え続ける、これはそんな誰かの夢なのだろう。

 ホットココア。そう。これはホットココアを飲んだ人たちの夢だ。そういうことなのだ。みんな、もう手に入らないと知っている何かを求めてホットココアをやってしまう。何かを失って、諦めてしまった人のもとにあの子は来るのだ。森永もそうだったのだろうか。いつも馬鹿をやって、私を振り回す。悩みなんてある風には見えなかったけど、それは私が森永のことを何もわかっていないからだ。だって、いつもあんな風だし、べらべらと私が寝不足になるまで喋りとおすくせに、肝心なことはきっと言わない。私だって何も聞かない。だって、そうやって馬鹿みたいに振り回される距離感のことを楽しいと思っていた。ココアを飲み始めた時だって、少し静かになってちょうどいいくらいに考えていた。

 あれは、流してはいけなかったのか? ちゃんと話をしなかったから、森永は夢の中なんかに逃げてしまったのか? 無性に納得いかない気持ちになり、私はココアの夢を飛び回る。ブラウンのマーブル模様の、おおざっぱでふざけた夢。叶わない夢を叶える幸せだけどどこか辛気くさい光景をかきわけて、私は森永を探す。


 突然、わけの分からないオブジェが視界を横切る。なんだあれ。蟹? 振り向くと謎の賑やかな発光。ぐちゃぐちゃしたものがビヨビヨした何かをウネウネ伸ばしながら、光学的にありえなさそうな混ぜこぜの光を放っている。ユーロビートと牛の鳴き声をリミックスしたような奇っ怪な音。場違いな縁日のような香りが漂ってきて、ココア以外の匂いを初めて感じた。ここが夢の中だからとかそいいうことではなく、世の中の摂理を外れたものがそこにあった。

 森永じゃん。私は確信する。あんなふざけたもの、森永以外にありえない。私は森永の夢を追う。森永の夢はUFOもかくやという馬鹿みたいな軌道でビュンビュン飛び回って私を振り切ろうとする。夢が逃げるな! 歩くことすらできなかった最初が嘘みたいに、私は森永を追う。森永を追う私を、夢の中で現実にする。その姿だけは、本当に簡単にイメージできた。追いつき、手を伸ばす。

「森永! ばか、待て!」

 わけの分からないぐちゃぐちゃに、私は突っ込んでいく。


 目をつぶって夢へと飛び込んだ私の耳に賑やかな騒音が飛び込んできた。鉄道ガード下の轟音、広告トラックのけたたましい歌声。それはまるで耳をつんざくよう。音にひるんだ私の心はすでに挫けかかっていたけれど、森永の命が掛かっているんだと思えば耐えられる。意を決して両目を見開いた。

 それは街だった。私たちの暮らす大学周辺ののどかな光景とは全く異なる景色。そこにはたくさんの人が楽しそうに行き交っていて、それぞれの目的地を目指している。彼女の心にある隙間がこの夢を彼女に見せているとするなら――。私の胸の中を、何か小さないがらっぽいものが転がった。

 いけない。感傷は何も生まない。私は現実を生きてきた。今までも、これからも。今はこの夢が目の前の現実。目を逸らすことは、甘い夢想という足下が現実という波によってついに掘り崩されるのを震えながら待つことにしかならない。意を決して、私は街へ飛び込んだ。


 街へ飛び込んでわかること。それは、この街が森永の机の上みたいにめちゃくちゃな街だということだ。昼と夜がめまぐるしく変わる。多分十五分くらいだ。そのたび街の様子も変わる。普通のオフィスビルにしか見えない建物に水族館がある。水族館には釣り堀が併設されていて、シーラカンスが釣り放題。隣には異常石田と名付けられたスーパーマーケットが営業していて、一箱に三枚しか入っていないティッシュペーパーや百年熟成和牛のような訳のわからないものが売られている。

「あいつ一人で百人分じゃない」

 思わず愚痴が漏れてしまった。このまま探していてもらちがあかないのは明らかだ。何かいい目印はないだろうか。目についたビル(鉛筆の形をしていて、中央を貫く鉛筆型の螺旋階段を登るようになっている)から周囲を見下ろした私は、眼下の広場へと目を留めた。

 そこにあったのは新幹線だ。少し古い型で、最近引退セレモニーみたいなものがあったとニュースで見た記憶がある。そうだ、この型に私は見覚えがある。ラーメンを食べるためと称して博多に連行されたときに乗った型だ。

 よく見れば北海道みたいな形をした大きないけすがあって、そこには両手を広げたくらいの巨大な蟹がひしめいている。巨大な食いだおれ人形まであった。大きすぎて最近見たウルトラマンの映画を思い出した。そう、森永に振り回された思い出の数々がその広場に集中している。あそこだ。あそこにいる。私は、ビル備え付けの滑り台で広場へと向かった。


 広場の中央には円形のステージがあった。目立ちたがりの森永ならばここにいるに違いない。人混みをかき分けてたどり着いた私の目の前に、果たして森永はいた。

「あれ~? まきばじゃん」

 心底意外という声だった。森永はステージのさらに中央に自分の居場所を作っていたようだ。カラオケのセットがあったり巨大なディスプレイがあったりする。今はちょうど何かしらのテレビゲームをやっていたところだったようだ。

「何やってんの」

 思ったより詰問調の声が出たことに自分で驚く。けれども森永は気にしていないらしい。

「帰れなくなっちゃってさあ。でも折角だから楽しもうかなって」

「何。それじゃあ……深刻な悩みとか、心の傷とか、そういうものは……」

 心の中に冷え切った塊が生まれてくるのがわかる。

「やだなあ。まきばは私のことよく知ってるじゃん。そんなタイプに見える? 起きたいときに起きる! 食べたいときに食べる! 眠たいときに寝る! 遊びたいときに遊ぶ! ……勉強したいときに勉強する……。そうやって生きてきたし、それで私は生きてける。でしょ?」

 いたずらっぽくウインクするのを見た瞬間、冷たい塊が一気に熱を持った。ああ、太陽が生まれるときって、こういう感じなのかな。そう思った瞬間に私の右手が重さを感じた。

 持ち上げてみる。それは、鈍く銀色に光る巨大なハンマーに見える。私の背丈の倍の長さ、私の頭三つ分の頭。きっと現実にこんなものは持ち上がらない。でも、ここは夢だから。こんなものだって持ち上げられる。理性を重んじる私でも、これをどう使うべきなのかをこのときばかりは直感した。

「いい加減にしろ、森永セイカ!!」

 思い切り振り下ろした。ステージの骨組みが金切り声を上げて引きちぎられる。頭部が地面に接触した瞬間に衝撃波が走り、遠くでガラスの砕ける音がした。

「私を放って! 変な子供から! 変なものを貰って! 全然起きないから心配したのに! なーにが起きたいときに起きるよ。何がそれで私は生きてけるだ! 最初に会ったとき! どれだけ酷い顔色してたか!」

 言葉を句切るごとにハンマーを振り回す。ステージ上にあった大型スクリーンが弾き飛ばされ、置かれていた新幹線に突き刺さる。雑な特撮映画みたいに爆発して、近くにあった蟹が飛んできた。受け取ってみると美味しそうにボイルされている。

「まきば」

 半笑いの森永が蟹の手をつかんだ。男の人の腕くらいの太さがあるそれを彼女はあっさりとむしってしまう。むしった手を二つに折ると、中から鮮やかな蟹の身が現れた。

「はい、食べて」

 差し出されたものを思わず口にする。口いっぱいに蟹のみずみずしい食感と旨味が満ちる。蟹という食べ物の美味しさを知ったころ、身を口いっぱいに詰め込もうとして両親に叱られたのを思い出した。そう。ここまで巨大な蟹だと、ごく自然にその願いが叶えられる。

「……美味し」

「でっしょ~! ? ここなら蟹も食べ放題だし、偏食したって具合も悪くならない。まきばだって私の食生活を気にしなくていいんだよ。放っといてたのはゴメン。でも、どう、一緒にここに住まない?」

 惜しい。確かに蟹は惜しい。でも、選択の余地はない。

「馬鹿言うな。ここにあるもの、全部森永の作り物でしょ。私の知ってる森永セイカという女はそんなものじゃ満足しないよ。つべこべ言うならこれ使って叩き起こすよ」

 ハンマーの柄を昔話の鬼が金棒を扱うように弄んでみせた。森永はそんな私の目をじっと見る。

「あはは、わかっちゃった。なーんか物足りないって思った理由。そうだね、帰ろう帰ろう。でも、その前に——」

 座り心地の良さそうなソファから立ち上がった彼女の手には、いつの間にか機関砲が握られていた。

「あたしにも一暴れさせてよ。まきばばっかり暴れちゃずるい!」


 私たちが暴れた結果、街は滅茶苦茶になった。鉛筆ビルは真っ二つに折れる。異常石田は穴だらけ。水族館からはサメが逃げ出しあらゆるB級サメ映画が現実化した。それと引き換えに私たちの心はすっきりと晴れ渡り、そろそろ帰ってやってもいいか、という気になってきた私たちの元に、あの少女がやってきた。

「邪魔する気? そろそろ私たち帰りたいんだけど」

 再びハンマーを弄ぶ。その様子を愉快そうに見ながら、少女は首を横に振った。

「ううん。ただ、あなたたちは帰ることを選べたから。見届けたくて」

 自分が原因を作っておいて妙な言い草だと思う。けど、彼女が浮かべる奇妙に寂しげな表情を見ると抗弁をする勢いが削がれてしまう。いや、いいんだ。議論したって得しないし。

「ついてきて。帰り道、教えてあげる」

 廃墟となった街を私たちはゆく。時々マンホールから、あるいは竜巻から、その他あらゆる形のサメが襲ってきたけれど、武器で簡単に追い払うことができた。いつの間にか通行人は消えている。逃げたのか、とも思うけど、どちらかというと消えてしまったという方が実態に合っていそうだ。あれだけ暴れた割に、通行人の落とし物のようなものは見当たらない。幻影のようなものだったのかもしれない。

「ここよ」

 なんてことない雑居ビル。その奥にさび付いた扉があった。「管理員室」と書かれている。少女がその扉を引くと、向こうから白い光があふれてくる。

「何があっても止まっちゃだめ。振り向いちゃだめ。誰から声をかけられても気にしないで。二人とも、お互いの存在だけを導にして歩いていってね」

「ありがとう」

 いろいろな思いを呑み込んで、そう礼を言った。

「行こう、まきば」

「うん」

 森永の手をしっかりと握りこんで、光の海へと足を踏み入れた。


 むかしむかしあるところに、ふたりの女の子がいました。

 病気がちな女の子と、魔女の子ども。

 魔女はお友達の治療費を稼ぐために、自分の家の庭先でココアを売ることを思いつきました。

 甘くて黒い飲み物の中に、隠し味に魔法をひとつまみ。

 飲めばたちまち思いのままの素敵な夢を。

 ココアはどんどん評判になって、たくさんのお金が集まりました。

 けれどそのお金がお友達の手術に使われることはありませんでした。

 楽しい夢を見られるココアにお友達自身が夢中になってしまい、夢の中から二度と戻ってこなくなってしまったからです。

 魔女の女の子は行き場のなくなってしまったお金を使ってココア工場を作りました。

 彼女は今も、お友達のために作ったココアを売り歩いているのです。


 知らない誰かの声で語られる荒唐無稽なおとぎ話。考えたのは私なのだろうか? 白い光の中に夢が消えていく。


「まーきば。まきばー!」

 ほっぺたがぷにぷにとつつかれている。重い疲労感に体を動かせずされるがままでいると、今度はそのまま私の頬が無限に伸ばされていった。

「痛い! 痛い!」

「おはよう!」

 にやけた顔が目に飛び込んでくる。というか、顔が近い。

「起きた? 朝だよ、見て見て、すっごいことになってるから」

 私は森永に手渡された眼鏡をかけた。

「何これ?」

「何って…? 全部まきばがやったんだよ?」

 目覚めた場所は真っ白な病室――ではなかった。

 見慣れたワンルームですらなかった。いや、ここは確かに私たちの部屋なんだけど。倒れたイーゼル、ヘッドと本体が物別れになった掃除機、破れたお気に入りのカーテン、あらゆるものが無茶苦茶に破壊されていた。

「うそでしょ」

 歩けば鳥の羽がフワフワと舞いあがる。羽毛布団破けてる、最悪。

「これを片づけるの……?」

「いい考えがある! しばらくこのまま暮らそう」

「馬鹿じゃないの」

「なんで、よくない? ほら、まきばが壊したあたしのオブジェ、めちゃ映えるよ」

 森永の手には彼女が『オブジェ』と呼んでいる怪作がある。密漁してきた蟹の殻を改造して彼女にしかわからない抽象芸術に仕上げた一品だ。将来自分が大成したならオークションでとんでもない値がつけられると豪語していたご自慢のオブジェ。それがぐしゃりと潰れた結果、もう一段上の抽象性が付与されてしまったように見える。高次元方向に広がりを持っていそうだ。

「怒ってないの?」

「へ? 怒ってるのはまきばじゃなかったっけ? あんないかついハンマーふりまわして、こ~んな顔してさぁ」

 森永は自分の眉毛を指で釣り上げた。唇まで突き出して、悪意しか感じられない。

 そんなことより。

「待って。なんで私の夢のことを森永が覚えてるの」

「私の夢? 違う違う。あたしの夢までまきばが来てくれたんでしょ? いままでで一番最高だったよ!」

 森永はベッドから飛び降りて破れた布団を抱きしめながらぐるぐる回った。

「ちょっと、羽が飛び散るからやめて!」

「あははははははは! ! ! ね、青い鳥みたいだね! 一番わくわくさせてくれるのは、寝て見る夢なんかじゃなかったね!」

「ちょっと何を言っているのかわからないんだけど」

 森永は羽毛をまき散らしながら布団の塊と踊り続け、ついにその塊にキスをした。

「やめて!」

「何照れ? あはははは!」


 それにしても何が夢で何が現実だったんだろう。

 あの都市伝説は。病院に森永を運び込んだことは。先生の話は。あの少女は。


 私の視界に赤いものがうつった。いろんなものの残骸にまぎれて落ちていたのはあのココアのカップだ。印刷されているのは仲良く手をつないだ二人の女の子。左の女の子の視線は右の子の目へ注がれ、右の子の視線は手元のココアを見つめている。シルエットでしかない二人の女の子の片方に、どこかあの子の寂しげな顔が浮かんで見えた。


「これはもう、いーらない!」

 森永はカップを拾って、ぐしゃりと握り潰すとゴミ箱に投げ込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

危険ココア ダメ。ゼッタイ。――眠れる少女の終わらない夢 魔王城文芸ハッカソン @timetide-literature-hackathon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ