第7話 曇りのち雨

【第6話】

 https://kakuyomu.jp/works/16817139557243611886/episodes/16817139559030014348




 大黒おおぐろ社長からキザ野郎と喪服の案内を頼まれてしまった俺は、ゴクリと息を飲み込んだ。梨李さんと早上がりをキメるはずだったのに、ヤバい展開に巻き込まれている。これなら、土曜日に新しい仕事を回された前職の方がマシだ。買収で無職になるよりはな! クソ上司を脳内でみじん切りにすれば気が晴れたのだから、マシな部類だ。


西京さいきょう社長。佐々江ささえさま。応接室はこちらです」


 立ち尽くす俺と反対に、梨李さんはにこやかな笑みを浮かべていた。普段の笑みとは違う、落ち着きはらったものだ。俺の耳にそっと耳打ちする。


「のぶっち、お茶をご用意して。お茶菓子は練り切りでお願い。応接あけぼので待ってる」

「あぁ。了解した」


 給湯室に駆け込むと、なぜか真ん丸な狸が隅で縮こまっていた。酒瓶ではなく紺色のファイルを抱きしめるようにして。


「大黒社長……? お茶は私が運びますが」

「いーやーだあああ! まだ心の準備ができていないの! 田江くぅん、わしの代わりに西京社長と話してもらえない?」

「絶対に嫌です。できる訳ないでしょう」


 俺は即答した。あのヘビのような眼差しを思い出しただけでも、直視できる自信がない。


「まぁまぁ。いい経験になると思って、話してみようよぉ~。大企業の社長と対談できる機会なんて、めったにないんじゃない?」

「社長。それ、言っていて悲しくなりませんか?」

「一体何のことかなっ?」


 大黒社長はきゅるるんと上目遣いをした。両目にハートが浮かんで器用だな。あざと系女子かよ。

 それにしても、うちの男性陣はなぜ頼りないんだ? どいつもこいつも美少女化しやがって、怒るに怒れないじゃないか。


 首を縦に振らない俺に、大黒社長は溜息をつく。


「そうだよねぇ。わしも嫌だもん。はぁ。階段から転げ落ちて、救急車に運んでもらおうかな」

「迷惑です。そんな弱気な社長は見たくありません」


 俺は本心を告げた。


 数分前、敵を軽くいなした大黒社長はかっこよかった。あんな風に余裕で振る舞えるような人になりたいと、強く憧れたのだ。どんなに気に食わない奴だとしても応接室で待たせている以上、約束は守ってもらわなければ困る。


「田江くん……」

「も、申し訳ありません! 一介の社員が偉そうな物言いをしてしまって。ご気分を害されたのであれば、責任を……」


 俺を見上げる大黒社長に、慌てふためいた。

 クビだ。もう少し言い方があっただろうに。思わず項垂れる。


「は、ははははっ!」


 給湯室に大黒社長の笑い声が響く。拭われた目元には、弱々しさが微塵も感じられなかった。


「田江くん。きみの言葉で目が覚めたよ。逃げ出したいためだけに、救急車を無駄に使おうとするのはよくない。どうせわしが怪我したところで、奴らは敵対的買収の話を嬉々として勧めるはずだ。クラウドワークスが思い描く、シナリオ通りにはさせるものか」


 それに、と大黒社長は言葉を続けた。


「きみのおじいさまに買収が知られたら、わしが社長をやめた後も化けて出てこられそうだ。堅志前会長の怖さに比べたら、西京社長なんて生ぬるい」

「前会長? その話、どうか詳しくお聞かせください!」


 俺の祖父が会長だったなんて。そんなこと、一言も聞いていないぞ。


「分かった。買収の話を退けた後に話そう」


 大黒社長は身なりを整える。雲をあしらったネクタイピンがきらめいた。


「行こうか、田江くん。結城さんが時間を稼ぐのも限界だろう」

「はい!」


 漆の盆を持ち、応接間へ歩を進める。大黒社長が優しくノックすると、梨李さんの声が聞こえた。


 よかった。二人の威圧に呑まれていなくて。

 俺は手の震えを見せないように茶を出す。西京社長も佐々江もグラスを見向きもしない。俺が給湯室へ行った意味……。悲しげに練り切りを見下ろした。筧の水で泳ぐ金魚だけが、俺を慰めてくれる。


「いただきます。よい目利きですね」


 俺の金魚が白スーツに攫われた。ぐっ、しばらく立ち直れないぜ。佐々江も美味そうに頬張りやがって。


「大黒社長。資料を持ってくるだけで、随分と時間がかかりましたね。どうかお体を大事になさってください。よろしければ、私の知り合いが経営している病院をご紹介しましょうか?」

「お心遣い痛み入ります。東雲製作所の社長として、まだまだ頑張らなければなりませんからね。あと十年は社員の生活を支えるつもりです」


 両者の間に火花が散った。引退を迫る西京社長に対し、大黒社長は敵対的買収に応じない姿勢を強調した。持ってきたファイルを開く。


「クラウドワークスさんは、破格の値段で取引されていますよね。弊社の入る隙間がない。そのおかげで、つまらない空になりましたよ。昔は恐竜の形の雲を見つけて、無邪気にはしゃいでいたものです。今はどうでしょう。動物や偉人の顔を探せないどころか、写真映えのしない雲に成り下がっている。こちらのスクラップブックをご覧いただけますか?」

「つまり、うちが国内シェアナンバーワンになった年度から、空の写真を撮る人が激減していると?」


 さすが西京社長ですな。大黒社長は笑い声を漏らした。


「翼の持たない我々人類にとって、空は古くからの憧れです。空に漂う雲も、本来であれば触れることの叶わないもの。東雲製作所は、空への憧憬のもとで設立された会社です。経営理念を、社員一人一人が守ってくれている。仮にクラウドワークスの傘下に入れば、安価な雲を大量生産することになるでしょう。そうなれば、社員はやりがいを見い出せなくなる。弊社は敵対的買収にも、資本提携にも応じません。西京社長、悪いことは言わない。今の御社のやり方では、空が澱んでいきますよ。妬みではない。同業者としてのよしみだ」


 ご忠告感謝いたします。西京社長の口調は、棒読みに近かった。ふっと笑みをこぼす。


「従業員思いは素敵なことですが、その意思はどこまで保ちますかな」

「西京社長、あんた何をするつもりだ?」


 大黒社長の質問に、佐々江が歌うように囁いた。


「たとえ御社の従業員の中に裏切り者がいたとしても、御社の答えは変わらないかということです」

「そんな者、いるわけないでしょう!」


 声を荒らげたのは大黒社長ではない。俺だった。中途採用がしゃしゃり出る場面ではないことは分かっていた。だが、東雲製作所の一員として、侮蔑する言葉はこれ以上許すことはできなかった。


「あなたの隣にいますよ。ね? 結城さん?」


 西京社長のねっとりとした声が、梨李さんの肩を震わせた。


 嘘だろ。懐に潜り込むのが上手いとは思ったが、産業スパイなんてありえない。信じられないはずなのに、納得してしまう自分がいた。


 ――私にはできないよ。やっぱり広報担当はこれからものぶっちだね!


 顔が知られるとスパイ活動に支障が出るから、俺に任せたかったのか? どうなんだよ、梨李さん! 俯いているなんて、梨李さんらしくないじゃないか!


 怒りを押し殺すように、大黒社長が西京社長を睨みつけた。


「悪い冗談はよしていただきたい」

「失礼いたしました。本当の名前は筒抜琉空つつぬけりくさんでしたね」


 いつも元気いっぱいだった梨李さんの顔が、真っ白になっている。ふっくらとした唇に血の気はない。


「提携の話は保留にしましょう。また一週間後にお伺いします。後は仲良く話し合ってください。佐々江、そろそろお暇しようか」

「かしこまりました。筒抜さん、明日からは東雲製作所に出社しなくていいですよ。本社のデスクは変わらず残してあります」


 おいおい、冗談だろ。まさか梨李さんがクラウドワークスの社員だったなんて。タチの悪い話が現実になっていく。俺も大黒社長も、重い静寂を破れない。


「しゃ、ちょう……今まで。申し訳、ありませんでした」


 頭を下げた梨李さんが、途切れ途切れに言った。


「結城さん、顔を上げて。何か事情があるんだろう?」


 梨李さんはふるふると首を振った。


「ごめん。のぶっち」


 応接間のドアを勢いよく開ける。駆け出した後ろ姿から、雫が見えたのは気のせいだろうか。


「もうここにはいられないや」


 梨李さんの背中を、追いかけることができなかった。引き止めたところで、梨李さんのいない七月を迎えることは避けられないと分かっていたのだ。


 ノートパソコン以外何もなくなった隣の席に、梨李さんが座る日は二度と来なかった。



【第8話】


https://kakuyomu.jp/works/16817139557243611886/episodes/16817330648631665121

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