第8話「雲海組」
そして、彼女のいない秋が来た。
皮肉なことに、俺たちが手がけたカーテン「SORA-MOYOU」の売れ行きは絶好調だった。なんでも作ったそばから売れて行き、現在では予約待ちが多数ということらしい。
その影響だけだとはもちろん思っていないが、自社の株価もじわじわと上がってきていた。地元の老舗企業と言われてただけの我が社は一躍全国区となったのだ。
この状況には自分も「東雲製作所」の一員になれたと胸を張れるけど、やはり諸手を挙げては喜べない。この「SORA-MOYOU」は俺一人の力で立ち上げたものではない。傍にはいつも、梨季さんがいてくれたからだ。
あれが売れてくれるのは嬉しい。お客さんたちが本物の空に少しでも興味を持ってくれる動機付けになるのは誇れることだとも思う。でも。「SORA-MOYOU」が売れればば売れるほど、一緒に頑張った梨季さんがもういないことをどうしようもなく感じてしまう。
端的に言って、俺の心は完全に曇っていた。
「なんじゃ
定時退社をして帰ってきた実家。定位置の籐椅子に腰掛けたじいちゃんが、俺の顔を見るなり言った。
自分でもそれには気がついている。だけど俺は気がつかないフリをして、顔に手を当てつつ「そう?」と
「顔に出とる。最近ずっとそうじゃあないんか。仕事、上手く行っとるんだろう?」
「怖いくらいに順調だよ、仕事はね」
「聞いとるぞ。なんだったかなぁ、あぁ『空模様』か。あれがえらく売れとるらしいな」
「まぁ、たまたま上手く当たったんだよ。それにあれは俺一人の力じゃないよ」
そこまで言うと、また梨季さんの顔が思い浮かんだ。彼女はいつも笑顔だった。楽しい時はもちろん、仕事がキツい時だって。だから最後の最後で梨李さんの笑顔じゃない顔を見てしまったのは、より濃く印象に残っている。
どうして彼女は、産業スパイみたいなことをしていたのだろう。
だからこそ不思議だった。身分を偽ってまで、そして俺たちを騙してまで、彼女は東雲製作所に何をしに来ていたのか。どんな命令を受けてそうしていたのか。そしてその目的は達成されたのか。
梨李さんの一件以来、クラウドワークスからはなんの音沙汰もない。怖いくらいに静かだった。もし、敵対的買収を狙っているのなら何らかのアクションくらいあるだろうに。
「……忍。椅子を縁側に向けてくれんか」
「縁側? もう風も冷たくなり始めて来てるよ。大丈夫なの、じいちゃん」
「わしは涼しいのが好きなんだ。仕事終わりにこの縁側で一杯やる。それがわしの現役の頃の楽しみでな。どうだ忍、一杯付き合わんか」
じいちゃんは水屋を指差し、お気に入りの薩摩切子を取ってくるよう俺に言いつける。本当は酒なんか飲まずにずっと長生きしてほしいんだけどな。でもじいちゃんの楽しみを取り上げたくはないし、それにじいちゃんと腰を据えて話したいことがあるのも本当だ。
渡に船、ということだろうか。俺は薩摩切子と、じいちゃんの手製の梅酒を手に取り縁側に向かう。
梅酒を注ぐと、少しずつ舐めるように飲むじいちゃん。顔が嬉しそう。俺もそれに倣って梅酒を飲む。
梅の風味が豊かで美味いけど、かなり強い焼酎で作っているのだろう。油断してるとアウトなアルコール量だ。
「美味いか、忍」
「美味いね。仕事終わりに飲むと倍増だ」
「忍が羨ましい。わしはもう仕事終わりに飲む酒ってのが味わえん。今のうちに充分味わっておくんだぞ。当たり前のことが当たり前に出来なくなる時は来る。遅かれ早かれな」
俺は無言で梅酒を煽った。短い間だったけど、梨李さんと一緒に仕事をするのは当たり前だと思っていた。それが急に、本当に急に終わってしまったのだ。それも予期せぬ形で。
この気持ちを表現する言葉が見つからない。恨み? いや違う。梨李さんに感謝こそすれ恨みなんかない。じゃあ悲しみか? まぁ、近いラインだ。でも俺は腐っても社会人。仲良しこよしで仕事をしていた訳じゃあない。だとしたら、悔しさ? もちろんそれもあるだろう。クラウドワークスに目をつけられなければ。同業他社ということで、買収対象にならなければ。そうすれば俺と梨李さんはずっと──。
いや、これも違う。そもそもクラウドワークスに目をつけられなければ、クラウドワークス所属の梨李さんとは出会えなかったのだ。
つまり俺と梨李さんは、どうあがいてもずっと一緒には働けない平行線。それは、純然たる事実だった。
「……忍。なにを悩んどるのか知らんが、ひとつ教えてやる。仕事ってのはな、上手くいかなくて当然なんだ」
「当然、って?」
「金を稼ぐのは大変だろう。それこそ皆必死だ。その必死で稼いだ金を、しょうもない商品に費やすことはしなくない。だろう?」
「まぁ、わかるよ。頑張って稼いだ金を、ドブに捨てるようなマネはしなくないよな」
「そうだ。だからこそお客さんの商品を選ぶ目は真剣になる。必死で稼いだ金を、自分だちがより快適に、あるいはより幸せになるために使いたいと思う気持ちはもっともだろう。つまりわしら作り手は、買い手の期待以上のモノを作らんといかん。それは本当に、難しい」
確かにじいちゃんの言う通りだ。身を粉にして働いても、わずかな賃金しか貰えない業界はまだまだある。俺もそんな業界に身を置いていたからわかるのだ。
得た金を有意義に使いたい。それが幸せに化けるなら一番だ。
自分の身を削って得た賃金は、やはり「いいもの」に使いたい。だからこそその選択眼は厳しくなって当然だと思う。
「そんな中、忍の商品はそれを達成した。いいか、上手くいかなくて当然の仕事を、上手くいかせたんだ。それは誇っていいことだぞ」
「でも今回のカーテンは、本当にたまたまなんだ。たまたまプランが上手くハマった。たまたま需要を見つけられた。たまたま……とても優秀な同僚が、いた。でも彼女はもういない。いないんだ。だから、俺にあのカーテンを超える商品を作るのはもう無理だと思う。入社して三ヶ月も経ってないけどさ。もう限界なんだよ、じいちゃん」
「……羨ましいのぅ」
「羨ましい? じいちゃん、俺の話聞いてた?」
「そこが仕事の醍醐味だ。もう無理だ、もう限界だ、これ以上は無理だ、そう思った自分を超えるのが楽しいんだろう。わしも現役のころ、いつも思っておった。この雲は完璧だ、これを超える雲を作るのは誰にも不可能だろう、とな。だが世の中には天才がおってな。同業他社の『
梅酒をちびりとやりながら、じいちゃんはカッカと笑った。手はシワシワで腰も曲がってるけれど、その目は凄腕職人のそれだ。じいちゃんは懐かしむような表情で続ける。
「雲海組の雲はまぁ凄かった。正直敵わんと何度も思ったが、わしにも職人としての矜持があった。ここで負けるわけにはいかん、とな。雲海組の雲は本当に美しくてなぁ。わしも対抗して自分だけの雲を作ったよ。そしていつしか『艶の雲海組、侘びの東雲製作所』とまで言われるようになってな。雲海組がなかったら、ここまで雲を作る技術は発展しなかったろうなぁ」
「へぇ、すごい会社があったんだな。その雲海組って聞かないけど、今もある会社なの?」
「代替わりして、金儲けだけのつまらん会社になった。わしは後継者に恵まれたがの。今は確か、クラウドワークスって名前になっとったと思うぞ」
「えっ? クラウドワークス?」
「雲海組の昔の経営陣には、職人の粋みたいなもんがあった。だが今はダメだ。味も素っ気もない量産型の雲をぽんぽんと作りよって、わしが現役でいた頃とは別モンになっちまったのぉ。何よりあそこには当時、凄腕の職人がおったからな」
雲海組。クラウドワークス。凄腕職人。
じいちゃんの口から飛び出す言葉の数々に、俺の理解が追いついていかない。
「雲海組の凄腕職人とわしは同級生でな。職人としても経営者としてもなかなかの好敵手だった。戦争が終わってしばらくして、日本近海では雲が発生しなくなったのは聞いとるだろう? そこで雲を作る事業が公務として始まった。その後すぐに限られた会社で民営化が許され、手を挙げたのがわしとそいつだったって訳だ」
固まる俺から酒瓶をもぎ取ったじいちゃんは、自分の薩摩切子に静かに継ぐ。そしてまたちろりと梅酒を舐めて、言葉を続ける。
「雲を作るのはまさに魔法だ。職人の技と、そして誰かを想うあたたかな気持ち。これがなけりゃいい雲は作れん。手前味噌になるが、わしの想いは後継がきちんと継いでくれておるから社も安泰だろう。だがあいつは可哀相でな。本当に頑固一徹な男だったから後継に恵まれなかった。そう言う意味では、わしは最後にあいつに勝てたのかもなぁ」
「その凄腕職人って、ご存命なの?」
「いや、五年ほど前に死んだよ。脳梗塞でな。そこからあの会社はおかしくなった。経営陣は乗っ取られて一新され、クラウドワークスとかいう社名に変わった。安さ重視のつまらん雲を作るようになって、あいつが得意とした『艶』なんかカケラも感じられんようになった。つまらん。実につまらん。そこでわしも引退を決めた。
じいちゃんはぐいと梅酒を煽り、「だが」と続ける。それはそれは楽しそうな、そして面白い悪戯を思いついたような少年みたいな表情で。
「最近は少し面白い。数年前に仕掛けたタネが芽吹きそうだからのぉ」
「それ、どう言う意味?」
「社の誰も知らんことだ。無論、大黒もな。忍、お前にだけ教えてやる。
──ここで梨李さんの名前が出てくるとは思わなかった。俺はごくりと喉を鳴らして、じいちゃんの言葉の続きを待つ。
「あの子は名を偽った、凄腕職人
薩摩切子をとんとローテーブルに置いて。そして俺の目を真っ直ぐに見据えて、じいちゃんは言う。意志のこもった、確かな口調で。
「クラウドワークスから
そう言ったじいちゃんは、心の底から楽しそうにしている。本当に、少年のような笑みで。
【第9話に続く!】
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