第2話 歎異抄における悠久の宇宙



      

 ところで。(^.^)/~~~

 このたびの歎異抄の再読により、真莉菜にとって貴重な発見がふたつほどあった。



 🧕 ひとつ。


 人間に生まれたおのれという存在自体が悪であると自覚している悪人はもちろん、他は知らず自分ばかりは善人であると錯覚している真の悪人であっても、罪多き身をそっくりそのまま阿弥陀仏に委ねれば、ひとりの洩れもなく(笑)往生できること。


 ついでに、インターネットに「動物には煩悩(心)がない」と、さらっと書かれていたことも、身近にいる犬や猫や馬に、過去の行為への後悔に苦しめられている痕跡が見当たらない(少なくとも表面的には)ことを思えばまあ納得できる。🐕🐈🐎



🧕 ふたつ。


 ――親鸞は、父母ぶも孝養きょうようのためとて、一返いっぺんにても、念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情うじょうはみなもて世々生々せせしょうじょうの父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生じゅんじしょうに仏になりて、たすけさふらふべきなり。

 

〈わたし親鸞は自分の父母の追善供養を思って念仏を申したことはかつて一度もないのです。なぜなら、すべての人が輪廻の世界を積転するあいだにわたくしの父となり母となり兄弟姉妹となるのですから、現世における自他の区別は意味がないのです〉


〈一見孝養に見える追善供養は、生きている人間のためにあるのであります。自分が供養するすがたを見せておけば子孫も供養してくれるだろうという、まさに現世利益の最たる打算そのものであり、真実の信心とは、遠くかけ離れているのであります〉



      😓



 いままではこの部分を読み逃していた真莉菜に、ほろ苦い記憶が立ち昇って来た。

 10年ほど番組審議委員をつとめていた、某地方テレビ局の役員会議室でのこと。

 空気を読め(ま)ない真莉菜委員が、またしてもその場を凍らせたのだ。(笑)


 月一の委員会のその日の議題はたしか「今年度の番組編成の主要テーマ」だった。

 なれど、ホワイトボードの大判ポスターには「家族」の二文字が印刷されている。

 ご相談とか言って、もう決まってんじゃない、いつもながら手まわしがいいよね。


 諦めつつも、8名の委員の発言順がまわって来たときに、ダメもとで言ってみた。

 「多様な生き方礼賛の時代に古いのでは? そっと傷つく視聴者もいるだろうし」

 し~ん(あ~あ、またオバサン言っちゃったよ、なんで黙ってらんないかな~)。


 キー局から出向中の社長以下役員諸氏、いっせいに苦虫を嚙み潰したもよう。🐛

 大組織における銘々の立場を背負った有識委員各氏のダンマリもいつものことで、ニコニコと雛壇に座っていられない真莉菜の場合、こういう事態はしょっちゅうで。


 で、強烈な自己嫌悪に苛まれつつ本社ビルをあとにすることになるのだが、この日は少しちがった。たまたま帰りのエレベーターにふたりだけで乗り合わせた某銀行の頭取氏が「ごめんね、援護射撃してやれなくて」と言ってくれたのだ。(´;ω;`)

 

 

      🌱



 話を冒頭にもどそう。



 ――よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、

   ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ、おほせはさふらひしか。



 淡々と、やわらかに、無上に格調高く結ばれた歎異抄の再読により、矛盾と葛藤に満ちた自身を責めることも更生することもなく、あるがままの身をそっくり阿弥陀仏に委ねればいいのだと得心した真莉菜は、その夜、久しぶりにぐっすり眠った。🌓




 

 *参考文献:阿満利麿『歎異抄にであう』(NHK出版 2022年)





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