本能寺のヘン 👘
上月くるを
第1話 本能と煩悩はどうちがうの?
いままで当たり前として気にも留めなかったが、信長が光秀におそわれた本能寺。よくよく字面を眺めれば、人間の本性を真正面から峻厳に見据えた……というか司馬遼太郎さん好みの語彙に倣えば、すいぶんと俗に淫した(笑)珍妙な寺号ではある。
Wikipediaに援けを求めれば法華宗本門流の大本山で、1415(応永22)年、日隆上人が創立当初に付けた本応寺を六角大宮地域への移転時に本能寺と改めたが、天文の乱、本能寺の変と相次いだので、「䏻」の字を用いてヒヒを避けたのだとか。
で、ふたたびGoogle先生にお訊ねすれば、「本能とは、動物(人間を含む)が生まれつき持っていると想定される、ある行動へ駆り立てる性質をいう」。となると、なにゆえに敢えて能に改称したのか邪推したくなるのもまた凡人の本能であろうか。
⚧️
なるほど、本能の威力はとてつもなく強いらしい。(^。^)y-.。o○o○o
如何なるものも太刀打ちできないほどの力を、たしかに本能は宿しているようだ。
引退後の隠遁暮らしにより現代版の過熟(笑)くノ一を自認する
たとえば空腹のときや、やたらめったら眠いとき、人は容易に胸の感懐を忘れる。
一刻も早く飢えを満たしたい、ごろっと横になりたい、念ずるのは一にそれのみ。
本能を咆哮する個体の命じるがまま、それが動物としての人間の本質やも知れぬ。
🌙
久しぶりにリアルに朋輩たちと語り合った興奮の余韻で、前夜は眠りが浅かった。
ありがたいことに睡眠の本能が勝ると、胸の籠に棲まわせている寂寞の虫が黙る。
で、ひたすら本能の充足のみに追われていたであろう時代に思いを飛ばしてみる。
同時に、一応最低限の生活を憲法で保障されているはず(笑)の現代との比較や、 本能寺で滅したという天才武将・信長の境涯の禍福にも想像を巡らせながら思った。そういえば、似て非なる雰囲気を醸す本能と煩悩はどこがどうちがうのだろう……。
🗿
そこで再々度 Google 先生のご指南を仰ぐと、概要つぎのような解説が示された。
〇本能:あらゆる動物が生来備えている、生命維持、種の保存に欠かせない特性。
〇煩悩:人間の心を悩ませたり、身体を苦しめたりする、欲求、執念、妄想など。
そして、「本能と異なり、煩悩は心を持つ人間のみに起こる現象」とされている。
だが、それは少しおかしくないか、動物は心を持たないと、どうして断定できる?
動物好き人間としては承服し難いので、セカンドオピニオン(笑)に頼ることに。
――
言うまでもないが、舶来ではなくこの国独自に初めて誕生した浄土宗の宗祖・法然の言葉を弟子の親鸞がさらに弟子の唯円に語った古典であり、日本人の過半が属する無宗教の凡夫(婦)が手に余る出来事に遭遇したときの尊い道標となって来た名著。
極めて難解な論旨ゆえに、恥ずかしながら何度か挑戦しては、つど挫折していた。
今度こそと気合を入れたものの全編が煩悩(「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」など)の解説に終始されており、本能に関する記述は見当たらなかった。
さらにそのうえ、自分に甘く他者に厳しい人間の本性を自己執着心と見なし、自力から他力(阿弥陀仏)へ本願の軸を置き換えさえすれば無限の苦悩から解放されるという同書の核心を失念していた愚昧を、ぐいと突きつけられる結果にもなった。💦
不面目を恥じつつ持ち前の厚かましさで(笑)空想の翼を羽ばたかせてみれば……煩悩の権化たる信長終焉の舞台の寺号は煩悩寺のほうがふさわしかったんじゃない? そんな俗に淫した(笑)迷妄めいた思いが夏空の積乱雲のごとく湧き上がって来る。
それにつけても、61歳の最期の瞬間まで「わが子」(動物家族を除く(笑))という究極の煩悩に呪縛された秀吉、74歳で大坂攻めを決行しつつ悪人成仏の成否を仏僧に問うた家康、「人間50年」で没した信長を含め天下人の煩悩の深さよ……。
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