涙を溜めて、夜。

葉月 望未

幸せが訪れますように、と彼女は願う。

「も、申し訳ありませんっ!」


 そう、目の前で頭を下げる若い女の子。椅子と縦長の鏡の間に入り込んで頭を下げるものだから明るい赤茶色の髪が目の前に。ふわりとハーブの香りがした。


「……あっ、えっと」


 こういう時の対応に慣れていない私は言葉に詰まって、目を逸らしてしまう。

 横を向くと、他のお客さんや美容師が不思議そうにこちらを見ていた。

その中で動く男が一人。目が合った。傷みのない黒髪、二重、髭が濃くない。女なら誰でも好きそうな顔をしている男の美容師がお客さんとの話を笑顔で中断させて、こちらを向いたのだ。その表情の変わりようといったら。きゅっと唇を閉じて近づいてくる。

 私の心は揺れていた。ざわざわと、今では見なくなったテレビの砂嵐のように。

怒ってやろう。そのほうが絶対にいい。だって……だって。

そう思うと、ぷつんと切れて真っ暗になる。でもここで怒ったら私って嫌な客……嫌な人になっちゃうのかな。——なんて、どうするべきか決心がつく前に彼が私の前まで来てしまう。ああ、どうしてこの人、こんなにも綺麗な顔をしているの。女なら誰でも好きだよ。


「お客様、申し訳ありません。その前髪は村岡が?」


 他人と話す時の高い声を完璧に出して、ちらりと私の前髪を見た。

 一気に顔が熱くなって、俯く。恥ずかしい。いや、恥ずかしいけど、前髪を切りすぎたのは頭を下げている村岡さんだ。この間入ったばかりだと言っていた。こんなことならいつもお世話になってる雪原さんにやってもらうんだった。今日はお休みだった。だから別の人でいいです、なんて言ってしまって。

 そこでハッとする。村岡さんは頭を下げたままだった。


「ご、ごめんなさい!頭を上げてください。わ、私は大丈夫ですから」


 ああ、大丈夫じゃないよ。でも唇が勝手に動いてしまった。

しかも私の口角、上がってる?え、嘘でしょ。眉毛より上の、この切りすぎた前髪が大丈夫?嘘だ。どうしよう。明日から私、この前髪で生きていくの?27歳の私が?


「あ、ありがとうございます……。本当にごめんなさい」


 顔をゆっくりと上げた村岡さんは泣いていた。

大きな目に涙を溜めて、鼻を真っ赤にして。まだ涙はこぼれていない。でも、「泣いている」そう言ったのは、いつかの友人だった。ふと、思い出す。


彼女は、制服の彼女は、夕暮れの教室で私を見つめ「泣いてる」と声をひそめた。教室には二人きりなのに。


「泣いてない」と声を震わせる私の言い分は「涙を溜めているだけだから、まだ泣いていない」だった。けれど彼女は「泣いてるよ。だってもう心が泣いてるじゃない」とやけに大人びた口調で眉を下げて笑ったのだった。



 心が泣いている。村岡さんは、どうして泣いているのだろう。

 私のこれからの何ヵ月かを気にして?それとも自分の失敗を気にして?

 泣きたいのはこっちです、と聞かれないはずの心の声さえ私は小さい。


「申し訳ありませんでした。私が手直しをしますので、少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか。お代もいただきませんので」


「あ、だい……大丈夫です、それで。はい」


 なんとなく村岡さんへ目を向けてしまうと、びくりと肩を震わせた——落ちていく涙。

 泣かせてしまった、と思いながら私は良い客を演じる羽目になってしまったわけで。

 顔のいい美容師さんは私が頷いたのを見届けると、元々髪を切っていた女性の元へ戻って行ってしまった。


「あ、あの!塚本さんは、とても腕がいいので、その……。」


 村岡さんは遠慮がちにそう言うと、もう一度頭を深く下げた。「はい」と掠れた声でまた頷く私。

他の美容師さんが村岡さんに駆け寄り「床の掃除とシャンプーのほうお願い」と柔らかく小さな声で指示を出している。村岡さんは私と同じ掠れた声で頷くと私から離れた。


取り残された私。戻る、喧騒。


鏡の中の私はひどい顔をしていた。目に力がないし、前髪がとんでもないことになっている。これじゃあ婚活どころじゃない。仕事だってどうするの。社会人は容姿だって大切なのに。私、綺麗になるために来たのにな。それなのに。

でも、誰にだって失敗はあるし、しょうがないよね。若い子は特に何度も失敗をして何かを掴んでいくものだ。何かってなんだろう。経験値?立ち回り方?強さ?


 私だって失敗した。仕事で、こういうふうにお客さんに迷惑がかかるようなことだってしてきた。でも、「こうして成長していくんだよ」と言われ、私もそう思って、ここまで。


 でも、やられた側はたまったもんじゃない。


 ああ、でも、そっか。体の一部だから美容師って国家資格なのか。体を他人に預けるって、きっと凄いことだ。しかも美容師は体の一部を切って減らしていく。その髪が辿ってきた記憶、生きてきた時間分、伸びた髪にハサミを入れる。

 だからこそ、リセットできるんだ。綺麗に、心を整えて、また生きていけるように。だって自分を整えることは生きていくために必要だから。


 自分でだって髪は切れる。美容師にお願いするのは、自分でやるよりも綺麗にしてもらえると信じているからだ。香りの良い、ちょっと高いシャンプーやトリートメントをしてくれるから。髪が艶めくから。これは自分へのご褒美だから。心を満たす、大事な時間だから。


 それなのに……私は、泣いている。記憶の中の彼女に「泣いてるよ」と、言われる。


 まずい。涙が流れそうになって私は俯きがちに立ち上がった。体にかかったケープを脱いで椅子に置く。帰ろう。これ以上ここにいたくない。


「お客様?」


 近くにいた美容師に話しかけられる。困惑した顔でこちらを見てくるから「すみません、帰ります」と声を絞り出した。情けない。こんなところでこんな声を出してしまうなんて。村岡さんなら許されるはずだ。でも、もういい歳の私は許されない。ていうか、自分自身が許せない。


 私は村岡さんが駆け寄ってくる前に美容室を後にした。

 ガタガタの前髪のまま。一刻も早く家に帰りたかった。救いは、家から近いこと。電車に乗らなくていいこと。



「……私って、髪、大事だったんだなあ」


 アパートの扉が後ろでパタンと閉まる。電気のついていない部屋の中には夕日の影が落ちていた。前髪を指先で触ると、すぐに毛先へ到達する。私の無くなった前髪たちの恋しいこと。


 結局、自分でも整えてみたが、ひどいもので。


だから後ろの方から髪を持ってきて隠すことにした。長い髪を横へ流して、黒ピンで止める。前髪をつくっていない人のスタイル……にしてみたけれど、分け目から少しだけ短い髪が飛び出てしまっている。だけどさっきよりはマシだろう、と自分に言い聞かせて、引き攣る顔に知らないふりをした。


そんな前髪で会社に行くと、会社の人たちは目で訴えてきた。

急なイメチェン?どうした?

と、誰もが言っていた。似合ってない、と言う声さえ聞こえてきそうだった。けれども、誰にも触れられず夕方になった。


 今日の心の落ち込みようと言ったらない。


「……え?誰だろ」

 と、かかってきた知らない番号。心当たりのないまま耳にあてると。


「あ、川崎さんのお電話でお間違いないでしょうか?」


「は、はい」


 聞き覚えのある低く落ち着いたその声に、ぎゅっとスマホを握ってしまう。


「雪原です。昨日のことを聞きまして。本当に申し訳ありませんでした」


「い、いえ。あの、大丈夫ですので」


「よかったらなんですが、今日の21時頃、お店に来てくださいませんか?俺が手直しを、したいので。我が儘で、すみません。その時間帯なら他の者はいないので」


「雪原さん、あの、」



「絶対に、綺麗にしますから」


 その言葉に、やられてしまった。



 雪原さんは、いつだって私を笑顔にしてくれた。私の髪を大切に扱ってくれていた。


 何より、「最近も周りに気を遣っているの?無理しすぎちゃ駄目だよ」と伏せ目がちに私の髪を触りながら。会うといつも口にする。私の仕事の愚痴を聞いてくれるのがお決まりで。


「……おね、がいします」


 俯くと、髪がはらりと肩から前へ落ち、私の顔を周りから隠した。


自分の声は情けないほどに弱々しかった。







「……静か」


「他に誰もいないからね」


 私と雪原さん以外誰もいない美容室は、驚くほどに静かでひっそりとしていた。

 シャンプーのあったかい熱と薬のつんとした匂いがほんのりと香る。シャンプーのハーブの匂いも混ざって、美容室独特の匂いをいつもより強く感じた。


「どうぞ」


 椅子をくるりと回され、私は座った。


 雪原さんはあの美容師さんのように綺麗な男性じゃない。どちらかといえば濃い顔をしている。でも、とても落ち着く。知っている人だからだろうか。


「ごめんね、本当に」


 髪の触り方がいつもより弱く、毛先のほうばかりに触れている。


「川崎さんは『大丈夫』って言ったんだって?そりゃ、目の前で泣かれたらそう言わないとって思っちゃうよな。特に川崎さんみたいな人はさ」


 いえ、そんなことは。と、いつもなら反射的に言っていた。


 けれど今日は、声が出なかった。


良い客を演じる。人から嫌われたくない。

でも私はすごく嫌だった。

辛かった。


前髪がすごく嫌いで、とにかく嫌だった。そういうことが、あの時は口に出せなかった。


「しかも後回しにされたんだって?激怒してもよかったのに。接客がなってなくて本当に申し訳ないです。きっと川崎さんの優しさにみんな甘えちゃったんだろうな」


「……私みたいな人間は、甘える、じゃなくて、こんなもんだろうって見られるんです。これくらいならこの人のことは雑に扱っても大丈夫だろうって」


「俺は川崎さんを大切に扱うからね。心配しないで」


 優しい目が鏡ごしに私を見つめている。雪原さんはそういう人だ、と思い出した。


「今日はどれくらい切る?」


「バッサリ、切っちゃいたいです」


「これくらい?」


 こくり、と頷く。


「前髪は、ごめん、この長さだと整えるくらいしかできないんだ」


「……そう、ですか」


「……川崎さん、」


 雪原さんは椅子をくるりと回して私を自分の方に向かせた。そして、そのまま跪いて、私よりも目線を下にして。


「本当にごめんなさい。嫌な気持ちにさせてしまって。川崎さん、俺が切った後、すごく嬉しそうに笑ってくれるから。川崎さんのことだから村岡が傷ついたら、とか考えてくれたんだろうね。でも、川崎さんは大事なお客さんなんだ。だから、自分のことだけを考えて。大丈夫。俺がちゃんと綺麗にするからね」


 雪原さんの笑い方は「泣いてるよ」と言った、制服の、高校生の彼女と同じだった。


 胸がきゅうっと締めつけられて、もやもやしていた気持ちが薄らいでいく。


「雪原さん、ありがとうございます」


 それから、いつも通り、仕事のことや休日のことを話しながら、シャンプーをしたら髪を切ってもらった。


「この間、初めて家の前にある喫茶店に行ったんです。窓がなくて中の様子が全然見えないから勇気を出して」


「あ、それってもしかして『メリー』って喫茶店?」


「そうそう!知ってるんですか?」


「そこね、実は俺の弟がやってるとこなの」


「ええっ!そうなんですか!夜はバーになるって聞いて、お洒落だなあって」


「そうなんだよ。あいつ欲張りでさ、喫茶店もバーもやりたいって言って。でも川崎さん行ってくれたんだね。嬉しいな。何頼んだの?」


「アイスコーヒーとサンドイッチです。すごく美味しくて、また行こうと思ってるんです」


「嬉しいな。弟にも後で言っておくね。俺のおすすめはプリン。卵とかこだわってるみたいだから美味しいんだ」


「全然目がいかなかったな。今度食べてみますね!」


 たわいもない会話だった。周りには誰もいないし、私と雪原さんが出す音だけだからいつもよりも静かだけれど、そこは確かにいつもの美容室だった。


 私が綺麗になった私を楽しみに待つ場所。


「最後、トリートメントつけていいかな」


 鏡ごしに雪原さんと目が合う。「はい」と明るい声が出た。


 ふわりと雪原さんが笑う。「ん、上出来」と落ち着いた声で。それは、お世辞でもなんでもなく、ただそう思って自然と出てしまったように。


「可愛いと思うんだけど、どうですか?」


 毛先にはパーマを軽く当ててもらった。肩ほどの長さに切ってもらった髪は緩くふわふわとして女性らしい。前髪は相変わらず短いけれど軽く巻かれ、横に流れている。


「……可愛い」


 そっと髪に触れて、鏡の中の私をじっと見つめる。



「髪を、俺に預けてくれてありがとうございます」


 目を細めて雪原さんは嬉しそうに笑っていた。



「雪原さん、ありがとう」


 私はまた新しい自分で、明日を生きていける。


 私も雪原さんと同じように笑った。



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