第8話 三日月の光に
『おい、翔、どこ見てんだよ。こっち見ろよ』
『だって、恥ずかしいよ。遼樹の目に吸い込まれそうだよ』
『可愛いやつだな』
カミュ遼樹がテーブルに身を乗り出して、俺にキスをした。されるがまま目を閉じた。
『遼樹、他の人が見てるよ』
重なった唇が離れていく。追いかけたい。この暖かさを離したくない。そう思うと、体が勝手に動いていた。テーブルに身を乗り出し、今度は俺からキスをした。
あやふやだと思っていた風景が、ホテルの最上階、高級レストランになっていた。ガラス張りの壁から、ネオンの街並みが展望できる。周りからおめでとうなど、祝福の言葉や拍手が聞こえてきた。
『勝手に離れたら寂しいよ』
恥ずかしさから下を向いて喋ってしまう。
『俺もだよ、翔』
顎を人差し指で持ち上げられ、顔を見るしかなかった。その一瞬の時間がとても長く感じた。高鳴る鼓動が、嵐のように心を乱していく。治らない感情が火山のように噴火してしまいそうだ。
『はる——えっ? しんと? 何でここに?』
『何言ってんだよ。ここには俺とお前のふたりきりだぞ』
えっ? と思い周りを見ると高級マンションの多分最上階、ガラス張りのリビングに、間接照明でダークな雰囲気が、大人な世界に魅せられた。
王子様……と別次元のようなかっこよさに見惚れていると、ベッドに転がされていた。
『最後のメインディッシュといきますか』
奏音がそう言うと、覆いかぶさるように上になり、キスをした。俺の硬直したモノに奏音の手が触れる。まるで、電気が走ったかのように、身体がビクンッと波打った……。
ハッ! っと鮮明だった光景が、ぼやけて生ぬるい風景に変わった。キョロキョロと左右に首を振り、カーテン、テーブル、カーペットが目に入った……、来実の家だ。見てみれば、隣には来実が寝ている。
完全に寝ぼけている。おいしい夢を見ていたような、カミュ遼樹と深月奏音が……何で? 俺どんな夢見てたんだよと、勝手に焦っていた。
「おはよ、どーしたの?」
「えっ? な、なんでもない。トイレ行ってくる」
昨日のことを思い出していた。バイト帰りに来実と駅で待ち合わせをして、帰宅。それから、来実がごはんを作るのを少し手伝って、実食。茉莉花のバスボムを入れた風呂に一緒に入り、ベッドイン。からのmake love。
来実との初エッチは、6月の終わりだったと思う。付き合って1ヶ月半経っていた。したいと言うか、しなきゃという気持ちはあったけれど、なかなかタイミングが合わなかった。3年間、誰とも何もしてこなかったわけではない。けれど、彼女となると、大切にしなきゃと思うと、踏み出すことを躊躇してしまっていた。
充知さんの言葉でと言ったら、少しおかしな感じもする。自分のセクシャルなんて男で女が好きで、だから、女の子と付き合うし、エッチもする。それが当たり前だから。
だからあの日、無性に来実が恋しくなって、エッチをしたんだ。
よかった。気持ちよかったし、2人の感情が高まりあったと思う。
でも、今日の夢は一体何だったんだろう? 単なる夢だと言えばそれでお終いだ。けれど、あの感覚、あの興奮、リアルでは感じたことがない。
俺は——。
来実が好きだ。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
「なんか、新婚夫婦みたい」
「みたいじゃなくて、そうかもよ」
「ふふふっ、じゃあ、いってきますのチューは?」
チュッとキスをして、来実の家を出た。今からバイトだ。と言っても、ヘルプに駆り出された。眞浦琉一のいるカウンターサービスのカフェだ。自宅から出勤するよりも、来実の家の方が近いのはラッキーだった。
ドアを開けると、夏の日差しが降り注ぐ。眩しくて、日焼けをしていく音が、ジリジリと聞こえてきそうなくらい、暑い。
でも、澄み切った青空を見ると、それだけで今日1日がいい日になるような気がする。無事にヘルプが終わりますように!
「お願いしまーす。サンドセット、アイスコーヒー、ジェラートシングルオールワンでーす」
まさにカウンターサービスだ。普段、ホールで注文を聞いて、厨房に通すのだけれど、ここはほとんどをカウンター内で行うため、レジでオーダーを読み上げる。いつもと違い、新鮮で、おもしろい。サンドイッチを作ったり、ジェラートを盛ったりと、やったことがないからできないけれど、やれたら楽しいだろうなと思った。
流れ作業のように、次々と完成しては提供をして、目が回りそうだ。前、珠苑さんから聞いたことがある。本社の人が、いろんな店のスタッフをここで研修させたいって。わかる気がする。お客さんの接客だけじゃなくて、コーヒーを淹れたり、アイスティーをパックから作ったり、ジェラートの解凍、スムージーの仕込みと、常に他のことを気にかけてなくてはいけないし、この人数でこなすのは、本来なら無理なくらいだ。でも、ここのスタッフの連結は見事で、すんなりとこなしていく。見習わなくちゃいけないなと思った。
「おつかれー」
「おつかれ」
「今日はありがとな。めっちゃ助かったよ」
「そんなことないよ。全然何もできなかったし」
「なんで? ドリンクやれてたじゃん」
「そんくらい、簡単なやつだし」
閉め作業も終わり、帰り支度をしている。
「あれっ、細いけどいい身体してるじゃん」
男同士だし、気にせずにパンツ一丁になった。それをマジマジと見定めるように、上から下まで隈なく見ている。
「なんだよ」
眞浦を見ると、これ見よがしに、パンツ一丁になり、鍛え上げられたマッチョボディを見せつけてきた。
「ほら、高松もさ、ジム行ったら俺くらいなりそうじゃん」
筋肉に触ってほしそうに、ポージングをしている。かっこいいと思う、素直に。ただ、俺はここまで筋肉ついてなくてもいいかなと思ってしまう。
「あー、すごいすごい」
一応、触ってあげた。硬さの中に弾力もあり、触り心地はよかった。もし、こんなのに抱きしめられたら……、何を考えているのか、筋肉バカといっしょにいると、こちらまで筋肉バカになってしまいそうだ。
「だろ?」
満足げに、口が綻んでいる。
「この後ジム行かないか?」
「行かない」
ないか? を言う前に被せて断ってやった。わかりやす過ぎて草だ。
「なーんて、俺も行かない」
んー、めんどくさい奴だ。完全なるかまちょだよ。
「えっ? どーゆーこと? なら、クラブでも行く?」
「いや、俺はさ、どっちかっていうと、肉体派だから、そーゆー危険な遊びは……」
胸の前で両手を小刻みに振っている。女の子がやるからかわいいけれど、眞浦がやると気持ち悪い。
「いつの時代なわけ? 危険なんてないから」
「いや、今日は彼女が迎えに来て、一緒に帰るんだよ。実は」
キラッキラな笑顔とはこのことか! と思わせるくらい、嬉しそうな顔だ。
「そっか……俺も、今日も行こっかな」
眞浦が少し、羨ましい。何も考えず……いや、考えているとは思うけれど、何というか、大好きを、素直に全身で表現しているようで。
俺はちゃんと来実に伝えられているのだろうか? 好きの気持ちを……。
あっ、三日月だ。
カフェ三日月につく頃、街の中の山岳ビューから、三日月が見えた。駅に着いたときは、まだ若干の茜色が空を染めていたのに、一歩ずつ足を踏み出すたびに、一歩ごと夜の光に包まれていく。何気なく見ていると、いつの間にと時間の早さに驚かされる。
汗だくだ。7月も残り1週間を切れば、必然なのかもしれない。走ったわけではない、ただ、急いだ、競歩の選手になったつもりで。1秒、1分でも、早くしんとに会いたかった。
いつもより着くのが遅くなった、早番でシフトを入れていたのに。1人、授業で遅刻するということで、少し延長を頼まれた。断りたかったけれど……嫌です! なんて言えなかった。ピーク前で、来店するお客さんが多くなってきていたから。
退勤を押すと共に、秒で着替えて、猛ダッシュで駅まで向かった。
三日月って、小さな頃絵に描いたりしたことがある、半月よりもやや弧を描いて。でも、実際の三日月は、消えてしまいそうなくらい細くて、見られたことが奇跡のようだ。ずっと見ていると、その眩しい光に、心を攫われそうになる。
「いらっしゃいませー、今日は遅めだね」
「ちょっと延長しちゃって」
「夏の新メニューあるよ」
「ホントだ。って毎月新メニュー出してるんすか?」
「今年は、月1で新メニュー出したいんだって。全部おすすめだよ。決まりましたらお呼びください」
"キンキン炭酸ゼリーで水分補給"
・スイカジュースの塩レモン割り
・ライムとミント、モヒート流
・ゆず茶と黒糖ジンジャー
「すいませーん!」
「はい、お待たせいたしました」
「このゆず茶と黒糖ジンジャーってのください」
「かしこまりました。あのさ、みっちゃんから聞いたんだけどさ」
バランスの取れた筋肉質で、アンダーウェアのモデルでもしていそうな男性定員が、少し小声で話してきた。みっちゃんというのは充知さんのことらしい。
「えっ? 聞いたって……」
「あーいいのいいの。でも、頑張れって思う。正直になったもん勝ちだよ」
「はあ」
間の抜けた返事、これ以外何も言えなかった。応援されるようなことがあったのか、自分でもよくわからない。充知さんのことだから、何か企んでいる気がする。
「お待たせいたしました。ゆず茶と黒糖ジンジャーです」
さっきの男性スタッフが、横目で周りを見ながら、すかさず向かいに座った。口を片手で囲うようにして、小声で話してきた。
「あのさ、みっちゃんも勝手にカムアするのはよくないけどさ、俺もゲイなんだよね。よかったら相談とか乗るし、こっちの友達いないなら、一緒に遊びに行ったりできるからさ」
…………。
「はっ?」
あまりの進み過ぎた話に、動揺してというよりも唖然となった。
「いや、気遣ってくれるのは、ありがたいんだけど、そもそも俺ゲイじゃない」
「えっ? あー。あー、今はまだそれか。そか、なら今度、お茶でもいかない?」
「えっ? いや、まあ、機会があれば……」
一言の勢いも強いし、身体を前に押し出し、その凄みに押されて、断ることができなかった。ROWを交換して、
俺の見た目って、ゲイっぽいのかなと思ってしまう。
頼んだドリンクをひと口飲む。その瞬間、ゆずの香りが口から広がり、ほのかな黒糖の甘みが旨さを引き立てる。喉越しに生姜のピリッとした辛さと炭酸が、味わいをすっきりとさせる。ゆずや生姜を使ったドリンクは、冬のあったまる系を想像してしまうけれど、これは夏にマストだ。
「おにいちゃん」
後ろを振り向くと、絵の中の世界にしんとが立っているのが見えた。絵に手を触れる。
「おにいちゃん」
と、しんとがギュッと抱きついてきた。
「しんと、遅くなってごめんね」
「うん、大丈夫だよ」
まっすぐで、混じりっ気のない瞳が、星の瞬きのように、綺麗だった。
「おにいちゃん、ぼくおにいちゃんのこと好きだよ」
「えっ? 俺もしんとのこと好きだよ」
「やったー!」
飛び跳ねて喜ぶしんとが可愛かった。小さな頃の自分も、こんな風に父や母に聞いていたことを思い出した。好きだよ、そのたった一言に、ハチミツやジャム、甘いものを、身体いっぱいに吸収したかのように、高揚感で満たされていた。
少しだけしんとに質問をした。けれど、しんとに聞いたところで、わかるはずがない。やはり、深月奏音に聞かないと、この状況を変えることは、できないと思う。
草と土の上に寝そべって、変わらない、星空を眺めたり、奏音から伝わってくる感情を、しんとが面白おかしく、話してくれる。それを聞いて驚かされたり、笑ったり、楽しい時間を過ごした。
そして、しんとの歌を聞いていると、気づいたときには、カフェ三日月の席に座っていた。
後ろに飾ってある絵を見て、おやすみしんと、と心の中でつぶやいた。
カフェを出ると、三日月の姿はなかった。
生暖かい空気が、冷えた身体を強制的に現実に引き戻す。額の汗を拭った。
この空とあの空、星があって、月もあって、同じ夜空に見える。山の中と街の中では、見え方は違うけれど、何の違いもないように思えてしまう。
あの場所は、描かれた絵の中の世界なのか、現実のどこかなのか——でも、年齢が違ったとしても、同じ人間が同じ時間に存在するなんてありえない。
しんとを助けてあげたい。
何ができるのか、したらいいのか、検討もつかない。
あの三日月の、不思議な光に魅せられるように、しんとを救い出せないだろうか。
そんな魔法みたいなこと、あるわけないか……。
今宵、三日月に歌う -mikadzukirond- 帆希和華 @wakoto_homare
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