真赤
まだら
第1話
赤と緑にデコレーションされた駅前を一人で歩く。街角で人が抱き合い、どこからか聞き古されたバラッドが一年の終わりを告げに来る。僕はベンチに座り、マクドナルドの紙袋から今日の夕食を取り出す。並んで歩くカップルを心の中で冷やかしながらハンバーガーを口に運びコーラとともに胃の底へ流し込む。高校時代は青春の味がしたハンバーガーも今や孤独の味しかしない不健康の塊と化してしまった。
クリスマスは嫌いだ。我が物顔で通りを歩くカップルも、毒々しい色で輝くネオンも、毎年この時期になると繰り返し流れるクリスマスソングも年齢を重ねるごとに不快でしかなくなっていく。
しかし僕も人間だ。社会から完全に断絶されたまま生きていくことはできない。だから僕はこの時期特有の不快感を押し殺してこうして駅の前でファストフードを貪り、自分自身に生きていることを実感させる。僕をただただ不快にさせるあのカップルは同時に僕を不快にさせることで僕を人間たらしめてくれる命綱でもあるのだ。もちろん人並みの学生生活を送っていた僕にも彼らの気持ちが分からない訳ではない。事実、この街に来てから何度も彼らのようになろうとした。でもそうやってやり直そうとするたびに僕の心の奥底にある闇が僕を過去の中に引き止める。だから今さら誰かを愛そうだなんて傲慢なことは思わない。そう決意してずっとこの類の感情を無視してきたのに、今日はいつにもましてひときわ孤独に感じるのである。僕は目の前で輝くネオンから視線を下に向け、そっと溜息をついた。
「隣、いいですか。」
突然頭上から降ってきた声に驚き、思わず顔をあげる。視線を上げてさらに驚いたのは声の主が知り合いであることであった。僕は動揺を気取られないように小さくうなずいて左に少し動いた。先ほどの溜息を聞かれただろうか。しかし僕のそんな心配をよそに彼女は座った途端にさっきからずっとそこにいたかのように話し始める。どうやらあまり機嫌がよくないらしい。彼女の話は止まる気配がない。仕方がないので僕は彼女の話に少しばかり付き合うことにした。
彼女の話を要約するとこのようになる。
彼女には推しがいた。彼女は彼とそれなりに親しい関係を築いていた。しかしクリスマスイブ前日の昨日、その彼は彼女の友達と付き合っていたことを彼女は知ってしまった。そのために彼女は衝撃を受けているのだった。
「……というわけで、今めちゃくちゃショックなんですよね。」
「なるほどね。それはしんどいだろうね。」
どう反応していいか分からず、思わず他人行儀な返事をしてしまった。言ってしまってから彼女の機嫌を損ねたかもしれないと思ったが、彼女は僕の返答を咎めることなく話を続けた。
「もうなんだかんだ半年近く彼氏がいないんですよね。本当に寂しいですよ。」
「確かに独り取り残されるのはしんどいよね。特にこの時期はさ。」
「そういうあなたはどうなんですか。いるって言われたら泣きますよ。」
僕は笑いながらいないと答える。すると彼女はさらに話を振る。
「やっぱり。こんなところで一人でご飯食べているってことはそう言うことですもんね。じゃあ今までにいたことは、ないんですか。」
僕の顔からさっきの愛想笑いが消えたのを見て彼女はどう思っただろう。おそらく自分のせいで僕が不機嫌になったと思ったに違いない。仕方がない。ここは誤解を解くために正直に話すしかないらしい。僕は、ずっと閉じていた記憶の蓋をゆっくりと開ける。
最後に彼女がいたのは高校二年生のとき、僕も彼女も束縛が激しいわけでもなく、お互いに依存することなく良好な関係を築いていた。異変が起きたのは僕が三年になってからだ。僕の通っていた高校は、県内屈指の進学校であった。そのため三年になれば受験勉強一筋という空気が学年全体に広がり、僕もまたその空気に飲み込まれていた。会う頻度はしだいに減り、彼女と会う予定よりも勉強を優先することが多くなった。そんな自分を僕は心の底から軽蔑した。このままの関係を続けるくらいなら別れたほうがいいのではという考えが頭をよぎるようになった。
しかし彼女は違った。彼女は僕と付き合うにはあまりにも純粋だった。僕が勉強を理由にデートの誘いを断っても嫌な顔一つせずに受け入れてくれた。記念日も常に覚えていてくれた。こんなどうしようもない僕を好きでいてくれた。彼女のそのやさしさに触れるたび、僕の心は良心に切り刻まれた。僕は心を病み、しだいに勉強さえも手につかなくなった。そして……
話を続けようとして僕は一瞬躊躇した。果たして知り合い程度の彼女にこの続きを聞かせてよいのだろうか。彼女に最低な男だと思われるかもしれないと僕は恐れた。しかし、一度開いた口はもう頭では止めようがなかった。本当はこの苦しみを誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。僕はそんな弱い自分を軽蔑した。
夏休み直前のことだった。僕は自分の家に彼女を招いていた。こんなことを言っても信じてもらえないかもしれないが、僕は付き合い始めた当初から、高校生の分際で彼女と身体の関係を結ぼうとなど少しも考えていなかった。彼女の純潔を僕の薄汚い下心で汚したくはないとさえ思っていた。しかし、僕は狂った。気づけば、彼女の腕を強引につかみ、ベッドに押し倒していた。自分が当時、どのような気持ちで彼女にこんな仕打ちをしたのか。今となっては分からない。身体を交わせばもう一度彼女を愛せると思ったのかもしれない。それともやさしさで僕を傷つける彼女へのささやかな復讐のつもりだったのかもしれない。わからない。僕にはもうわからない。ただ一つだけ覚えているのは、ベッドに倒れこんだ彼女の泣き顔を見た時の罪悪感だけである。幸いこんな僕にも少しは理性が残っていたらしく、泣きながら抵抗する彼女をすぐに解放し、家を出る彼女を無言で見送った。彼女と別れたのはそれから一週間後のことだった。自暴自棄になった僕はさらにその一ヶ月後に童貞を捨てた。相手はSNSで知り合った他校の女子生徒だった。
一息で話を終わらせた。話している間は彼女の反応を見るのが怖かったのでずっとイルミネーションを見つめていた。僕は心底自分を軽蔑した。お前が苦しむ理由がどこにある。お前が被害者ぶる理由はどこにある。お前がトラウマを抱えていい理由はどこにある。どうしようもない怒りが自己嫌悪とともに湧き上がってくる。今すぐにでも目の前の車道に飛び込んで死にたいと思った。
彼女は、まあ、そんなこともありますよ。とだけつぶやいた。振り向くと、彼女も同じく上を見上げていた。気づけば人通りもまばらになって、時折通る電車の音だけが街に響く。寒さが身体の芯まで染み渡っていた。今は彼女が何も言ってくれないことだけが救いだった。
そろそろ帰らないと。彼女にもう帰宅する旨を伝えるために立ちあがろうとしたその時だった。右半身に重さを感じる。何が起きたのか分からず右隣を振り向く。彼女は僕の首に手を回し、顔を僕の右肩にうずめていた。甘い香りが鼻孔を通って体全体を刺激する。突然のことだったが僕は意外になことに落ち着いていた。気づけば僕も彼女の背中に手を回し、彼女の身体を引き寄せる。空いたほうの手で彼女の頭をそっとなでる。シルクのように滑らかな手触りの黒髪を指先で慈しむ。こうしてしばらく抱き合った後、僕は腕の力を緩め、一旦彼女を引き離す。彼女も僕の肩から顔を上げ、黒く潤んだ瞳をまっすぐ僕に向けた。僕はその瞳に吸い込まれるように顔を近づけ、唇を重ねる。貪るように舌を入れ、今度は彼女の腰に腕を回す。彼女も拒むことなく再び僕の首に手を回し、舌を絡ませた。
「そろそろ帰りませんか。」
唇を離した後、彼女が囁いた。僕は軽くうなずき、二人で駅とは反対の方向に歩いて行った。
次に目を覚ました時には汗はすっかり引いていた。僕は裸のまま起き上がる。彼女はすぐそばで静かに寝息を立てていた。床に落ちていたブラジャーを拾い上げ、近くにあった椅子にかける。僕はまだ夜が明けていないことを確認して、再び彼女の隣に寝転がる。真赤な爪が窓から差し込む月明かりに反射して鈍い光を放ち、薄暗い闇の底に沈んでいた。
桜の花もすっかり散り、新緑のにおいがほのかに香るある日、僕はマクドナルドの店内でポテトをつまんでいた。この後に予定があるので、本当はこんなところで油を売っている暇はないのだが、流されやすい性格の僕はこうして無為な時間を過ごす羽目になってしまうのだった。
「あー、都合のいい時だけ付き合える相手が欲しい。」
「……そうですか。」
僕は呆れながらコカコーラを喉に流し込む。
「なんでそんなに興味なさそうなんだよ。」
そう言って葵は口を尖らせる。ちゃんとした反応をもらいたいならばこちらが話についていける程度の倫理観は持ち合わせていて欲しいものだ。
「いや、だったらなんで別れたんだろうなあと思ってさ。」
「だって仕方ないじゃん。面倒くさくなってきたんだもん。」
先週に彼氏と別れた女子大生の愚痴と嘆きを僕は延々と聞かされ続ける。今に始まったことではない。高校時代から葵は同じようなことがあるたびに僕を呼びつけてこうやって愚痴をぶつけるのだ。
「さっきから涼しい顔して聞いているけど、そっちはなんか面白いことないの。」
ひとまず話を終えた彼女は僕にそう尋ねた。この雑な振りもいつものことだ。
「いや、別に。今のところ彼女もいないし。」
「え、いないの。じゃあ最近よく会っているっていう女の子は、どういう関係なの。」
僕は返答に窮する。先ほどまで他人事のように彼女の話を聞いていた罰が当たったのかもしれない。
「うん。まあ、ちょっと寂しくて……。」
「呆れた。あんたほんとにクズだね。あんたも馬鹿じゃないんだからそういう関係はだいたい女側が惚れてるってわかってるよね?」
感情が昂ったのか葵の声が一回り大きくなったので慌てて僕は彼女を制止する。
「健全な関係じゃないのは分かっている。この関係をやめるのが向こうにとって一番いいってことも。でもね、その子めっちゃ美人なんですよ。だから付き合うのは面倒くさいけど手放すのは惜しいというか、ちょっとこっちもその気になりつつあるというか……。」
「なんだよ。好きなのかそうじゃないのか、はっきりしろよ。」
「……付き合ってもいいかもしれない、とは思っている。」
「じゃあさっさと付き合えや。今日もこの後会うんだろ。そこで言ってこい。」
そう言って、戸惑う僕に見向きもしないで葵は帰り支度を始めた。
「じゃあ、頑張って。バイバイ。」
あっという間に彼女は荷物をまとめ終えて店の外へ出て行った。一人残された僕は途方に暮れたまま、氷が解けて薄くなったコカコーラを飲み干した。
いつも通り行為を終えて二人で外に出る。いつも終わった後はお互い無言なのだが、今日はその沈黙がなんだか重く感じた。
「今日、いつもより激しかったですね。」
珍しく彼女が口を開いた。僕はなんて返せばいいかわからず適当に相槌を打つ。数時間前の葵との会話を忘れたくて彼女を求めたとは口が裂けても言えなかった。
「前から気になっていたんですけど、」
彼女は話を続ける。
「誰とでもこういうことするんですか。」
予想外の質問に少々驚きながらも否定をする。そして、社交辞令的に彼女にも同じ質問を返す。
「いいえ。そんな軽い女じゃないので。」
彼女は答える。それを聞いて僕は、心のどこかで安心している自分がいることに気づいた。彼女が他の男に抱かれているところを想像するだけで胸が引き裂かれるように痛む自分がいることに気づいた。恋人でもない彼女のことを独占したいと望んでいる自分がいることに気づいた。彼女のことが好きな自分に気づいた。
幸いなことに、思ったことを脊髄反射的に彼女に伝えるほど僕は軽率ではなかった。しかし、一度悟ってしまった本音は、僕の心をかき乱すのに十分なだけの攻撃力を備えていた。僕は彼女のほうをなるべく向かないようにして駅までの道のりを無言で歩き続けた。
駅のホームに着いた。次の電車が来るまでまだ時間がある。ここで決行してしまおうか。そう思ったが、肝心の言葉はなかなか口から出てこない。僕は彼女に心の内を気取られないように駅の電光掲示版を見つめる。思えば学生時代から恋をしている時はいつもこんな感じだったな。まったく成長していない自分に気づき、思わず苦笑する。
そのうちに構内にアナウンスが響き渡り生ぬるい風が頬に吹き付ける。どうやら今日はここまでらしい。僕は下ろしていたカバンを肩にかけた。電車がやってきてドアが開く。彼女に別れを告げようと振りむこうとした瞬間、僕はまた身動きが取れなくなった。電車は僕の鼻の先で扉を閉め、また夜の闇に消えていく。彼女は背後から僕の胸に両腕を巻き付け、また僕の右肩に顔をうずめる。
「好き……です。」
しまった。先を越されてしまった。男としてこれほど情けないことはないなと思った。驚きや喜びを押しのけて僕の心は自己嫌悪に支配された。後出しにはなるが仕方がない。僕は彼女の手をゆっくりとほどき、彼女と向き合った。うつむいていて表情はよく見えない。僕は彼女の後頭部に手をもってきて、自分の胸元に引き寄せた。引き寄せられた彼女は導かれるようにして自分の身体を僕に密着させる。もう一方の手を彼女の背中に回し、僕は今度こそ脊髄反射的に言葉を発した。この数年間心に貼り付いていたはずのあの子との思い出は、本当はとっくの昔に失われていたのかもしれない。
付き合おう。
まだ少し肌寒い春の夜の空気の中に、少しだけ、夏のにおいがした。
夏の暑さが激しくなってきたある日。僕は駅前で彼女を待っていた。先週、僕は大学の軽音サークルのライブに彼女を誘った。僕の趣味に付き合わせるのは少し気が引けたが、彼女は二つ返事で承諾してくれた。
彼女は待ち合わせ時刻ちょうどに現れた。軽い挨拶を交わして、すぐに歩き出す。他愛もない会話を続けながら歩くこと数分、目的地のライブハウスに着いた。彼女はこういった場所に来るのは初めてらしく、不思議そうに建物を見まわして入り口がどこか探しているようだ。僕は彼女の手を引いて地下に潜っていく。
中に入ると、ライブ直前の音出しが既に始まっていたらしく、ドアを開けた瞬間にピアノの音色が二人を包み込む。受付を済ませてドリンクを注文し、客席の端のいすに腰掛ける。気づけば音出しも終わり、照明がだんだんと絞られてきた。店内のBGMがフェイドアウトすると演奏が始まった。ステージに立っているのはキーボードとアコースティックギターの二人組のユニットだ。初めて聴いたグループだが、どこか懐かしい気持ちになる歌声に思わず聞き入ってしまった。彼女も気に入ったのだろうか、ゆっくりとリズムをとりながら優しいメロディーに身をゆだねていた。
ライブが終わり、外に出た時には空はもう茜色に染まっていた。駅に着いて電車に乗り込み、一息ついてから今日のライブの感想を語り合う。彼女は最初に聞いた二人組のユニットが気に入ったらしい。彼女にどのバンドが一番好きだったかと聞かれたので、僕は最後の方に出ていた男女五人組のバンドを挙げた。
「あのバンド、ヨルシカをカバーしていただろ。僕も最近ヨルシカを聴いていてね、何だかタイムリーな気がしていいなと思ったんだよね。」
「ヨルシカですか。私はあまり聴いたことないなあ。どういうところが好きなんですか。」
僕は返答に窮する。ここで適当なことを言って後でにわかだとバレるのは恥ずかしい気がしたので正直に告白する。
「実をいうと、ヨルシカは高校生の時から聞いているけどいまだにあまり詳しくないんだよね。当時憧れていた先輩がヨルシカをよく聴いていて、先輩と同じ曲を聴けば彼のようになれるかもしれないと思ったから聴いていただけなんだ。だから僕が好きなのはヨルシカそのものではなくてヨルシカが好きな先輩と言った方が正しいのかもしれない。」
ふと思い出したので話を続ける。
「思えば僕はずっと先輩を追いかけていた。そしていつも失敗していた。先輩は小説や俳句をよく書いていて、それに憧れて僕も小説を書こうと思ったんだ。だけどどう頑張っても先輩のような作品が書けなくてさ。だんだん先輩の真似をすること自体が彼に対する冒涜なのではないかとすら思い始めてしまってね。それで小説を書くのは諦めた。」
彼女が僕の自分語りで気分を害していないか気になったがそれをわざわざ尋ねるのも違うと思い、苦笑いで誤魔化す。
「話が逸れたね。まあつまり何が言いたいかというと、僕はヨルシカをきちんと聴いているわけではないから、どこが好きかと聞かれてもちゃんと答えることができないということさ。すまないね。」
これで彼女も引き下がってくれるだろうと僕は期待した。だが彼女は少し考えこんでこう言った。
「それでもいいんじゃない?私は好きな人が聞いていたからというのも十分に好きな理由になりえると思うけど。」
肯定も否定もできなかったので黙っていた。完全に納得できる訳ではなかったが、全く間違っているというのも違う気がした。
「だからさ、好きなものは好きって自信もって言いなよ。」
「……うん。」
「あと小説も書いてみてよ。読んでみたいな、君の書いた小説。」
「ああ。まあ、気が向いたら書いてみるよ。」
正直気乗りはしなかったが承諾する。彼女の瞳があまりにもまっすぐなので、目を合わせるだけで胸が痛んだ。
彼女の最寄り駅に着いた。気付けば外はすっかり暗くなり、夜の街に街灯の灯りが浮かび上がっている。僕は彼女と手をつないで彼女の家へ歩きだした。
翌朝、差し込む朝の光で目を覚ました。隣でまだ眠っている彼女を起こさないようにそっとベッドから離れる。洗面所で顔を洗い、歯を磨く。朝食をどうしようかとキッチンに入ったその時、リビングの奥に飾ってあるコルクボードが目に入った。近づいて見てみるが、何もない。だが四角い日焼け跡が残っていたので写真が貼ってあったことは容易に想像できた。もっともその日焼け跡もかなり薄くなっていたからかなり前にはがされたのだろう。はがされた写真たちの行き先についてはあえて考えないようにした。
それにしても彼女の家には今まで何度も来ていたはずなのに、どうして気づかなかったのだろうか。家に行っても彼女しか見てなかったからだろ。心の中の自分がそう言って笑う。どんな写真があったのか。気になったが、彼女に聞くのもなんだか気が引けた。いつか、二人の写真もここに貼られるのだろう。そのとき、僕らは笑っているのだろうか。僕は空っぽのコルクボードを見つめたまま黙っていた。
隣の部屋で目覚ましが鳴り、沈黙していた時が動き出す。僕は再びキッチンに戻り、朝食の準備を始めた。
月日は流れ彼女と出会ってもう一年近くが経とうとしていた。
僕は自室で一人、携帯をいじる。誰からも通知が来てないのにメッセージアプリを立ち上げては消すのを繰り返している。気づけば今日最初の授業が始まる三十分前だ。そろそろ家を出るか。僕は起き上がって用意を始めた。家を出るときふと思い立って、もう一度メッセージアプリを開く。僕は彼女とのトーク画面を開き、数日ぶりのメッセージを送る。送信ボタンを押すときに感じた一瞬のためらいには気づかないふりをして。
一日の授業を終え、家に帰った。携帯を開くが彼女の返事はまだ来ない。またか。僕は携帯をベッドに投げ捨てて寝転がった。今日に始まったことじゃない。先月あたりから、彼女は僕と会うことを明らかに避け始めた。サークルやバイトが忙しいからと言っていたが、どうにも腑に落ちない。僕は嫌な予感を必死に押し殺して毎日を過ごしていた。
その日の夜、ベッドに寝転がってふと窓の外を見たら満月が黄色く光って空に浮かんでいた。鮮やかでどことなく温かさを孕んだその光を見て、僕はいつかの彼女が見せた優しい笑顔を思い出した。それをきっかけに彼女との思い出が一つ、また一つと心に浮かんでは消えていく。なぜ返信さえもくれないのか。なぜ僕がこんな思いをしなければならないのか。頭の中から疑問符があふれ出す。気づけば目から一筋の涙がこぼれだしていた。
僕はあの日の駅のホームにいた。世界はオレンジ色に染まっている。おそらく夕方なのだろう。僕の視線の先には彼女がいた。声をかけようと思ったができなかった。何かが僕の足を止めた。彼女は僕に背中を向けたまま振り向く気配はない。やがて電車が来て、彼女は乗り込む。その背中に僕はどこか冷たさを感じた。ドアが閉まり電車はゆっくりと動き出す。彼女は最後まで僕のほうを見ることはなかった。
目を覚ました。朝だった。なぜだか彼女が遠くへ行ってしまうような気がしてしまった。不思議なことに、昨日まで感じていた彼女への恨みはすっかり消えていた。今はただ彼女に会いたい。それだけを考えていた。
朝の用意を終え、何気なく机の上に置いてあった携帯を手に取る。彼女にどう連絡しようかと考えながらメッセージアプリを開いた瞬間、僕の世界は色を失った。視界がにじんで世界はその輪郭を失っていく。やっとの思いで彼女の最後のメッセージに既読をつけ、なるべく平静を装った返答をする。しかし、メッセージを打ち込むその指は震えている。送信ボタンを押した後、僕はトーク画面を閉じ、彼女との記録をすべて消した。僕の恋はあっけなく終わった。
春。僕はまたマクドナルドでポテトを貪る。もちろん向かいの席には一年前と同様にあの女がいる。
「あー。しんどい。」
「お前、いつまで引きずっているんだよ。もう別れて三か月なんだろ。いい加減次に行けや。」
「いや、僕は君と違って純情なんで。そうすぐには忘れられないよ。」
「その私が軽いみたいな言い方、やめてもらえる?」
葵がムッとした顔で言う。
僕はそれを見て意地の悪い笑顔を向ける。
「まあ、軽口叩けるだけの元気があるならよかったよ。」
それはそうだ。確かにまだ痛むときもあるが、彼女を失った心の傷口は少しずつかさぶたに覆われてきていた。
「まあね。でも彼女がなんで別れようと思ったのか、それがわからない限り永遠に引きずる気がするなあ。」
僕は宙を見上げて呟いた。すると彼女は少しだけ真面目な顔をしてこう言った。
「これはあくまでも私の推測なんだけど、もしかしたら初めからすぐに別れるつもりで付き合っていたのかもしれない。」
「……どういうこと?」
「だから、彼女にとってあんたはクリスマスに一人ぼっちになる寂しさを埋めるための間に合わせでしかなかったってこと。だからクリスマスが終わって寂しさが埋まったら必要ないからもういいやってなったんじゃない?」
「でも、付き合ったのは初めて寝てから数ヶ月後だし、それからもなんだかんだ半年くらいは付き合っていたけど。」
「それはたぶん彼女も最初は自分があんたのことが好きだって勘違いしてたのよ。それでしばらく付き合ってたのも単にあんたのスペックが高かったから手放すのが惜しかっただけ。あんたが彼女を美人だからって理由で割り切った関係をやめられなかったのと同じでさ。」
突き放されたような気分だったが、案外葵の言っていることは正しいかもしれないと思った。彼女と駅前で偶然出会ったあの日、僕は孤独だった。心に空いた穴を誰かに埋めて欲しかった。その相手がたまたま彼女だっただけなのだ。穴が埋まったらもう用はないはずだった。本当ならば付き合った瞬間に僕らの物語は完結するはずだったのだ。今なら分かる。ただあの日の僕はそのことに気づけなかった。ブラジャーのホックを外す時、心のどこかでまだ人を愛せるかもしれないと甘えていた。
「だからさ、もう過去を引きずるのはやめな。次に行こうぜ。そうだ。私のサークルの後輩があんたのことかっこいいって言っていたよ。今度二人で会ったらどう?絶対お似合いだと思うけど。」
その後輩なら葵の紹介で何度か会ったことがある。小柄でかわいらしい雰囲気の子だ。
「うーん……」
「なんだよ、気の乗らない返事だな。あんたもあの子のことかわいいって言っていたじゃん。」
「いや、確かにかわいいし、一緒に喋っていてとても楽しかったんだけど、それはきっと付き合ってないからこそだと思うんだよね。付き合ったらお互い色んなこと意識し始めて今のままの関係じゃいられなくなる気がする。それに、今回みたいに破綻して、今までの関係を台無しにするのも怖いしね。」
「そうか。くっつくの結構期待してたんだけどなあ。」
そう言って口を尖らせた葵を見て僕は苦笑した。葵は強い。いつだって前を見ている。
だけど僕は違う。きっと僕はもう人を愛せない。だから僕ができるのは彼女の強さを守るために嘘をつくことだけだった。
葵と別れて駅に向かう。気づけば太陽は西に沈んでいこうとしていた。駅の改札口を通る瞬間、女子学生らのたのしげな声とすれ違う。僕は思わず振り向く。
そこには僕が最も求め、憎み、愛したあの女がいた。
彼女は僕には気づかないで、茜色に染まった街へと降りていく。僕は彼女が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。彼女の心の中にまだ僕がいることを期待して。でももちろんその瞳に僕は映っていない。どうしようもない寂しさを覚えた。できかけていたかさぶたが再び剥がれていくような、そんな感覚だった。視界がまたにじんでいく。さっきまですぐ近くにいたはずの彼女の声も、顔も、その無邪気な笑顔も、思い出と一緒ににじんでぼやけていく。思い出せなくなっていく。情けねえ。本当は彼女を愛してなどいなかったことはわかっているはずなのに。だが彼女を好きだと思っていたあの日の記憶はくっきりと、はっきりと、この心に刻み込まれていた。
ホームのベンチに座って電車を待っていた僕は気づけば夢の中にいた。
夕暮れの駅のホーム。あの日に見た夢と同じ場所だ。彼女はあの日と同様に僕に背を向けて電車に乗り込む。ふと後ろを振り向くと僕のほうにも電車が来ていた。僕も引きこまれるように電車に乗り込む。二人は互いに背を向けたまま無言で発車を待つ。
先に動いたのは僕の乗った電車だった。窓の景色がゆっくりと左に流れていく。
さよなら
声が聞こえた気がして思わず振り向く。だがそこには誰もいない。僕だけを乗せたまま、電車は駅から遠ざかっていく。
真赤 まだら @madara_wam
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