第7話 流れ着いた地

 遠くで水が湧き出す音がぽこぽこと静かに響いている。次いで、薬草の匂い。いや、それより顕著に鉄っぽい匂いがすることに気づく。そして、指先に何かが触れる。女性的な細い指……?

「ん?指が動いたな?」

 知らない男の声だ。満は慌てて飛び起きる。

 質の良い寝台の上で寝かされていた満の傍らで、その男は満の手を握っていた。急に起き上がった満に面食らったのか、男は黄昏色の右眼で満をまじまじと見つめている。踊り子のように派手ないでたちをした線の細い男。薄化粧をした顔は整っており、声を聞かなければ女性と見間違えそうだった。

 何より、男は見たことのない紫色の髪をしていた。長い前髪をかき上げて流し、左目は隠れている。

「あなたは一体……」

 満が言うと、男はすぐさま人好きのする笑顔を浮かべた。

「俺かい? 俺は薬屋の紫穏しおん、ちょっと待ってな、先生呼んでくるから!」

 男は満の肩を一瞬掴んですぐ部屋の外に飛び出してしまった。満は眼を丸くして、紫穏が出て行った戸を見つめることしかできなかった。紫穏が行ってしまった後、改めて辺りを見回すと、広い部屋には趣味の良い調度品が並べられており、窓から見える中庭の泉からは湯気が立っていた。どうやら、温泉が屋敷の中庭に湧いているようだ。

 満は寝台から降り、窓に向かって歩き出した。身体に痛みはなく、身体の感覚もしっかりある。満は中庭の温泉に駆け寄り、水面を覗きこんだ。鉄臭いのはこの温泉であって、満が傷を負っていたからではなかった。透明な褐色の湯に映る自分の姿には傷一つない。白蓮では黒の騎士に追い詰められて、崖から川に落ちたというのに。

 私だけ生き残ってしまったのか。

 満の喉の奥がそう震えた。声にはならなかった。覗き込んでいた水面の細波さざなみが乱れて、視界がぼやける。

 どれくらいそうしていただろうか。不意に後方でバタバタと板間を踏む音がした。あの薬屋……紫穏が人を呼んで来たのだろう、部屋に戻らなければ心配をかけてしまう。涙を袖で拭いながら、満は元いた部屋に歩み出した。

「席を外してすまない、私はここにいるぞ」

 部屋に向かって発した声は震えていた。

「陛下! ご無事で何よりです」

 え、と満の声が漏れる。

 雪凪だ。雪凪が目の前に立っている。

 髪が少し乱れ、軽装に着替えているようだが、確かに雪凪だ。目の下に浮かぶ氷の粒が朝日に反射してきらきらと光っている。

 満は思わず雪凪の腕に飛びついた。

「雪凪こそ……無事だったのか、すまない、私のせいであんなに傷を負わせてしまって……」

 そう言いながら恐る恐る雪凪の袖を捲る。

 傷が、無い。

 驚いて満が顔を上げると雪凪も眉根を下げ、喜びとも戸惑いともつかぬ気まずそうな顔をしていた。

「そうなのです。腕も喉も無事ではあるのですが、傷を負った筈の場所には、傷が癒えた痕跡すらないのです」

 雪凪はその巨体を居心地悪そうにしながらもごもご話した。毒に侵され、倍に膨れ上がっていた筈の腕も、砕けた氷塊に貫かれていたはずの喉も、傷跡すら残らずに綺麗な状態に戻っている。

 ちゃんと元通りにしたでしょう。約束だもの。

 満ははっとして後ろを振り返ったが、中庭では温泉が鈍い音を立てながら流れているだけであった。

「私は……まずは雪凪が無事なだけで嬉しいよ。ところで、雪凪、ここは何処なのだ、さっき薬屋と名乗る者に会ったんだけど……」

「ああ、ここは……」

「それについては、私からお答え致しましょう、陛下」

 答えようとする雪凪の声を遮るように、朱い長髪の男が部屋に入ってきた。丸眼鏡の奥に切れ長の目が覗く理知的な顔立ちで、その後ろには先程の薬屋を引き連れている。

「ご挨拶が遅れた無礼をお許しください、陛下。私はこの屋敷の家主、朱雀すざくと申します。幼い頃は雪の里で修行をさせていただいておりました。今は朱の国、朱天で魔法について研究をする傍ら、遊撃隊に剣術の指導をしています」

 そう言いながら朱雀は雪凪の隣に立った。部屋の入り口ではかなり大柄な男だと思っていたが、流石に雪凪の隣に立つと体型は華奢に見える。

「雪凪とは雪の里での修行時代に共に切磋琢磨した友で、里を出てから何度もうちに遊びに来いと連絡していたのですが、まさかこんな形で再会するとは」

 朱雀が雪凪の頭をポンポンと手で叩く。

「陛下からも何か言ってやってはくれませんか。この雪凪バカは白蓮の都からこの朱天しゅてんの辺境まで泳いで川を下っただとか、腕に毒の矢を受けただとか、ずっと寝ぼけたことを言いながらこの数日を過ごしていたんですよ」

 雪凪は朱雀に肩を揺らされながらずっと居心地悪そうに朱雀から目を逸らしている。雪凪としても、そうとしか説明が付かなかったのだろう。

 朱天、朱の国か。白蓮との国境付近とはいえ、朱天まで流されてきてしまったのか。馬を使ったとしても、白蓮の都から3日から5日はかかる距離だ、普通ならありえない。きっと、雪凪が五体満足でも泳ぎ切ることは不可能だろう。

 水底で見た夢、その中で会ったルカと名乗る水の精。彼女が、ここに満と雪凪を導いたことには違いなかった。

「白蓮で何があったのです」

 朱雀はいつのまにか雪凪を弄くる手を止めていた。

「満陛下、貴方まで屋敷近くの川縁に倒れておられた。我が友であり、冬将軍である雪凪がついていながらです。一体、白蓮に何が」

 朱雀の瞳が眼鏡の奥で鋭く光る。

「それは」

 満は口を開いた。その瞬間、生々しく記憶が脳裏に駆け巡った。雪轟が撃ち抜いたリュウ、雪凪と満を付け狙っていた複数のリュウ、黒の騎士、皆視線は自分に向かっている。

「都を襲撃されたのだ」

 満は下を向いたまま答えた。

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色彩の英雄 郭照三郎 @kakunokac1

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