暗室と結婚詐欺師

高橋 白蔵主

暗室と結婚詐欺師

由比ゆいあさとはじめて出会った時、とっさに「ゆう」という偽名が口をついて出た。だから当然だが彼は私のことを夕と呼ぶのだった。


それまで私は、「自分に何が見えているのか」を理解できなくても、「自分が何を見えないのか」ということくらいは理解できるはずだと、できているものだと思っていた。



昆虫の見える色域というのは、人間と比べて狭いと言われている。それは簡単に言えば、蜂はたくさんの色のうち黄色と黒しか認識できないという話だ。

研究が進むうちに、実はそう単純な仕組みではなく、たとえばある種の虫たちは認識できる色こそ少ないが、彼らが見ている色は「人間には見えない色」であるということが分かってきた。それは人類種の可視域を超えた紫外線の波長であり、さらに、人間が乱暴に紫外線としてひとつに括ってしまう色を、少なくとも16種類以上に認識し分けるということも分かってきた。今や、昆虫と人間と、どちらがより目がいいのかという問いに誰も明確な答えを持っていない。


痛み、というものも、いまだ可視化されていない感覚の一つだ。

随分長い間、魚類には痛覚というものが備わっていないというのが通説だった。この説の根拠となる理屈というのも実は乱暴で、たとえば活造りなどの「人間であれば受容しきれず、当然失神するはずの痛み」を受けても動いて逃げようとするということであったり、あるいは、痛点から発生した痛みという情報を「受容できるだけの脳容量がなさそう」ということだったりする。魚に痛覚がない、という俗説の真偽は、実はまだ正確に結論が出ていない。


この手の不思議な話というのは無数にある。

例えば、脳のサイズとはちぐはぐに高性能な眼球を持つものがいる。イカだ。イカの眼球には構造上盲点が存在しないし、サイズもその肉体とは釣り合わない。簡単に言えば、イカが備えた眼球というカメラが捉えたデータの画素数は、イカの脳では扱いきれないのだ。

では、イカがその不似合いに大きな水晶体で見つめた深海の画像情報は果たしてどこに行ってしまうのだろうか。彼ら、彼女らが見つめた世界は、零れ落ちた情報信号は、どこにも到達せず、ただひたすら無為に消え続けるだけなのだろうか。

『痛み』という情報を受容して解析して認識する器官である脳。脳が未発達な個体に、何の間違いだか備わってしまったハイスペックな痛点。

不相応な痛点が、受けたダメージによって発生させた雷のような電気信号は、本来『痛み』として伝わるはずの信号は、肉体を駆け回り、そして無に消えてしまうのだろうか。



闇。それは正真正銘のまっくらだ。


現実には、私の目は何も映していない。

私はほとんど完全な暗闇の部屋の中で身じろぎをする。自分で作り上げた暗室だ。そこに不安はない。特に安心もないが、マンションの一室だ。それなりに安全ではある。

流石に厚いコンクリートは光を通さないが、金属のシャッターを閉めてその上に二重の遮光カーテンをしても、どこからか僅かだけ光が侵入する。目が醒めて間もなく、扉の形が、割合早い段階でみえてくる。

寝室以外は遮光をしていない。この暗闇を切り取る長四角の輪郭。寝室の外は、どの部屋であってもこの部屋よりは明るい。光はどこからでも侵入してくる。窓から入っては床を這い、天井に、壁に、反射してどこまでも潜ってゆく。地下室だって洞穴だって、よく見るとどこか明るい。ドアの縁の形に、光が暗闇を切り取っている。


私は、儀式のように暗闇で身支度をする。何も見ないまま髪を梳かし、服を着替えて、コンタクトレンズに付け替える。部屋中、どこに何があるのかは把握している。この暗闇はほとんど私の肉体の一部のようなものだ。私は暗闇に溶け、私を拡張する。私は、私でないものを身につけ、輪郭を手に入れて徐々に私になる。


『暗闇では、林檎は何色をしているだろうか』


いつもそのことを考える。

「色」というものは厳密には存在しない。全てのスペクトラムを含んで白色に見える光が林檎にぶつかり、林檎の表面で特定の波長だけが吸収され、林檎に同化しなかった波長が反射される。

私たちの瞳は、吸収されそこなった残り滓の光の波長を受け取ってそれを「赤」と認識する。でも本当は、林檎の色は、林檎がその身に吸収した「赤以外のすべての色」なのではないだろうか。

光のない世界では、林檎は一体何色をしているのだろうか。


私はまっくらな中で髪を結う。指先が私の肉体の形を私に伝える。私はまっくらな部屋の中で化粧をする。暗闇を切り取るうっすらとした輪郭。きちんと閉めていても、必ずどこからか忍び込んでくる日の光。

林檎が本当は何色をしているのかなんてことは人間の社会ではあまり意味がない。重要なのは、日の光の下において、どんな林檎が最もおいしそうに見えるかということだけだ。

私は闇の中で化粧を済ませ、明るい部屋で手直しをする。私は、自分が他人の目からどう見えるかを知っている。



私の仕事は結婚詐欺師だ。


正確には結婚詐欺とは違うのかもしれない。私が相手をするのは既婚者の方が多かった。むしろ既婚者の方がやりやすかったと言えるかもしれない。

遊びのつもりで私に手を伸ばす彼らは、十分なお金があって今の生活に満足しておらず、何より自分たちは与える側で奪う側であるという強烈な自負があった。大抵、強者であるという自己認識を持つ人たちは、その点だけを尊重して扱い、傷つけないようにしてやれば他のことは幾らでも、どうにでもなった。


結婚詐欺を仕事、と呼ぶのは少し違うかもしれない。私は自分のしていることが、国民の義務の一つである労働と呼ぶことには少々の抵抗がある。最近のカテゴライズに合わせるなら個人事業主と呼ぶのが相応しいのかもしれないが、勿論、きちんとした納税はしていないからやはり、仕事ではないのだろう。私という生物にできることのうち、もっとも得意なことが異性を騙すということだったのだ。


あまり派手ではいけない。地味でも良くない。だが友達がいなそうに見えるのはむしろいいことだった。目立ちすぎるのはよくない。同性に嫌われそうな方がいい。他人の悪口を言わないほうがいい。相手の価値観を劇的に変えてしまうのもよくない。感謝されすぎてもいけない。もちろん憎まれてもいけない。深酔いしてはいけない。辿れるような嘘をついてはいけない。生まれた地方の方言をつかってはいけない。生まれていない地方の方言をつかってもいけない。


私がこの数年で学んだことだ。ストイックな生活を送ることは大抵、どんな場合でも間違いがなかった。それは私の性質と相性が良かった。私には何もない。一般にいう「モテるための100箇条」のようなハウツー本も面白かったが、一番参考になったのは、いわゆる殺人鬼を描いた本だった。

私は暴力を好まないし、そもそもその素質もないと思うが、対極にあるものの振る舞いが表面上似てくるというのはとても面白いと思う。

彼らは素性を隠し、そして上手に相手を安心させる。相手が何を求めているか理解することがすべての始まりだと、その道の第一人者は言う。殺人鬼も、そして多分ビジネスパーソンという類の人たちも、そして私のような結婚詐欺師も、自分の目的を達成するために、まず他人の求めているものを満足させようとする。


結婚詐欺というのは文字通りサスティナブルではない仕事ではあるが、偽名を使い、理想的な女性を演じ、他人の心を開いてゆくのはシンプルにやり甲斐があった。私と知り合い、私を追い求めるような人たちは、不思議なことにいつだって「親しくなる相手」を求めているのに、なるべく自分の生活や経歴から離れた人たちを探していた。

自宅から遠く、仕事も、過去も、文化さえも、すべてが適度に遠くて接点のない人物を演じれば演じるほど、彼らは私に夢中になった。近づけたいのか、遠ざかりたいのか、さっぱり分からない。ひとは本当に不思議だと思う。私は、人がその時に望んでいるものをおそらくはそれなりの精度で理解できるが、なぜそれを望むのかを理解できない。だから、この仕事ができるのだろうと思う。


私がしていたのは、土地や証券など、相手の何もかもを奪うようなダイナミックな結婚詐欺とは少し違う。しばらくやっているうちに、丁度いい範囲、というのが分かるようになってきた。彼らに限らず、ひとは自身の求めているものが得られそうだと期待すると、ほとんどの場合において我慢というものが出来ない。


ひとは、その財布の厚さとは無関係に皆、孤独なのだ。



「栞さんは、本当にミステリアスだよね」


そんなお世辞を言われた私は、夜景の見える席で少し目を伏せて微笑む。

今夜、私の隣にいるのは朝ではなかった。港区在住の、本が好きな彼は、そう表現すればきっと私が喜ぶと思って私を褒めた。

正確には、彼は私をこれっぽっちもミステリアスだとは思っていない。彼は、私の反応に「ミステリー」を期待していないし、実はそのかけらも感じてすらいない。女の言動の中に理解できないことがあったら、とりあえずそうやって褒めて、おだてておけば喜ぶものだと思って疑わない。

あまり彼の内面を決めつけてしまうとかわいそうだが、しかし、彼の解像度でイメージできる若い女というのはそういうものでしかない。


彼に悪意はない。

彼らはそういう生き物だ。生まれた時からそうだったかどうかまでは分からないが、何年も生きるうちに生き方を省力することを覚え、十分それで通用する世界を生きていつのまにか「そういう生き物」になってしまった。そういう生き物だというだけで、彼は、彼らは基本的には善良で気前のいい生き物だ。


彼に限らず、ほとんどのひとは、自分の想像した通りのものを見ると喜ぶ傾向にある。彼らが欲しているのは、想像通りの「軽い逸脱」、コントロールできる範囲の「予想外」、そして許容できる範囲の「裏切り」。例外なく、人間はそうしたものを好む。未知というのは過ぎれば毒になるが、適量ならばスパイスだ。

私は、「本当の私」を理解してほしいと思っているのではない。私にもう少しだけ夢中になってほしいと思っているだけだ。私は彼らの望むものをコントロールして、適切なタイミングでサーブしてあげることができる。


私は微笑みの中に、少しだけ違和感を混ぜてみせる。

ミステリアスだと言われたい女が、一生懸命作り上げたセルフイメージを実現できた喜びではない。思ってもみなかったような意外な評価への驚きでもない。彼が理解できない色を混ぜる。それはむしろはっきり伝わらない方がいい。違和感だけでいい。


彼は、その違和感に気づくのは自分だけだと自惚れ、そしてさらに私を少しだけ理解ったような気になる。そして彼は私にもっと興味を持つ。彼が、本当にミステリアスな女を好んでいるとしたら、もう少しだけ私のことを好きになる。

謎めいた女を好む層は多い。彼らは不思議に飢えている。詮索して、謎が謎でなくなってしまうことを本能的に恐れる。彼らは解けない謎を喜ぶ。私の身体を自由にできるかどうかというのは、実はそれほど彼らの喜びとは関係がない。

彼らは私との駆け引きを楽しみ、最後はお金を持って消えてしまう私のことを「不思議な思い出」として最終的に消費する。深追いして、嘘を暴いて、悪い思い出にしてしまうよりは、私が奪った金額を「思い出の対価」として永遠に封じておきたがる。


私の仕事の本質は、彼らが本気で怒らない額がいくらなのかを見定めることだ。こいつになら、このくらいなら、あげてしまってもいいや。そう思える限度がどこなのかを探りあてること。あるいは、少しずつその枠を広げてゆくこと。


彼らは、基本的には善良だ。

私は違う。



「仕事、なにしてるの」


隣り合った席。彼は私に顔だけでなく身体の正面を向ける。私につよい興味を持ったサインだ。私は、彼が憧れて叶わなかった職業の、辺縁の職業を答えてみせる。彼はまた少し私に興味を持つ。

私は、業界人らしい小さなつまらないエピソードを披露し、その職業を少しだけ幻滅させてみせる。それは彼の叶わなかった夢を、あんなものは苦い果実だったと思いたい彼の願望を、少しだけ肯定する。彼は過去の自分の選択に自信を持つ。続けて私は現在の彼の仕事を褒めることで彼を肯定する。彼はまた少し私に好感を持つ。


繰り返しているうちに、彼はわたしのことを基準値を超えて好きになる。

そうやって何ヶ月を過ごした私は、彼が私に心の底から夢中になるよりほんの少し前に収穫に入る。


私の仕事は結婚詐欺師なのだ。



私は、善良な彼らの、完全なる破滅を特に望まない。

私は、彼らの物語の中の、エピソードのひとつをただ丁寧に完結させることを仕事にしている。対価として、少なくはない金額を持って消えるがそれ自体も一つの虚無だ。別に何かの目的のために貯蓄しているのではない。大袈裟に消費するわけでもない。私は、ただ得たものを、使いきれない財貨を、ただ溜め込むだけだ。


彼らも、そして実のところ、私でさえも、どうして私がそんなお金をもって消えるのか誰も分からない。私は昆虫たちと同じだ。イカが捨ててしまう視覚情報と同じだ。黄色と黒しか認識できない蜂たちは七色の虹が理解できない。人間は、紫外線を認識できる昆虫のことが理解できない。イカや昆虫たちにだって脳がある。受像機がある。だが、あるからといって自身が自身のことを理解しているとは、誰にも言えないのだ。


私が相手にしている彼らは大抵お金持ちだ。

彼らと比べると私は弱い。ほとんどの人と比べても、彼らは強い。

お金持ちの彼らは逆に、端金を盗んで消えるような女を喜ばない。彼らを納得させるには、ある程度は記憶に残る額であったほうがいい。そしてそれは忘れられないやり方で、なおかつ本気で激怒しないで済む程度の額であったほうがいい。

ひとは、正当な対価より少し高い額を払うことで、支払ったものがそれに見合う価値だったと思い込もうとする習性がある。

単純に奪い、盗み、掠め取るだけならもっと容易いが、私の仕事は望んで支払わせることなのだ。



そろそろ、由比ゆいあさの話に戻ろう。

朝はまだ40になっていないのに、別荘をいくつか持つ程度には裕福だった。当然のように未婚で、そして相応に頭がいい。欲望をコントロールすることが出来て、紳士らしくふるまうことが出来る。生きていれば誰からでも好かれるタイプだ。ただ、本当の彼はあまり社交的にすることを好まない。もの静かなひとだった。

私はそんな朝に大分の好感を持つようになっていた。私が彼から貰って消えるものの対価として、最も美しい記憶として私のことを思い出せるくらいの素敵な思い出を演出してやりたいというくらいには彼のことを気に入っていた。


そんな朝が、親しくなった私に持ちかけてきた話は奇妙なものだった。


よるという男性の話し相手になってほしい、というのだ。


私はどんな時も、どんな相手からも、友人に紹介されることを避けていた。これはルールの基礎と言ってもいい。交友の世界は広いようで狭い。何かの拍子で、過去の出来事が現在に繋がってしまうことを私は恐れていた。

だが、朝と出会ってから半年が経っていたとはいえ、まだ丁寧に親密さを深めているだけで、私は何も特別な行動を起こしていなかった。断るのが不自然な申し出だったというのもあったが、危険さよりも名前の対称性に対する興味が勝ってしまった。朝と夜。双子なの、と聞くと彼は笑った。そうじゃない、たまたまだよ。それを言ったら君を含めて僕たちは三つ子になってしまう。みんな年が違う。


夜。


それが偽名なのではないかと私は幾らか訝しんだ。あまりに出来すぎている話だし、そもそも夜なんて漢字は名前に使われるものだったろうか。疑ってすぐさま、ああ、小夜子、なんて名前もあったなと思い当たる。私は少なくともそれが、本当の名前であるという方向で考えた。


あさゆうよる


私は自分から朝の物語に能動的に参加したと思っていたが、そうではないのかもしれない。私は朝と会って夕という偽名を選んだ。運命、というものを私は信じないが、これまでにも奇妙な偶然というのは幾つもあった。それが本当に運命であれば、一致するのは偽名ではなく本名であるべきだという理屈が私を冷静に引き戻す。運命的な偶然は、疑うよりは、利用したほうが良い方向に働くことが多い。


もし、夜との面会で何かあったとしても、すぐさま消えてしまえばいいだけだと言い聞かせて、私は彼の頼みを受けることにした。仕事柄、消える準備だけはいつでもできているのだ。



夜は寝たきりの男性だった。


朝と一緒に訪れた霧の深い別荘で、夜はすうすうと寝息を立てていた。

見ただけで分かった。衰弱していて、おそらくは本当に病に冒されている。死期の近い人特有のにおいがした。

起こさないであげて、と朝は言う。死期は近かったが夜はまだ若い。私と同じくらいの年ではないだろうかと思った。朝と夜は血縁ではなさそうだった。どんな繋がりなのだろう。夜はむしろ、私に似ている顔立ちをしていた。夜の額にかかる髪は、少しだけ長い。私は、髪をこんなに短くしたことはない。夜と朝は、あまり似ていなかった。


私は、夜の寝台の横にある椅子で彼が起きるのを待っていた。

朝は買いだしに行くと言って出かけてしまった。車が砂利を踏んで遠ざかっていく音がする。別荘は麓の町からずいぶん遠い。

呼吸の音が変わったと思ったら、夜が起きていた。目を開けると、すこしぎょっとするくらい彼は私に似ていた。


はじめまして、と私が挨拶をすると彼はまた目を閉じた。


「夕さんだね」


夜は、声までもが私自身に似ていた。不思議なことに緊張はなかった。死期の近いひとには何種類かパターンがある。ひたすらに焦っているひと、認めたくないひと、諦めたひと。どれも表面的にはすべて似てくる。

彼らはいつも、自分の魂や、残していく友人や、去り行く世界や、とにかく何かに爪を立てて、跡を残していこうとしている。あるいは、慎重に、必要以上の跡を残さないようにしている。

どちらも、その態度は表面的には、とても似てくる。


「君、結婚詐欺をしているんだろ。朝のやつの見込みはどうだい」


急にものすごい角度で突かれて、私は声を喪った。

目まぐるしくいくつかの可能性が浮かんだ。人里離れた別荘、外は霧。買い出しに行くと言って出て行った朝。欲望の表出をコントロールできる朝。殺人鬼の手口を描いたいくつかの本。


雷鳴のように、殺されるのでは、という可能性が閃いた。


朝は本当に買い出しに行ったのか。

私が自分を騙そうとしていることを知って、先んじて制裁をくわえるつもりというのは十分合理的な推測だ。この別荘に、夜以外の誰かがいる気配はない。朝は何をしに行ったのか。誰かを迎えに行ったのかもしれない。私が過去に騙した誰かに、私を売るのではという可能性が浮かんだ。なるべくうまくやってきたつもりだが、仕事柄、恨みを買っていないと断言することはできない。


目の前の病人さえ何とかできれば、今なら森の中へ逃げることくらいは出来る。逃げ切れるかどうかは別だが、最悪の可能性、ここで殺されるよりはましだ。


だが、夜をどうにかして森に逃げるのは、私が自由意思でとった選択と呼べるのだろうか。むしろ、それは「選ばされた選択肢」ではないのか。そうするように、朝と夜に仕向けられているのではないのか。


迷う私を見てか、ふふ、と柔らかく夜は笑う。


「心配しなくていい。朝は、そのことを知らないよ。朝の他に誰もここへは来ない。あいつは本当に買い出しに行っただけだ」


夜の言葉に、さらに私は混乱する。彼は私の思考を読んでいるように、私の考えている可能性世界を的確に修正してみせた。

夜は何を、どこまで知っているのか。どうして気付かれたのか。何を求めているのか。何を推測するにも情報が足りないが、どう尋ねても私が不利になるだけだった。私が返事をできずにいると、夜は目をつぶったまま大きく息をついた。


「横になったままですまないね。目を開けていると、天井がうるさいんだ」


夜はもう一度ため息をつく。ため息ではない。それは息継ぎだった。


「おれは、もうすぐ死ぬ。脳味噌がもうそんなにたくさんの情報を処理しきれないんだ。見飽きた天井だって、見ていると疲れてしまう。もうお腹いっぱいなんだ」


夜は口元だけ、笑顔の形につりあげた。夜の唇は魅力的な形をしていた。笑ってから、彼はまた目を開けた。


「朝のいうとおり、夕さんがあんまり、おれに似ていて驚いた」


私は、ようやく自分が何ひとつ返事をしていないことに気付いた。今さらではあるが、結婚詐欺なんてしてません、と否定しておくべきかもしれない。だが、再びこちらに顔を向けた彼の表情を見て、やめた。

当て推量で、私の反応を探るために言ったのではない。夜は、鏡の中で私が私を見るのと、同じ顔をしていた。彼は、私が結婚詐欺をしていることを確信しているが、奇妙なことにそれを咎めるつもりがないようだった。


「君を呼んだのは、おれだよ。朝もそう言っただろ」


いくつもの可能性を通り過ぎ、巡り、結局初めの場所に戻ってきた。確かに朝は、夜の話し相手になってほしいと言って私を連れてきた。そこに偽りは何もない。


「朝から聞いていた通りだな。君は賢い。すぐにわかってもらえると思ってた。本当に、おれが君に会ってみたかったんだよ」


夜は抑揚のない声で呟くように言う。仕事をするときの私と同じだ。何を、どういう順番で言えばどうなるかをきちんと計算している。私はじっと彼の次の言葉を待つ。いつのまにか、凪いだ気持ちになっていた。


夜の容貌も相まって、私はまるで私自身と話をしているような気分になっていた。私が私を害することはない。不思議な一体感が私と夜の間にあった。男の人たちはほとんどの場合、あまり口にしないだけで、私にしてほしいことのリストを明確に持っている。

死を前にした「私でない私」は、私に何をしてほしいと願うのだろうか。


「私に、何をさせたいんですか」


私が訪ねると、夜はずいぶん長いこと黙ってからぽつんと言った。


「……朝に、やさしくしてやってほしいんだ」


夜の声は、長いことそのあたりを漂っているようだった。言っている意味はわかった。だが、私は返事ができない。それは予想もしていない言葉だった。

夜は、つかえていたものが取れたように続ける。


「朝はおれの話し相手にって君を連れてきただろ。おれがそう言って頼んだんだ。おれに似てる人がいる、って朝は言った。朝は、おれが死ぬ間際で絶望してると思ってる。朝はおれが頼んだら、大抵のことはしてくれる。でも、おれは朝にしてほしいことなんてない。朝に、してやりたいことがあるだけなんだ。そのために君を呼んだんだよ」


ふううう、と夜は息を長く吐く。すこし息が荒くなる。


「夕、って呼んでもいいかい。脅しつけなくても、君は理解してくれるだろ。おれはもうじき死ぬし、死ななかったとしても君に命令なんかできない。おれにできるのは、ただ、お願いすることだけなんだ」


彼は、私を監視する誰かを雇うことは出来るだろう。私が思い通りにならなかった場合に酷い目に合わせることも、殺すことだってできるだろう。だが、彼の望みが「朝にやさしくする」だった場合、どんなに手を尽くしても、私の意に背いて約束を守らせることだけはできない。

私をズタズタにすることはできても、無理やり歩かせることだけは誰にもできない。無理やり、やさしくさせることは誰にだってできない。


「夕。朝が、おれのことを忘れるまでの間でいい」


夜の目が私を捉えている。私を見ている、私の目だ。


「朝にやさしくしてやってほしいんだ」


私はようやく理解した。

朝が私に興味を持ったのは、夜に似ていたからだった。夜に似た夕。できすぎた話だが、そういうことなのだ。朝の心の中には、最初から夜がいた。私は自分が朝の好意をコントロールしていたつもりでいたが、そうではなかったのだ。

私は不意に世界の全てを理解したような気分になった。奇妙な爽快さがそこにはあった。私は、朝のことを分かったつもりでいて、何一つ分かっていなかったのだ。そこに最初にあったのは単なる偶然で、そしてその先には勘違いと思い込みだけが積まれていた。

それは雨の上がる音に似ていた。無音という音が私を包む。私は、何も分かっていなかったのだという、奇妙な開放感のある音。朝が完全な同性愛者なのかどうかは分からない。ただ、朝の一番には、偽物の夕よりずっと前から夜がいる。そこにはシンプルな、言葉遊びだけではない可笑しさがあった。


「夜、というのは本名なの?」


私が尋ねると、夜は満足したように頷いた。これだけのやり取りで疲れてしまったらしい。夜の息は細い。


「霧が、濃くなってきた音がする」


夜は目を瞑ったまま呟く。


「君が、朝に話したことを聞いたよ。魚の痛覚の話。本当の林檎の色の話。消えてしまう情報信号の話。おれも、似たことを考えたことがあるが、一度も朝に話したことはなかったな」


夜が低く、愉快そうに笑う。


「おれの方が先に、朝と話しておけばよかった」


それきり夜は喋らなくなった。



夜が死んだあと、東京で朝と何度か会った。

朝はぐずぐずと何度も泣いた。何度目かの夜、彼は、夜のことを愛していたんだと私に告白した。夜の住んでいた別荘を貰ってほしい、と彼は言った。私以外の誰にも、そこに入ってほしくないのだという。私はその申し出を丁寧に断って、その晩、彼が泥酔するまで酒を飲ませた。


私は彼を背負って、まだ誰も入れたことのない自分の部屋に連れて帰った。


私は、私のまっくらな寝室に彼を横たえた。扉を閉めると、音さえも消えた気がした。私たちの性能の悪い目では、夜に忍び込むわずかな光を捉えることはできない。ここには、事実上、完全な闇がある。私は、しんとした夜の底に彼を置き、そして彼の隣に滑り込んだ。


彼は目を覚ましたようだった。

間近で私が名前を呼ぶと、彼は戸惑ったようだった。私は暗闇に溶けて、暗闇そのものになっていた。私は、どこにでもいて、どこにもいない。朝という異物もまた、この闇の中では私の一部になっている。


「朝」


私は彼を呼んだ。夜の声だ、と朝がめそめそと泣いた。

何も見えなくても、確かに何かがここにあるね。私は朝の髪を撫でた。暗闇で林檎は何色をしているんだろうね。朝がぼろぼろと泣いているのが分かった。

私は朝をどうしたいのだろう。

多分、私には人の心を感じるセンサーがない。壊れているのではなくて、もともとないのだ。私の中にも本当は、朝を憐れむような気持があるのだろうか。夜を妬む気持ちがあるのだろうか。喪われたものを悲しむ気持ちがあるのだろうか。夜と朝に共感するような気持があるのだろうか。夜は死んだが、朝はまだ夜を忘れていない。それは愛情と呼ぶべきものなのだろうか。

それらのすべては、私が受像するかどうかとは別に、この部屋の中に生まれて、そして、私の表面をなぞって消えていくのだろうか。この寝室の中で、朝だけが爆発する電気信号の、その痛みを受けて、気絶することもできず、つらさに泣いているのだろうか。私が感じることが出来なくても、朝が受け取ることが出来なくても、やさしさはこの部屋の中にあるのだろうか。やさしさがあるとしたら何色をしているのだろうか。


「朝が望むなら、朝は私と結婚することが出来るよ」


私の仕事は結婚詐欺師だ。私にできることはそれくらいしかない。

朝は私の腕の中で、何度か首を振った。そうだよな、と私は思った。これは私にとっても嘘だし、朝にとっても嘘だ。そこには何もない。

ただ、夜だけがあると私は思った。


ここには誰にも見えないが、確かに夜だけがあった。

私はもう一度、朝の髪を撫でた。おれだよ、夜だよ。私はもう一度嘘をついた。

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