隣の音〜隣人に起きた出来事〜

コータ

新しいマンション

 俺が借りていたマンションは駅から徒歩10分。家賃もお手軽ということで契約したんだが、実際にはどう歩いても徒歩10分ではなかった。


 時計で測ってみたところ、どんなに早く歩いても20分はかかる距離な上に、壁は薄くて虫も出る。賃料の割には二年毎の更新費も高い。俺は妥協した自分がつい嫌になってしまう。


 しかし、それでも他のマンションやアパートに比べたらマシではあったので、しかたなく住むことを決めた。アルバイトで給料も安かった俺にしてみれば、むしろ有難いほうだ。


 もう三十歳が迫っているけれど、特に将来に明るい展望があるわけではない。大学生の頃から今までバンド活動を続けていて、いつかはそれで有名になっていくはずだった。


 だが、現実っていうものの厳しさに気づくのが遅すぎたようだ。バンドのリーダーから解散の相談をされた時、俺はただ呆然とみんなの話し合いを聞いているだけだった。


 いつも誰かに誘われて、誰かに付き合って時間を浪費してきた。だからなのか、今になって自らの中身が空っぽのように感じるのは。


 だが、これはやはり俺自身の問題であり、他の誰も悪かったとは言えないことだ。その事実が尚更苦しくて、逃げるように新しい土地と新しい出会いを求めた。


 大学時代、高校、中学……当然小学校もだが、それぞれいた友達とはもう連絡をとっていない。こんな自分を知られることが、なんとなく怖かった。二十代全般までとは大きく変わり、どんどん自分が内向的になっていくのがわかる。


 でも俺はまだやれる。ここからだって人生はやり直していけるんだ。


 気持ちを鼓舞して新しいバイト先で仕事をしながら、家に帰ればIT関係の資格を取るために勉強を続ける。


 頑張ればきっとなんとかなるはずだと、夜遅くまで勉強する毎日が続いていた。


 でも、ここでも苦難は訪れる。それは俺の部屋の隣に住んでいる男のことだった。


 たまにゴミ出しとかですれ違うことはあるものの、挨拶すらちゃんとしたことはない。多分俺より二、三歳ほど年下の顎髭を整えた男。バンド活動をしてるとけっこういたタイプで、やはり想像通りの男だった。


 多分俺と同じくどこかでバイトしてるんだろう。夜遅くに帰ってきては、酔っ払っているのかかなりうるさい音を立てながら電子レンジで温めた何かを食べ、テレビを大音量で流している。


 深夜の時間帯になれば俺も眠っているんだが、どうしてもうるさくて起きてしまう。しかも、それなりにモテるのかは知らないが、女を連れ込んでくることもしょっちゅうだった。とても言い難いアレな声がよく聞こえてくるので、うるさいと思う気持ちと嫉妬が混ざり合ってとにかく嫌だった。


 まあ、こういうものに嫉妬してしまうのも俺が悪いという話なのだが。実は今まで、彼女の一人もいたことがなく、それがまたコンプレックスでもあったのだ。


 そんな毎日だったから、徐々にストレスが溜まっていく。発散の仕方なんて見つからなくて、ただ静寂を求めるようになっていった。


 しかも隣の男は、ゴミ出しのマナーが悪かったり隣人と喧嘩していたり、誰かと電話で口論していたりとトラブルが絶えなかった(俺は関わりたくないので、とにかく我慢していた)


 そしてある時、「俺は悪くねえよ! 全部お前が悪いんだろうが!」と過去最高に怒鳴り散らかしていたこともある。


 マンションの管理会社に相談してみたが、話をしてみると返事があっても特に動きはない。いい加減なものだと苛立ちつつも、我慢するしかないよなと自分に言い聞かせる。そんな毎日だった。


 ゴールデンウィークに入った時、隣の男はしばらく家を留守にしていた。俺は久しぶりに訪れた静けさが嬉しかった。深夜になり、ただ普通にベッドに入って休めることがどれだけ幸せなんだと痛感していた。


 喜びに浸りながら、スマホでSNSを眺める。どうせほとんど誰も反応しない呟きでも投稿しようかと思っていた時だった。


 何かが聞こえる。どう表現していいのか悩んでしまうが、フウウ……という感じの若干響くような音だ。それは最初空気の音とか、外でいくつもある騒音の一つではないかと思っていた。


 最初の頃はその音を特別気にはしていなかった。隣の男が騒ぐ声に比べたらどうってことはない。次の日も、その次の日も音は続いた。気がつけば毎日深夜になるとその音は必ず聞こえてくる。俺はだんだん気になってきた。


 ある時、その音が少しずつ大きくなっているような気がして、部屋の中を見てまわったこともある。もしかしたら部屋の中に何か欠陥があったりして、それで音がするのかもしれない。でも何も見つかりはしなかった。


 部屋の外や、家の外を見回ったこともあるけれど、音は聞こえない。なぜか俺の部屋の中でだけするようなのだ。


 やがてゴールデンウィークが終わり、隣のドアが開かれて強く閉じる音がした。ああ、帰ってきちゃったかと心の底から残念な気分になる。コンビニのバイトが終わり、勉強をしている最中だった。その勉強でさえ躓き始めていた時だったから、ますます憂鬱な気分になる。


 とにかく奴のことを気にすることはやめよう。そして、あの音も結局は正体がわからないけれど、多分無視していれば自然と解決するはずだ。心の中で言い聞かせつつ、俺はまた勉強を続ける。スマホにチャットが届いていて、みるとバンドリーダーからの『解散決定』のお知らせだった。


 あーあ、やっぱり終わっちまったか。


 また勉強をする気が削がれてきたので、いつもより早く終えてシャワーを浴び、電気を消してベッドに逃げ込む。俺の生活はもしかしたら、このままジリジリと崖に追い詰められているのかもしれない。


 現実的な予想が頭を過って憂鬱さが増してくる。でも、一つ奇妙なことに気がついた。隣の男は何か大声をあげて騒ぐでもなく、静かにゴソゴソと物音を立てているだけだったのだ。


 なんか変だなと思った。暗闇の中で、俺は気づけば隣人の音に耳を澄ませていた。その時、またあの変な音が響き始める。


 隣から男が動く音が消え、あの音だけがずっと聞こえ続けていた。ただ、この日はその音でさえも変化があった。


 何か風が吹いているような音ではなく、ややもすると人の声のような感じがしたんだ。一定間隔で風が吹くように続く音は、徐々に人間の発声めいたものに変わる。


 これ……もしかして若い女の声かな。俺は毎日聞こえていた音の変化に戸惑いつつ、背筋が冷たくなってきた。どうしてここまで気味が悪い声なのだろう。一体何を喋っているのだろう。なぜ隣の人は今日、こんなにも静かにしているのか。


 あらゆる疑問が頭を渦巻く中、思考が一気に消しとばされる事態が起こった。隣の部屋から、男の絶叫が鳴り響いたからだ。今までの人生で、こうも絶望的な悲鳴を聞いたのは初めてで、心の奥が急激に締めつけられる。


 俺は驚いて掛け布団をどかして上体を起こした。男の怯えた声が聞こえるが、何を喋っているのかは分からない。奇妙な音は低音になっていたが、やはり女が何かを言っているように聞こえる。しかし、どちらも徐々に囁き程度の音量になり、詳細は分からなかった。


 しばらくして、隣の部屋からは一切の音がなくなっていた。混乱していた俺も、結局何もできないので、その日は眠ることにした。でもガタガタと体全身が震えてしまって、気づけば朝まで起きていた。


 一睡もしないでバイトに向かったので、仕事場のコンビニでは何度かミスをしてしまい、店長から怒られてしまう。メンタルが強いとは言えない俺は落ち込み、また真っ直ぐに唯一の居場所であるマンションに戻った。


 だが、そこで思いも寄らない光景が待っていたのだ。俺の部屋の隣に黄色いテーブが貼られ、大勢の警察関係の人達が中に入っている。鑑識だっけ? よく分からないけど、大家さんが近くで見ていたので聞いてみた。もう六十歳近いおばさんだ。


「ここを借りてた人がね、亡くなっていたらしいのよ。お友達が鍵が開いてたから中に入ったら、もう息してなかったらしいの」


 俺は衝撃で頭の中が真っ白になった。あの時の絶叫、低音の奇妙な声、あれらが関係あったんじゃないか。恐怖で顔が引き攣ってしまう。警察の人がやってきて、隣人である俺にいろいろと質問をしてきた。正直に聞こえた絶叫のことを話すと、彼らは長い時間にわたって詳細を聞取してくる。


 こんな経験は初めてだったので、俺はしどろもどろになりながらも、とにかく知っていることを正直に話した。でも、あの奇妙な音については、どうもリアクションが薄いというか。特に重要な情報でもないと思ったのだろう。


 男が住んでいた部屋の壁に、赤いものが点々とついていたことを覚えている。多分あの男の血だったんだろうけど……何をしたらあそこまで飛び散るのか不思議でならなかった。


 その後二週間ほどは落ち着きのない日々が続く。警察の人が何度かやってきては、うんざりするほど同じ質問をすることにイラついていた。大家さんもたまに様子を見にきてくれるが、「ごめんねえ」と気遣われるだけ。


「まさかこんなひどい事件が起きるなんてね。しかもあの部屋なんて、意外だったわ。怖い……ああ怖い」


 大家さんは時折本気で怯えているようだった。無理もない。血塗れの死体なんて見ちゃったんだから。


 ◇


 二週間が過ぎて、ようやく俺は日常を取り戻したようだった。コンビニのバイトも要領を覚えてきて順調にこなせるようになったし、資格取得の勉強だって調子を取り戻している。


 無言でパソコンのキーボードを叩き続けているうちに、ふと画面右下の時計を見れば一時になっていた。


「ヤッベ。明日も早いし、寝なきゃ」


 俺はすぐに消灯してベッドに入った。実はバイト先で知り合った連中と仲良くなり、明日のバイト後に飲みに行く約束になっている。ちょっとずつだけど、新しい人生が動き始めている実感があった。


 しかし、そんな僅かな希望すら黒く塗りつぶしてしまうことが起きた。


 フウウ……フウウウ……。


 思わず目を見開いていた。すぐに夢の中に入りそうだった意識が覚醒し、一気に額に汗が浮かんだ。あの時、隣の男が死んだ日に鳴っていた音がする。


 部屋の中は真っ暗だった。また隣の部屋からしている音なのだろうか。しかし、二週間前まで頻繁に聞こえていたあの音とは、何かが違っている。


 フゥウ……うううう……。


 音が変化していた。まるで女のうめき声そのものだ。苦しくて堪らないのか、何かを堪えているかのよう。俺はまるで全身が氷水に浸かったかのように冷たく感じた。心臓の音が跳ね上がっている。


 一つ、二週間前とは違うことがある。それは、この呻くような声が隣からではなく、恐らくは……自分の部屋から聞こえているということだ。


 ベッドは右側の壁にほぼくっつけている。もし、招かれざる侵入者がこの部屋にいるとするのなら、きっと俺から見て左にいるはずだ。でも、視線を向けることが怖くて堪らない。


 この時まで、心霊現象や超常現象という類を俺は信じずに生きてきた。なのに一瞬で信じてしまわずにはいられない。見てはいけない。視界にうっすらと映る服を。青白い顔を。異常なほどに大きな眼を。


「ひ、ひぃ」


 生まれて今まで、こんなに情けない声を発したのは初めてだった。意識せずに自然と漏れていたのだ。


 逃げることもできず、必死になって掛け布団に潜り込む。玄関ドアは左側の少し先にある。つまり奴の目前まで近づかなくてはならなかった。そんなことはできない。


 ガタガタと震える体に言い聞かせる。奴はきっと消える。すぐに消える。それまで待つしかない。布団からは絶対出てはいけない。


 すると、うめき声が徐々に大きくなってきた。まるで獲物を前にした猛獣かと思うほど、強烈な執念……いや怨念を感じる。冷気のような何かが迫ってくるのを感じた。凍えそうなほど寒い。


 もしかしたら、この女は俺を狙っているのか。殺す気なのか。きっとそうだ。怖い、怖い、怖い。


 どれだけの時間が経ったのだろう。布団にくるまる肩に、じんわりと熱い何かが触れたような気がした。俺はビクリと震え、また情けない悲鳴が口から漏れる。ありったけの力を込めて布団を掴む。


 うううぅ……うううう………。


 俺は発狂しそうになった。声はすぐそこから聞こえる。俺の耳に直接口を当てて聞かせているのではないかと思うほど、はっきりと大きく。怒りを溜め込んだような声が、何度も何度も聞こえてきた。


 気が狂いそうになる。俺はこのまま殺されてしまうのか。なんでこんな目に遭うんだよ。誰を恨むでもなく、ただ死にたくないという気持ちで頭がいっぱいだった。


 何秒、何分。いや何時間か。時がどう流れたのかさえ定かではない。しかし、俺はふと気づいた。呻き声が消えている。気配が無くなっている。何度も躊躇ったが、それでも勇気を振り絞り布団から顔を出した。


 誰もいない。確かにあの女は消えていた。


 ◇


 次の日、俺は大家さんにすぐ事情を報告しに行った。こんなことを言っても信じてもらえないだろう、なんて思いもしたけれど、話を聞いてくれそうなのはあの人だけだった。


 すると、大家さんは予想とは違う反応をする。


「そうか。やっぱりねえ。アンタの所に出るなら、まあ分かるわ」

「……へ? それってどういうことですか?」


 どうやら大家さんが言うには、俺が借りている部屋で昔自殺をした女がいたらしい。その女はある男を好きになったが、不倫相手として遊ばれた挙句捨てられてしまい、最終的に部屋で死んだという噂が流れていた。二十年も前のことらしい。


 俺は最初こそ冷静に話を聞いていたが、途中から我慢ならなくなって怒鳴ってしまった。事故物件だと聞いていれば、住んだりしなかったのに。


 すぐにその部屋から引っ越して、今は違う地区のマンションに住んでいる。ここならバイト先も以前より近くなったし、生活にはきっと困らないだろう。


 最近では少しずつ新しい友人もできて、気になる女もいる。これでやっと新しい生活を満喫できるのかと思うと、なんだか苦労して良かったという気持ちになる。


 昨日もまた新しい女の子と知り合った。俺の人生は確実に変わってきている。

 間違いなく、そのはずだったんだ。


 だから……だからこそ信じたくないんだ。もう終わったはずじゃないのか。新しいマンションに住んだのだから、もう関係ないはずだろ。


 また聞こえるんだ……あの音が。そして、ベッドに隠れていた俺は、今度こそ逃げることができないことに気づいてしまった。


 血で染まった服は泥にも塗れている。黒い髪はまるで長い間脂を被り続けていたようだ。大きな白目が、今俺をじっと見つめている。

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