隣人

浅川さん

隣人

 私が住んでいるマンションの向かいには2階建てのアパートが立っていて、そこに●●さんが引っ越してきたのは3カ月ほど前だった。


 わたしはマンションの2階に住んでいて彼女の部屋のちょうど真向かいに当たり、我が家のベランダとお向かいの玄関と2階の窓が面している。

 彼女が引っ越してきた日、私はベランダで洗濯物を干していたのでたまたま彼女と目があった。

 目があってしまったのに無視するのも失礼かと思い、私は「こんにちは」と挨拶をした。

 ●●さんは少し驚いたような風にあとずさり、会釈をして家の中に消えていった。


 それから3カ月、私は彼女の姿を見なかった。天気が良い日はベランダに洗濯物を干したりしたが、別に彼女を意識しているわけではなかったし、探してもいなかったのだから当然のことだ。

 しかし、このころから少しおかしなことが起こり始める。

 私の家の玄関に生卵が投げつけられていた。

 ●●さんの隣の部屋に住んでいた人が引っ越して、両隣が空き部屋となった。

 私の部屋のベランダに謎の紙ゴミが投げ捨てられていた。

 以上3つについて因果関係は不明だが、どうにもおかしい。

 生卵とゴミの投げ入れについては普通に犯罪行為だと思ったので管理会社と警察に通報したが、警察としては「被害が出ていない」ため対応できないとのこと。清掃で解決出来ることは被害に当たらないらしい。

 管理会社としては、監視カメラの設置しかできないとのことだった。


 そんなある日、警察が私の家を訪ねてきた。

「あなたが向かいのお部屋をのぞいていると、向かいの方から通報がありました」

 今日は確かに一度ベランダに出ているが、ただタバコを吸っていただけだ。別に●●さんを意識したつもりはない。

 私が警官にそう伝えると、警官は「わかりますよ。あなたが覗いていたとは思っていません」と言った。どうやらこういった通報は初めてではないらしく、私が住んでいるマンションの他の部屋に対してもよく通報しているとのことだった。

 警官は申し訳なさそうな表情で続けた。

「状況は把握していますが、現状では警察としては対応できません。なので、今後カーテンを開けたり、ベランダに出るのはなるべく避けた方が良いと思います」

「なるほど」

 他に言うことが思いつかなかった。

 それからしばらくはカーテンも窓も締め切って暮らした。

 もとからそれほど窓を開けていなかったのでそれほど不便でもないが、開けるなと言われると不自由さを感じてしまう。


 私はよく晴れた日に一度カーテンを開けてみた。

 たまには日光を浴びて部屋の換気もしたかったのだ。

 晴れた日にカーテンを開けるのは普通だ。

 何もおかしくはない。


 しかし、私がカーテンを開けた瞬間、バシーンと凄い音がして、●●さんの家の窓が空いた。


 ●●さんが凄い形相で私を見ていた。何か言っているが聞き取れない。私はカーテンをすぐに閉めた。窓に何か当たった音がした。生卵だ。


 その後、私が呼んだ警官になだめられて●●さんは静かになった。


 その日の夜、私は部屋の電気を消して暗くしてからカーテンを数センチ開けて、隙間から●●さんの家を確認した。

 ●●さんの部屋は電気がついているようだ。明かりがカーテン越しに漏れている。そして


 カーテンに黒い人影が浮かんでいた。


 その人影をよく見る。よく目を凝らすと、向こうもカーテンにわずかに隙間が空いていて、それを手で抑えているのが月明りに照らされて見えた。


 こちらを見ているのだ。

 おそらく以前からずっと。


 私が気がついついないだけでこれまでもずっと見られていた。

 だからこそ私がカーテンを開けた瞬間に彼女は反応したのだ。



 私はカーテンを動かさないようにそっと閉じた。

 背中に刃物を押し付けられるような冷たい恐怖。

 叫びそうになるのを抑える。

 あれは化物だ。もう駄目だ。

 私は引っ越すことにした。


 引っ越し先を探し始めて数日が立った頃、再び警官が訪ねてきた。だが、あの時の警官とは別の人だった。

「向かいに住んでいた方が失踪されてしまったのですが、以前あなた方とトラブルになったことがあると聞きまして。何かご存知ではないですか」

 愕然とした。●●さんが失踪?

「……………いえ、何も」

 そう答えるのがやっとだった。

「……そうですか。何かあれば署までご連絡ください」

「……はい」

 これで終わるのだろうか。

 いや、そんなはずはない。彼女がそんなに簡単に諦めたり逃げたりするはずないのだ。

 彼女は今まで自宅に籠もり、自宅からこちらを監視していた。それはつまり、彼女の家に近づかなければ安全ということ。しかし、もうその制約はない。

 彼女はどこにでも現れる。


 私はそれから引きこもるようになった。あらゆる隙間が怖くなりガムテープで隙間を塞いだ。


 やむを得ず外出するときも誰かに監視されている気がする。街を歩いても見られているようだ。

 女性を見ると彼女に見えてしまう。人と目があうと悲鳴が出そうになる。

 町中の広告やポストに入れられたチラシさえ悪意を感じる。

 皆敵だ。味方なんていない。


 私は電車に乗ろうとしていた。

 ここではない遠くに行くために。ホームの最前列に並ぶ。

 もうすぐ電車がくる。早く乗らなきゃ。

 その時、腕を掴まれた。ゾッとして振り返ると●●さんがいた。


「み つ け た」






 その後のことはよく覚えていない。

 見せられた防犯カメラの映像には、私がホームに落ちそうになっているのを止めようとして私の腕を掴んだ男性を、私がホームから突き落とす瞬間が映っていた。

 直後に電車が駅を通過している。快速電車だった。

 男性は亡くなったらしい。

 映像の中には彼女は現れない。

 警察からは「現場に●●という女性はいなかった」と言われた。

 全て私の妄想だったのだろうか。

 わからない。


 全てわからなくなってしまった。

 でも一つだけわかる。


 私はきっと、これからも隣人からは逃げられない。

 そして、私も誰かの隣人なのだ。


 完

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隣人 浅川さん @asakawa3

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