3話

 日が陰り、影が長く伸びていた。机を挟んだ課長は嫌々というように首を傾げながら、一枚一枚書類をじっくりと検分して、

「なるほど、ありがとうございます。ですがもう一点、お話し忘れていた件が」

「……まだなにか?」

 棗が凄むのに、役人はまた前回と同じく、いやらしい微笑を貼り付けながら、

「実はですね、こちらの申請書類だと受けられないので、こちらと致しましては……」

「では、こちらを使っていただければ?」

 素知らぬ顔で取り出した 役人はぎょっとした顔で申請書を、それから棗を見た。

 棗はにこやかに、

「そちらで間違いないですね? ええ、なにせあらかじめ『ヨコハマ公安部』と書いてありますから? お分かりですよね?」

 役人は何か口の中でもごもごと言いかけた。棗は畳み掛けるように、

「もう一点申し上げておきますよ、情報公開請求はしてありますので。これが今現在の様式と違うかどうかは、すぐわかる話です」

「いや、はい……お見込みの通りで……」

 額から噴き出した汗を拭うのも忘れ狼狽する役人の後ろ、早乙女がしたり顔でうなずいていた。けれどすぐにその表情は鋭く、元に戻った。

 棗は誇らしげに胸を張って、

「では、これで。よろしくお願いします」

 役人は何も言わず、背を向けて奥へ入っていった。噛みつきそうな目をしているのが棗からも見えて、ひそかにほくそ笑んだ。

 それと入れ替わるように出てきた早乙女が小声で、

「うまいことやったな。だがこれからが大変だぜ。裏から出ろ」

「どうして私が……」

 言い終わらないうちに早乙女が胸ぐらを掴んだ。激情に裂いた眦で、彼女は喉を潰すほど押し殺した声で言った。

「強情もその辺にしろ。あたしはあんたが消し炭になったところも肉になるところも見たくねえ。たまには勝率の高い方を選びやがれ!」

 棗の考えを変えるには十分な剣幕だった。慌ててジュラルミンケースをひっつかみ、早く、と早乙女の手招きする方へ向かった。職員用のエレベーターがあった。

 早乙女は荷物のように棗を押し込むと、

「どうやって来た?」

「車で、下にいるから……」

「じゃあ真っ直ぐ地下鉄の駅に向かえ。兵隊はどれだけいる?」

「送ってもらったのが2人、他は5人、街の入り口にはいるはず。余計な諍いを起こさないようにって……」

「お上品かよ……! 2人は諦めろ!」

「なんですって!?」

 扉が動き出す。早乙女はその隙間から最後、

「いいか、真っ直ぐ行けよ! 何があっても!」

 ドアが悲鳴のような音を立てて閉まり、棗はひとり、狭い箱の中に取り残された。

 誰もいない。誰も守ってくれない。そう思った瞬間、心臓が強く跳ねるのを感じた。棗は懐にあるあのテーザーを、お守りのように握りしめた。

 一階に彼女が着いたと同時、エントランスのほうで火薬の爆ぜる音がした。はっとして棗は振り返った。クラッカーのような発砲音は、あまりにも軽い殺意の音だった。

「嘘でしょう、そんな……!」

 いや。事実だ。人が死んだ。私が巻き込んだ。本来なら五月台重工の施設警備程度だというのに、私が頼んで、だから死んだ。早乙女の見せた、あの死体とも呼べないような写真がフラッシュバックし眼前に叩きつけられた。

 わかっているつもりで、結局は甘かったのだと、棗はいまさらのように思い知った。まさか公安部で殺しをやるだなんて。もし、自分が早乙女の言葉を聞かなかったら。

 全身をぞわり、と寒気が貫いた。

 棗は平衡を失いかけた。車椅子の上だというのに。ぐらりと上体が前に倒れかけ、慌てて肘置きを掴む。

「落ち着け!」

 棗は自分で頬を張った。痛みが正気を取り戻させた。はっ、とひとつ強く息を吐いた。

 右手を滑らせクラッチを入れ、さらに取り付けたギアを 電動走行の最速にシフトする。それでも普通人の駆け足ほどの速さしかないことが、棗を焦らせた。

 自分で何ひとつ動いていないくせに息が上がった。ノコギリを挽くようなくタイヤの音が反響して、それに気づいたマフィアたちが今にも追ってくるような気がしていた。

 やがて廊下の先、薄っぺらいアルミの扉が見えた。棗は肩から体当りするようにして飛び出し、そこで自分の過ちを悟った。

 その先はぬかるんだ坂だった。棗は咄嗟にブレーキを引き、それこそが失敗だった。車輪が泥に取られる、スピンする。声にならぬ悲鳴が上がった。身体が宙に浮く。全てがスローモーションに見えて。

 棗は肩から落ちていった。したたかに叩きつけられ、息が止まりかける。動けないでいると、鞄が脇に落ちてきてグシャリと鈍い音を立てた。

 彼方で銃声が聞こえた。先の散発的なそれではなく、殲滅戦の最中を思わせる嵐のような音だった。逃げなきゃ。棗は呻いた。

 腕で身体を起こし、重い肉を引きずって車椅子のほうへ棗は這う。泥に塗れた顔が、身体を千切るような痛みと苛立ちに歪んだ。

 けれど。すぐに、その目は大きく見開かれた。

 車椅子を挟んで向かいから、歩いてくる男がいた。カーキのブルゾンを羽織り、ジーンズは警戒するような服装ではない。それに顔も隠さない、特徴のない男。

 それが。ここヨコハマに限ってはあまりに綺麗すぎた。

 公安? だとすればすぐに棗に声をかけてくるはずだ。こちらには気づいている。視線が合う、男は、にやりと笑って車椅子の背に手をかけた。

「生きたまま連れていくと、200万だ」

 棗は太腿の後ろに手を伸ばし、それに触れた。仕込まれたモーターが低い音を立てる。「余計な真似すんじゃねえぞ!」と凄んだ男には怯まなかった。向けられた銃口さえ気にはしなかった。

 棗の下肢が地を蹴った。脚を換装した機関義肢が起動したのだった。

 フードの男は「なに!?」と面食らったが、行動は冷静に引き金を引いた。弾丸は足に当たり、金属の、あの甲高い音を立てた。すかさず棗は横の路地へ逃げ込んだ。

 振り返らず駆けた。どこをどう走ったかは記憶にない。ゴミ箱をなぎ倒し水たまりを飛び越え、息の切れるまで兎のように走った。

 行き着いたのは、袋小路だった。三方を雑居ビルに囲まれた、どことも知れない場所だった。男が、にやつきながら歩いてくる。ヨコハマの地理に明るくない棗が追い詰められるのは必然だった。主導権などなかったんだ、と棗は今さらのように気づいた。

 「手こずらせやがって」と男が憎々しげに吐き捨てる、その手にはいつか棗の使ったテーザーがある。「お前さんにはこっちのほうが効くみてえだな?」

 棗は、死より最悪な結末を見た。蹂躙。人としては死ねない最期。

 指先が意識とは別に震えていた。歯の根も噛み合わなかった。それでも棗は、男の指先に集中していた。背後の壁と距離を計る、機関義肢の敏捷と跳躍力なら、勝機はあると。

 男が、ふっと息を吐く、刹那に棗は身構えた、その時。

 パン、と。路地裏に、火薬の炸裂する音が響いた。ひょろりと長い身体が、膝から崩折れていった。その向こうには早乙女がいて、銃口からはまだ煙が上がっていた。

 あ、と棗は声を上げかけた。早乙女はなお二発、倒れた男に弾を叩き込むと、ずかずかと近寄ってきて、

「おいコラ! 真っ直ぐ行けって言ったろうが!」

「読まれてたのよバカ!」

 早乙女は歯をむき出しにして睨みながら、

「ち、そういうことか。しっかしひでえ顔してやがる。コケたか?」

 「うるさいわね!」と棗は照れ隠しに怒鳴って、頬を拭う早乙女の手のひらを払った。「なんでここがわかったのよ!」

「勘と読みの両方。しっかし」と早乙女は乱れた前髪をかき上げつつ、「機関義肢とはねえ。よくも騙しやがって」

「なによ、言わなかっただけじゃない」

「は、それを騙したっつーんだよ。車のドアぶっ壊れてたのは、あんたが蹴り開けたからだな?」

「そうよ。それに電動車椅子なんて使ってる時点で察しなさいよ」

「なに?」

「どっかで故障したらお手上げでしょうが! そういうことよ!」

 ふざけやがって、と早乙女は吐き捨てながら笑った。気持ちよさそうな笑みだった。

 だがそれも、どこからか聞こえてきた怒声でかき消えた。ち、と早乙女は舌打ちして銃を構え、

「生憎とおしゃべりの時間はないみてえだ。ついて来い!」

 駆け出す背中を追う、その前に棗の視線がちらと足元に流れた。血溜まりに沈んだ男の死体は、驚愕に目を見開いたままだった。あれが自分だったかもしれない、と棗は思った。

「行くぞ! もたもたすんな!」

 早乙女が路地の入口で怒鳴っている。棗は振り切るように目を背け、駆け出した。


 角から通りを覗き込んだ早乙女が首を横に振った。

「ダメだ。ちと遅かったらしい」

 倣って棗も目だけでそちらを見やると、トラックが道の真ん中に鎮座していた。荷台には重機関銃が据えられていて、いかにもというタンクトップの男たちがその脇で銃を片手に周囲に目を配っている。

「脇を抜けられないかしら?」

「そりゃ無茶ってもんだ。穴開きチーズは勘弁」

 でしょうね、と棗もため息をついた。駅までは直線で100m程度。ここを突破できれば、という交差点だが、それはあちらも察している。戻るぞ、と早乙女が顎で後ろのほうを指し、二人は頭を低くして引き返した。

 棗は悔しそうに、

「駅の方は手薄じゃなかったの?」

「タマとの境、30人は集まってちょっとした抗争みたいになってんぜ。ただ今は撃ち合いまでにはなってないらしいが」

 冗談でしょ、という棗の呟きは霧散した。早乙女の沈黙がなにより雄弁に語っていた。どうする、と暗い瞳が訊いていた。

 棗は苛々と爪を噛んで、

「ここ以外に当てはあるの?」

「海って手もあったんだが」

「機関義肢じゃ無理でしょう!」

「こんなところで重りになるたぁねえ」早乙女は低い声で毒づいた。「あれだ、船ってのはどうだい」

「どこに行くってのよ?」

「オーストラリア」

「なに、逃避行からハネムーンとでも洒落込むつもり?」

 棗は呆れた顔で、

「遠すぎるでしょ、私の仕事はどうなるのよ」

「2、3ヶ月はいいだろ」

「……考えとくわ」と

 と棗が鷹揚に答えた時、背中で布袋が投げられたような音がした。

 早乙女が叫んだ。

「バカ、後ろ!」

 だが棗の振り返るより早く、眼前には鉄パイプがあった。咄嗟に頭を守ったのは本能だった。立ち木をへし折るような音がした。気が遠くなり、棗はそのままよろめいて倒れ込んだ。

 代わりに反応したのは早乙女だった。すかさず横蹴りを叩き込むと、パイプはいとも簡単にひしゃげた。パーカーをフードまで被ったその男は、すかさず得物をナイフに切り替えた。

 早乙女はふてぶてしくも微笑した。男の顔色が変わり、豹めいた敏捷さで飛びかかった。

 銀光が煌めく。一閃、喉を抉るような刺突を早乙女は軽やかに躱した。一息で5メートルは跳んでいた。

 互いに銃を使えば一瞬でケリがつくはずだった。だが早乙女は気取られるのを恐れたし、男は200万をひとりで懐に入れたかった。

「欲に目が眩んでやがる」早乙女が獣のように身を屈めた。「相手は見たほうがいいぜ」

 男が地を蹴って斬りかかった。今度は横薙ぎだった。その体捌きもやはり、機関義肢を使う者のそれだった。

 早乙女はそれを皮一枚で避ける。同時、身を翻したかと思うと彼女の右足が閃いた。ガラスの砕けるような音がして、男の持つナイフが吹き飛ぶ。

 そこからは乱戦になった。至近で二人がぶつかり合った。何度も金属の鈍い音がした。

 棗はそれを霞んだ目で眺めていた。腕が思うように動かなかった。左は絶対に折れたと確信していた。右手で銃把を握り、セイフティを外し、けれど交錯する両者の動きに狙いがつけられなかった。

 だが、援護の必要はなかった。決着は突然についた。

 男が焦ったのか、がむしゃらに殴りかかった、それを早乙女が上段に受け止めて懐に潜り込む。競り上がるような肘打ちが息のかかるほどの距離で走り、鈍い音がした。男の上体がのけぞった。千鳥足のように足がふらつき、そのまま崩れ落ちた。しばらくして男がうめきはじめた。

 早乙女は「さあ、ずらかるぞ」と棗に駆け寄ってきて手を差し出し、「まあざっとこんなもんだ。長らくこういう仕事をしてりゃ……」

 破裂音がした。早乙女の後ろだった。台詞が千切られたように途切れた。ぐらりと、長身が揺らいだ。

 棗は叫んだ。右手を目一杯伸ばした。引き金を引いた。はっきりも見えない相手にありったけの鉛玉を叩き込んだ。

「早乙女っ、あなた……!」

「は、心配すんな。かすり傷だ……」

 早乙女はそう軽口を叩きながら咳き込んだ。路面に、鮮血が無造作に散った。

 遠くで怒声がする。追いかけてくるような、トラックの獣じみたエンジン音。

 どうする、と棗がパニックに陥りかけたとき、「そこだ……」と早乙女が廃墟の入口を指した。「叩き割ってくれ……」

 鎖のかかった扉を蹴り開け、二人は雨を避けるように転がり込んだ。

 這うようにして物陰に座り込むなり、早乙女は喘ぐように、

「煙草、とってくれ……右に……」

「こ、こんなときに!」

「だからさ……」

 棗は一瞬ためらって、けれど結局ジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。真っ白な箱のキャスターは、今や朱だった。

「悪ぃな、右手に全然力が入らねえんだ」

 早乙女はぼんやり言って、棗の点けたライターに首だけで煙草を近づけた。彼女は苦そうに煙を吐き、

「お嬢さん、あたしは頑張ったよな……?」

「まだ終わってないわよ!」

 外でわめき声がして、誰かが入口に向かって小銃をぶっ放した。銃声にガラスの割れる騒々しい音が入り混じって耳をつんざくようだった。

 棗の左腕は熱を持ちはじめ、気を抜けば泣き出しそうな痛みがぶり返してきていた。

 それでもなお、拳銃を構えながら、

「ここにいて。動かないで」

「……一人じゃ無理だ。あんた、機関義肢はあっても実戦経験ねぇだろ」

「あ、あるわよ! 私だって……!」

「手ぇ、震えてんぜ。2つめの嘘は下手くそだな」と早乙女は苦笑いして「ああ、でも相殺マイナス1だ。あたしも騙してた」

「何を」

「爆弾、仕掛けたのはあたしだ」

 ぎょっとした顔で棗は傍らを見た。悪ぃ、と早乙女は煙草を咥えたまま、

「もちろん殺すつもりなんてなかった。アレで手ぇ引いてもらう予定だったんだがね」

「あなた、一体……」

 そうだな、と早乙女は呟いて首をもたげ、

「まだ、アスカロンに首輪つけられてんだ。犬さ。犬で、始末屋さ」

「じゃあ、病院でも」

「そうさ。あんたを殺すつもりだった。だが珍しくやりたくなくてな。なんでだろうな、目が離せねえって言ったけど、やっぱ……好きなんだろうな、あんたみたいなやつ」

「こんな時に、冗談……」

「冗談じゃねえよ」と早乙女はこぼすように煙を吐いた。「なあ、オーストラリアはともかく、考えてくんねえか、あれ」

「何の話?」

「あたしを事務所で雇ってくれるってやつ」

 早乙女は言いながら血を吐いた。右の脇腹は夕立にでも遭ったように濡れている。

 棗は答えられなかった。視線が宙をさまよった。その間にも、重機のような音があたりを引き裂いていた。

「どうした、らしくねえ」

 力無く早乙女が言う。濁りかけた目が、末期の光で棗を睨んだ。

「諦めるか? やるなら早ぇほうがいい。あたしが引き金を引けるうちなら、お互い楽に死ねる。悪くないだろ?」

 悪くはない。死は、諦念はいつだって甘美だ。

 けれど。認めたのなら、久世棗ではない。ここで降りたなら、今までがゼロに還る。

 それに、と棗は唇を引き結んだ。どれほど分の悪い賭けだとしても、真正面から跳ね返してきた。真っ直ぐにやってきた。それは、守るに値するもので。

 棗は、早乙女の手を固く握り、

「あなたは死なせない。私も、生き延びるから」

「……そんなら勝つにせよ負けるにせよ、これが最後だ」早乙女がのったりとした口調で呟く。「派手にいこうぜ、相棒」

 壁に身体を預けながら、早乙女は立ち上がろうとした。血の跡がグラフィティめいた模様に残った。

 二人は互いに肩を貸しあった。

「ねえ」と棗が囁くように言った。「マフィアのほとんどは街の入口にいるんでしょう」

「ああ。多分な」

 早乙女の答えに、棗は微笑さえ浮かべて。

「じゃあ、やれるわ。私たちなら」

 女たちは身を投げ出していく。光の中に。鉛弾の先に。

 されど、瞳はまだ、爛と輝いていた。

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ヨコハマ・オルタナティブ 山口 隼 @symg820

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