2話

 深夜の病棟に、スニーカーの擦れるような音だけが響く。

 早乙女セイラは、いくらか後ろめたい気持ちでそこにいた。

 ヨコハマ公安部だ、と受付に名乗ると一も二もなく通された。ナースは血の気の引いた顔で棗の病室を口走った。

 ICUでないことに少し安心してはいた。だが無事ではないだろう、とセイラは想像しながら煙草を口に咥える。爆発の威力は凄まじかったらしい。運転席のドアがヒンジごと吹き飛ばされていた。セイラは軽く頭を振った。

 2103は個室だった。扉の、細い窓からもベッドの膨らみが確認でき、つながれているらしい点滴も見て取れた。

「……気分悪ぃ」

 扉に手をかけるその時、後方で硬い金属音がした。

 はっとして早乙女が振り返るより先、

「動かないで。撃つわよ」

 静かに怒気を孕んだ、棗の声がした。

 本気だな。早乙女は察した。彼女は抵抗せず大人しく両手を上げ、

「待ち伏せたぁ、ずいぶん元気だな」

「おかげさまで。何をしに来たの」

「見舞いさ。花束はないがね」

「余計なことを言わないで。質問に答えて」

 融通の利かねえやつ、と早乙女は肩をすくめ、

「ここは公安部の息がかかってるんでね。誰も来ないぜ? 何なら気づかなかったか? このフロアには患者もいねえってことに」

「じゃあどれだけ騒いでも安心ね」

「泣くなよ、お嬢さん」

「じきに私の迎えが来るわ。それまでなら、相手をしてあげてもいいわよ」

 なら脅かしてやろうじゃねえか。早乙女は内心で毒づき、そう思った時にはもうひとりでに身体が動いていた。踵に重心を移す、そのまま独楽のように身体を翻した。機関義肢のモーターが唸りを上げた。

 その勢いのまま蹴りが掠めるはずだった。一瞬先に乾いた音がした。

 二本の糸が早乙女へ飛びかかり絡みついた。青白い光が走った。

 絞り出したような咆哮が響いた。早乙女は空中で体勢を崩し、もんどりうって床に倒れ込んだ。神経を直接千切るような痛みが襲った。身体に一切の力が入らず、芋虫のようにもだえた。

 それを冷たい目で見下ろした棗は、

「強化テーザーよ。機関義肢使いにはよく効くでしょう?」

 言い返そうと思った早乙女はけれど、舌が震えて言葉にならなかった。

 その間に棗は早乙女の懐をまさぐって拳銃を取り出し、

「お見舞いにはいらないんじゃないかしら、これは」

「こ、このご時世護身だよ……」

 少し正気を取り戻しはじめた早乙女は、まだ幾分もつれた舌でそう答えた。それが不満か、棗は顔を歪め、

「もう動けるの? じゃあ二回目を」

「ま、待て待て!」早乙女は慌てて手を上げた。「次は死ぬ。マジで」

「ご心配なく。テーザーは年配の方にも子供にも使える安全な兵器よ」

「だとしたら電圧弄ってんだろうが!」

「口の利き方を知らないようね?」

「待て、落ち着け。話し合おう。様子を見に来たのはマジだ」

 棗は疑いに目を眇め、

「ここが公安の施設なら安全なんじゃないの」

「言ったろ、手は長いって。なにか起きたとしても見て見ぬふりさ」

 それに、と早乙女は顎で銃を指してみせ、

「見てみろよ。殺すやつの弾じゃないぜ」

 棗がこわごわとした手付きで弾を抜くのを眺めながら、早乙女はハッとした。

「……お前、なんでそんな格好」

 と目を瞠る。棗はなんでもないように、

「出ていくところだったからよ」

 棗はスーツ姿だった。黒のパンツスーツはよくアイロンが効いて、一見すると昼間の、申請に来た時と変わらなかった。

 まさか、と早乙女は半笑いに、

「ここまで想定してた、なんて言わねえよな?」

「だとしたら、あなたを車に乗せていたでしょうね」

 そっけなく言い放つ。嫌われたもんだ、と早乙女は愚痴りながら、

「なあ、そろそろいいんじゃねえか。あたしの言ってる意味、わかったろ」

「ええ。ゴム弾、とはね」

 棗は早乙女へ銃を放り投げ、「好きにすれば」と車椅子を転がしかける。

「おい、待てって」と早乙女は電極を払いながら立ち上がり、「話ぐらい聞けよ」

「まだなにか? あなたが本当にただ見に来ただけというのはわかったわ。だったら用は済んだでしょう」

「続けるのか? 殺されかけて?」

 棗は鼻で笑い、

「ご心配なく。あれは殺す気じゃなかったもの。本気なら運転席側に爆弾を仕掛けたはず。それに、車に一枚鉄板を入れてあることにも気づいていなかった」

「単にしくじっただけかもしれんぜ」

 棗は嫌そうな顔、

「だとしても時間がないの。あなたの上司様のおかげで」

「だからもうやめとけってば」と早乙女は口の先だけで言って、次の言葉を、用意していなかった言葉を慌てて探し、「書類だ、あれだってなくなっちまっただろ?」

 棗は面倒そうに耳元の髪をかきあげ、背中に手を回した。出てきたのはジュラルミンケースだった。大層な凹み跡と灰に汚れているが、それだけだった。

「これは盗難や紛失も考えてのことよ。もちろん、もう1セット事務所にはあるけれど」

 早乙女が喉でも詰まったかという声を出した。彼女はラリーの球を見失ったみたいに途方に暮れて、何度か口をぱくぱくとさせた、

「……あれだ、カジノってのは、そんなに儲かるかい。命を賭けるほどに」

「ま、否定はしないけれど」

 はぐらかすように棗は肩をすくめ、

「これはやり遂げなければいけない仕事なの。私だけの話じゃない。それに脅しや暴力に折れるなんて、そんな恥ずかしい真似はしない。それを認めたら、私は久世棗をやめなきゃいけなくなる」

 ギラリと、黒檀めいた瞳が光った。獣の怒りと、冷徹な静けさが深夜の湖面で渦巻いていて、早乙女は息を呑んだ。こいつはもう止まらん、と思った。警告であるはずの暴力が、その理不尽さこそがかえって棗を頑なにしたらしかった。

「あんたは」早乙女はガリガリと頭を掻いた。「ずっとそうやってきたのか。相手が何だろうと、譲らないのは」

「そう教育されてきた、から」

 ぶっきらぼうに言った棗の顔が、わずかに憂いを帯びた。自信と敵意に満ちた表情がほんの一瞬雲に隠れ、かえって彼女自身が見えかけた。

「お嬢さんよ」と早乙女が呼びかける。「そのやり方は辛くねえか」

「少しも。あなたにはわからないだろうけど」

 しばらく、沈黙が流れた。やがて早乙女は視線を外し、大きく天を仰いで、

「……オーケー、じゃあ行こう」

「どこへ」

 と棗が訝しげな皺を眉間に寄せる。決まってるだろ、と早乙女は煙草に火を点けながら、

「こういう時は、一杯やるもんさ」



 レンガを模した茶色の壁に、鈍く橙の明かりが反射していた。

 バーはひどく静かだった。ジャズらしい音楽がかすかに聞こえる以外は、息の音さえしなかった。バーテンさえ、早乙女の目配せを感じ取って下がっていった。

 カラン、と早乙女の持つグラスの中で氷が鳴った。

「ここはマジの隠れ家だ。公安にも言ってない」

「私を連れてきてよかったの?」

「他にはねえよ。あんた、ちょっとは狙われる側だってこと、考えたほうがいいぜ」

 早乙女はウイスキーを舐め、苦そうな顔をした。棗も形だけ、マティーニに口をつけ、

「で、あなたは味方になってくれるの?」

「それで言うなら十分肩入れしてるさ。あたしはただの役人だぜ」

「だとしたら、理由が気になるわね」

 ふむ、と早乙女が唸った。答えを求めるように、彼女は中空へぼんやりと目を流し、

「素人くさいとこだな」

「ちょっと、どういう意味!」

 と棗はいきり立った。車椅子にも関わらず立ち上がって来そうな勢いに、早乙女は待て待て、と棗の肩を叩き、

「たまにはあたしの話も聞けよ。常識的に考えりゃ正面からシマを奪おうってのにアスカロンがOK出すわけねえだろ」

「今は入札じゃない、真っ当に条件を満たしていれば通る申請のはずよ」

「融通の利かねえやつだな。挨拶回りして多少の弁当でも配ってこりゃ違うだろうに」

 じろりと、棗は早乙女に怖い目をしてみせ、

「法に背くようなことを、私にやれと?」

「お嬢さん、ケースバイケースって言葉知ってるか?」

「少なくとも今使う単語じゃないわね」

 はは、と早乙女が乾いた声で笑った。彼女は椅子の上で足を組み、優しく言い含めるような調子で、

「あんたのやり方は聡くない。間違ってるとは言わん。ただやばい橋渡ってるとは知れ」

 棗はうつむいてカウンターを見つめた。重ねた手が小刻みに震えていた。

 譲れないのよ。

 そう、棗は小さく呟いた。聞かせる気のない独白だった。

 早乙女は黙ってグラスを傾け、半拍の半端な沈黙をことさらの軽い調子で破った、

「あんたはうかつなところもある。さっきだってそうさ」

「よく言う。私に後ろを取られておいて」

 いや、と早乙女は首を横に振り、

「機関義肢使いにあそこまで近づいちゃいかんよ。本来なら3回は殺せてる」

「でもそうしなかったじゃないの」

「……今やってもいいんだぜ?」

 早乙女の見下す視線と、棗の勝気な視線が交差した。火花が散った。お前には負けていないという互いの気構えがぶつかり合って空気が張り付いた。

 やがて早乙女が吹き出した。彼女は弾けるように、大口を開けて笑って、

「ま、そういうところが面白ぇんだが」

 棗はふくれっ面でグラスを傾けた。辛いマティーニだった。

 子供扱いは彼女の一番嫌うところだったし、けれど言い返さなかったのは、早乙女の言葉にも一分の理があることをわかっていたし、何より悪意を覚えなかったからだった。

 ひとしきり早乙女は笑って、煙草を咥え流し目を棗へ向ける、

「お嬢さん、この先は走り切るしかなくなるぜ」

「当然でしょ」

「行き着く先が、崖か、谷底でもか?」

 ボッ、と音がしてマッチに火が点いた。早乙女は目を細め、ゆっくりと煙を吐き出す。

 棗の脳裏に、おぼろげな記憶が過ぎった。美味そうに煙草を吸う父だった。青いひげの中で柔和に口元が笑んでいた。

 そうだ、と棗は思い出した。

「彼らには膝をつかないって、私は決めているから。それを破ったら何もかもうまくいって、何もかもおしまいになるわ」

 「いいやお嬢さん」遮る早乙女の口調に熱が入った。「やつらはやつらのルールがあって、破った人間は絶対生かしておかない。いや、死ぬだけならまだマシさ。最近も本社から横流しされた機関義肢を売りさばいたバカがいた。よりにもよってこのハマで、だ」

「よくあること、じゃないの?」

「あぁそうさ。だがこっそりやるのとテメエの顔に泥を塗られるのは違う。よりにもよってそのバカが売り渡したのはカジノの現金輸送車を襲おうとしてやがった。この街の監視システムからすりゃあ冬眠中の熊の巣に鉛弾ぶち込むようなもんさ」

 早乙女はそこで一息つき酒を呷った。

「結局その実行犯と中のノータリンな研究者はどうなったと思う」

 棗は首を横に振った。早乙女は唇を吊り上げた酷薄な笑いで、

「生きたまま切り刻まれたのさ。肉の塊、いやさひき肉になるまでね。そいつを街角にぽい。見せしめだよ。昔の中国であった凌遅刑って知ってるか? あれをやるんだ。まして今の神経接合技術だ、おかしくなる直前まで痛みを与えるなんてこたぁ長けてやがる。笑い話としちゃあ、その研究者が開発に関わった臓器置換技術も使われたってことだが?」

 そう言いながら、早乙女は胸元から一枚の写真を出してカウンターに置いた。棗は直視してしまって目を背けた。今しがた語られた、死体とも言えない人間の残骸だった。棗の顔色は青白くなっていた。

 早乙女はなおも、威圧するような激しい口調で、

「15年前、第一次カジノ入札を争ったのはアスカロンと五月台だった。だが最終的に五月台は取り下げ、単独受注になった。なぜか、ね」

 棗の身体が震えた。膝の上に置いた拳が固く握られ、ただ抗議するような視線を早乙女に向けていた。

 早乙女はそれを嘲笑でもって受け流し、

「次までに調べとくって言ったろ? なあ、あんたのそれは、復讐か?」

 早乙女が車椅子の下の、微動だにしない棗の足を見やった。棗は無言で首を横に振った。

「……わからない。ただ私は、これに片を付けないと先に進めない。これで降りたら死んでるも同然だって、それはわかるから」

「見合わねえと思うね。準備が足りなさすぎる」

 棗は屹と見返した。黒い瞳にはまだ怯えが宿っていたが、それでも本来の鋼を思わせる煌めきは光っていた。

「それなら、もう手配した。ただで死んでやるつもりはないもの。15年前とは違う。私も、私の後ろにいる人たちも」

 へえ、と早乙女は頬杖をつき、挑発的な微笑で棗を見やる。

 値踏みしていたのは3秒か、5秒か。やがて彼女は懐へ手を伸ばし、取り出したそれをカウンターの下で棗へ差し出す。

「こいつは――」

 茶封筒だった。彼女は煙を吐きながら、

「おそらく、次はそれを言い訳にする」

「見ても?」

「ヨコハマ様式の申請書。要するに、『ウチはこうなってます』だ。ご協力いただけないと処理に時間がかかりますっていう言い訳」

 棗は渋い顔をした。中には丁寧に、書き方のサンプルと公安部の要点を示した紙まで入っている。これは出しにくい書類だなと思った。

 早乙女はよく見てみな、と煙草で指して、

「それ、複写の4枚綴りだぜ」

「手書き!? この時代に?」

「そうとも。このご時世に」

 早乙女は陰鬱に笑って煙草をもみ消した。灰皿から紫煙が渦を巻き、行き先もなくふわりと立ち上っていく。

「だが、それで突っ返されることはねえはずだ。のちのち何が入り用だとか言い出すかもしれねえが、申請が遅れるこたぁねえだろ」

 うなずいて、棗は書類を丁寧に封筒へ戻し、

「ねえ、どうして、ここまで?」

「それさっき訊いた」

「私のためにリスクを負うほどの理由?」

 ってく、と早乙女は頭の後ろを掻いて、

「あんたに賭けてみようかって思ってな。あたしにできない天井を打ち破れるか。あたしは、ああいうの、卑怯なのも理不尽なのも好きじゃねえ」

 早乙女は虚空を睨みつけた。

 ああいうの、が課長の手練手管なのか、それともアスカロンのやり口を指しているのか棗には判別できなかったが、その視線は氷のように純化した怒りだった。

 「よかった」と棗は呟いた。意識せずに漏れ出していた。早乙女がぽかんと口を開けているのに気づいて、慌てて、

「これをもらえたことよ!」

「そうかい? てっきりあたしの聖人らしい部分に感動していただけたかと思ったが」

 早乙女は猫のように意地悪く忍び笑いした。

 む、と棗は唇を尖らせて、

「でも、あなたも公安部なんだからそういうことしてきたんでしょう。聖人には程遠いわよね?」

「嫌なこと言うね」

 早乙女は二本目の煙草に火を点けながら、

「状況によっちゃ、まあな」

「嫌なんでしょう? やらなければいい」

「そうはいくかい。あたしはあんたより賢いんだ」

「混ぜっ返すわね。ここでひとしきり法律問題でも出す? 役所で必要な内容の」

 お手上げ、とばかり早乙女は両手を挙げてみせて、

「久世棗さんよ、あんたみたいにやれるやつばっかじゃねえんだって」

「私は、他にやり方を知らないだけよ」

 棗は消え入りそうな声で言った。その脳裏にまた、父の背中が瞬いて消えた。

「あたしは、そんなに強くはねえ」

 目の前に煙草が差し出された。棗が躊躇っていると、早乙女は押し付け、無理矢理に火を点けさせた。そうしておいて灰皿へマッチを放り込んだ。まだ燃えたままだった。

 「あたしはさ」と早乙女は顔を上げた。「生まれも育ちもハマだ。綺麗だったころの横浜は写真でしか見たことがねえ。海がまだ青で、赤レンガが文字通り赤色で、ハマスタがボールパークだったころの話だ」

「古き良き日本」

 そう、と早乙女が相槌を打って微笑した。彼女は一口、ウイスキーで唇を潤し、さて、と座り直して、

「そんなスラムにただの小娘だ。体力も知恵もない。生きるためにはどうするか?」

 二本、指を立ててみせる、

「ひとつには身体を売る。もうひとつは力に頼る。その、どっちかだ」

「何屋、だったの」

「故買。……って言やぁ聞こえはいいが、盗品とかのヤバいブツをさばく仕事(ビズ)さ。出どころの知れないプログラムの入った端末だとか、死んだやつの機関義肢とか」

 路地裏に佇むセイラを、棗は想像した。誰かの腕をジャンパーにくるんで走る、その額は汗と、銀色、化学物質の混じった水滴で濡れている。追い詰められ、振り向きざまに銃を抜く。橙のマズルフラッシュが光る。

 早乙女が目を細めていた。思い出すような、のったりした声で、

「まァそんなのは最初のうちだけでね。結局ハマで仕事しようと思ったらどこかのファミリーと組まなきゃいけなくなる」

「それが、どうして公安に。まるで逆じゃない」

「パクられたんだよ。司法取引さ」

 早乙女はくすくすと笑って、

「あたしはまあまあヤバいシマに頭突っ込んでて、それがバレるとまずかったんだ。色んなところが困る……主にアスカロンが、だが。おっと、引くなよ? 昔の話だぜ」

「今も生かされているあたり、相当重要な話だったんじゃないの」

 どうだろ、と早乙女は頬杖をついて、

「推測だが、連中はあたしを何とも思ってないだけさ。野良犬一匹、殺しても殺さなくてもいい。ただ目立つところで吠えさえしなけりゃ。それにねお嬢、どうせハマの包囲網からは抜けらんない。逃げたらバレんだ。あたしはここで緩やかに死ぬのさ」

 眠れない月のように、早乙女は青白い顔で笑った。自傷めいた、湿った笑い声だった。

 棗は指先で、ゆっくりとグラスの水滴を拭いながら、

「せめて、他に出向、とかは」

「今のハマに手を差し伸べるようなところはねぇよ。メリットがねえ」

 早乙女は澱を吐き出すように言って、ウイスキーを一気に飲み干した。気づけば流れていた曲は消えて、本当の無音になっていた。

 早乙女がコン、とグラスを置いた音が響いた。彼女は出し抜けに、

「ここまでしてやったんだから上手くやれよ。それで成功報酬をよこせ」

「いくら欲しいの」

 違う違う、と早乙女は手をひらひらとさせ、

「あんたの事務所で雇ってくれよ。意外と役に立つぜ?」

「ヨコハマを抜けられないって、さっき言ったばかりじゃないの」

「でもあんたが生きて帰ったってこたぁ、五月台さんは頼れるってことになるだろ? したらやつらも手ぇ出しにくくなるはずさ」

 じろりと、棗は不服な視線で睨み、

「もしかして、全部この話を引き出すため?」

「あ、バレた?」

 ははは、と早乙女は大口を開けて笑った。

 もう、と棗もわざとむくれてみせ、

「それなら最後までエスコートしてくれないと」

「そいつは報酬の外だろうよ! あたしにまで戦えたぁ強欲だぜ!」

「あら、そっちは公安部のお仕事だから別よ?」

 早乙女は、「何言ってんだか」というように首を振って、けれど夕凪のように静かに笑った。

「いいぜお嬢さん。やれるとこまでやってみろ。楽しみに見ててやる」

「期待していいわよ」

 棗はグラスを干し、いたずらっぽく笑って車椅子を返した。

 その背を、早乙女が軽く叩いて、

「送ってくよ」

 棗は視線をさまよわせて、けれど結局、ええ、とうなずいた。穏やかな微笑だった。

 温いような闇夜だった。

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