ヨコハマ・オルタナティブ
山口 隼
1話
「受理致しかねますねぇ」
灰色のスーツを着た役人は眼鏡を直しながら、そう粘っこい口調で言った。
な、と棗は目を見開き、
「どういうことですか。法律上の必要書類は全て揃ってるでしょう!」
役人は首を横に振って、申し訳無さそうな、しかし憐憫の情も混じったような薄笑いで、
「久世さん、こちらの『申請者適格』の部分ですが」
「登記簿、役員の登記されていないことの証明、誓約書……まだ不備がありますか」
いえ、いえ、と役人はなだめるように手を挙げてみせ、
「それ以外にも、わたくしたちと致しましては居住実態を示す書類、加えて法人ですから、直近の決算書類等をお願いしておりまして」
なるほど、と棗は苦笑した。私は完璧に歓迎されていない。
申請内容もさることながら、女で、若くて、車椅子で、そういう気配が役人の全身から立ち上っている。それを理解できないほど鈍感でもない。
だからこそ棗は顎を引き、背筋を伸ばし直し、
「お願い? であれば、要件ではありませんね?」
「そうですね……ですがご協力いただけない場合、わたくしどもの観点で改めて申請者に対して調査をさせていただくかと」
パキ、と軽い音がした。車椅子の肘置きが軋んだ。無意識に握りしめたらしかった。
その怒りを押さえつけるのに、棗は大きく息を吐いて、
「わかりました。必要書類は今おっしゃったもので全てですね?」
「ええ、もちろんです。何ならリストをお渡しいたしましょう」
ぞんざいに見せてきたそれは、日に焼けた茶色の紙だった。棗は書類一式と合わせ奪うように受け取り、ジュラルミンケースに叩き込んだ。
「早乙女、お帰りだ」
間髪入れず役人が言った、それを待っていたように、ついたての向こうから、ぬっと彼女が姿を現した。長身にスカジャンを羽織り、その上金髪の、公僕らしからぬ女だった。
早乙女が棗の車椅子に手をかける。役人は棗へひどく丁寧に頭を下げてみせ、
「何度もご足労かけて、申し訳ありません」
慇懃な笑みで、こう言うのだ。
「これがヨコハマ・ルール、でして」
日の当たらない公安部の廊下に、車輪の軋む音が響いていた。
「あんた、これ以上はやめときなよ。課長は通す気なんてさらさらねえ」
不意に早乙女が言った。棗は肩越しに振り返り、
「職員が言っていいのかしら、そんなこと」
「これはあたしの感想。どう取るかはそっち次第」
咎めるように、棗は白目で睨んだ。けれど早乙女のほうは意に介さず、
「言ったろ、前回。腕利きを雇いなって」
「法定外係争代理人なんて信用できるわけないわ、このヨコハマで。しかもカジノ設営の申請ときたら、いくら取られるかわかったものじゃない」
「それも含めて新人の勉強代さ」
「馬鹿にしてる?」
「とんでもない。あたしは心からの善意で言ってんだ」
見え透いたことを。気に入らない女だと、棗は改めて思った。あまりに品のない女。けれど向こうもこちらを嫌っているだろうな、と気づいてはいる。いけすかない余所者だと。 棗は口の端で皮肉に笑って、
「良い警官、悪い警官。貴女は懐柔する側、ということかしら」
「あんたはハマのことをもっと知るべきだ。課長も言ったろ、ヨコハマ・ルールって」
「私が知らないとでも? あなたこそ私のことを何一つ知らないのに」
すると早乙女はそっけなく、
「次会うまでに調べとくさ」
などと言う。ちぇっ、と棗は舌打ちして、
「悪趣味ね。個人情報保護法はどこへいったのかしら」
「気に入らないかい、法廷代理人(バリスター)様?」
「一度目は担当官がいない、二度目には急に出てきた書類を持って来い。これで機嫌が良くなる人間がいるかしら?」
確かに、と早乙女は笑った。揶揄する調子の、耳に残る笑いだった。
誰も彼も、と棗は唇を噛んで、
「私にとっては笑い事じゃないわ」
「まったくその通り。だがこればっかりはあたしじゃどうしようもない」
「知っているし、何も期待していないわ」
棗がそう吐き捨てると、そうかい、と早乙女はそっけなく言って手を放した。
気づけばエントランスだった。外壁はガラス張りで、床も天井も白く、過度な潔癖さと静けさで来るものを威圧していた。それがヨコハマ公安部のやり方らしかった。
棗はくるりと車椅子を返し、早乙女を真っ向から見据えた。170cmは下らないだろう、と棗が見当をつけた彼女は、腕を組んで見下ろし、「言いたいことがあるなら言ってみろよ」とばかりに目を細めていた。上等ね、と棗は視線を跳ね返すように顔を上げ、
「あまり私を甘く見ないことね。そう簡単に降りたりはしない」
「結構だが。あいつらは、手段を選ばないぜ」
「わかっているわ」
早乙女が、ふらと視線を外に投げた。その先には高層建築が見える。
そこにあるAの社章――アスカロン重工。ヨコハマにあるカジノの90%以上を直接、間接的に保有している機関義肢企業。
その技術で非合法組織さえ取り込んだ大企業。
早乙女はそのまま、独り言のように、
「本体が直接手ぇ下すこたぁないが……」
「アメリカ系マフィアを手駒にしていることぐらい知ってるわ。なにせカジノ運営には彼らのノウハウが必要だもの」
言いにくいことを言うな、と早乙女は顔をしかめた。当然でしょ、と棗は鼻を鳴らし、
「どの口が『申請者適格』とか言うのかしらね」
「あちらも書類上はクリアしてきてる。それに、公安部はアスカロンに何も言えんよ」
早乙女はつまらなさそうに自分の腕を軽く叩いてみせ、
「結局、軍用の機関義肢はアスカロンが強い。おたく、五月台重工さんも頑張ってるが、まだ足りんな」
「私は別に、あの会社の顧問というわけではないわよ」
棗の言葉に、へえ、と早乙女は目を瞬いて、
「んじゃ、なんでそんなに頑張ってんだよ?」
棗の肩が軽く痙攣した。顔色を変えるには十分な問いだった。彼女は傷口をなぞられた痛みをこらえるようにぐっと唇を引き結び、目を伏せながら背を向けた。
「……余計な話をしたわ。私はもう行く」
「次からはせめて誰かと来いよ。もう一度だけ言っとく。やつらの手は長い。公安部にだって、いるだろうぜ」
セイラが気だるそうに、そう声をかけてくる。
はぁ、と棗は大仰にため息をついてみせ、
「気づいているかしら」
「なにを」
「この車椅子は電動よ」
「だろうな。それで?」
つまり、と棗は肩越しの冷ややかな視線で、
「自分の面倒ぐらい、自分で見られるということよ」
「……あたしは、警告したからな」
大股な足音が遠ざかっていく。
冗談じゃない、と毒づいた棗もまた、一顧だにしなかった。
エントランスから出ると、見上げた空は薄汚れた羊のような色で、かき回せそうなほど近くに見えた。
スモッグ。煤煙とSoxとその他有害物質で固められた靄が、街を覆っていた。
路面のアスファルトはひび割れ、道の脇には吸い殻やゴミが散乱し饐えた悪臭が漂っている。空き缶を歯の抜けた男が蹴り飛ばし、野良猫が威嚇の声を上げていた。これでも、ヨコハマではマシなほうだった。
だだっ広い駐車場の、一台だけ止まった車へたどり着くと、棗はタラップで車椅子のまま運転席へ乗り込んだ。車椅子の身としては電車やバスよりはるかに便利だし、しかも道中で襲撃される危険性はより少ない。
「貴女が思うより考えているわよ、早乙女セイラさん」
嘲笑混じりに呟いて、棗は指紋認証のボタンをゆっくり押し込み、エンジンを点火させ。
その瞬間だった。
カーエアコンの隙間、這い出た蛇のような炎が、一瞬にして車内でとぐろを巻く。
――あいつらは、手段を――
「くっ!」
ドアノブに手を伸ばす。視界が、肌が灼け。
爆炎が天を灼くと同時だった。破滅的な轟音が、響き渡った。
鉄塊が炎に包まれていた。
何度かの散発的な爆発音がして、重なるように、カラン、と虚しい音がした。
アスファルトに落ちたホイールカバーが、転がっていった音だった。
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