第3話

 学校の授業ほど、この世で退屈のものは無いと思う。ただただ、大人になって使う機会が一切無いものを受動的に頭に詰め込まれるだけ。それならば、手のひらの皺を数えている方がましだ。

 そうは言っても、手の皺を数えて授業を受けないわけにはいかないので、先生の話を垂れ流しながら黒板とノートを交互に行き来してペンを走らせる。

 四時限目の社会の授業。一通り板書をノートに写し終え、席のすぐ左にある窓から空を見あげる。鮮やかな青の中に点々と浮かぶ白い雲。その隙間からうるさいほどに照り付ける太陽。

 まだ梅雨が明けきっていないこの時期には珍しい程の気持ちの良い快晴。

 だが、そんな快晴も楓には見えない。空はどんよりとした重い灰色、太陽は血液のように赤く染まった雲で覆い隠されて明るい光なんて届かない。暗記用の赤いシートを通して世界を見ているように錯覚してしまう。

 今朝、あれを見てから楓の中は段々と悲鳴を上げ始めている。まるで昔からのトラウマを避け、拒絶しようとしているかのように。

 それに、今日は芽衣も体調不良で休んでいる。芽衣が居ればこんな風にはならないのに、こういう日に限って何ともついていないというか、上手くいかない。

 頭の中をぐるぐる回っているのはあの少女だ。今朝は楓にだけ見えて、通過電車に轢かれると同時にその姿、存在までもが消え去った栄学園の制服を着ている生徒。

 あの少女は楓が作り出した幻覚なのか、はたまた、生霊だとかドッペルゲンガーの類なのか、それとも本当に存在しているのか。

 もし、あの少女が幻覚なのだとしても、楓には幻覚を見る原因が思い浮かばない。それでも幻覚ならば、今日の放課後に速攻で精神科に行く事にしよう。加えて、楓は霊感なんて持っていない。なので生霊どころか幽霊さえも見たことない。

 それならば、ドッペルゲンガーと考えるべきなのだが、そもそもなぜ自分ではなく知らない人のドッペルゲンガーを見たのだろう。ドッペルゲンガーと言われる話はほぼ全部自分の物を見ている。それに、芽衣だとか海飛のドッペルゲンガーならば知人なので百歩譲ってもまだ分かる。でも、あの子は全くの他人。多分見たのも初めてだろう。

 それに、ドッペルゲンガーは都市伝説として恐れられている理由というのも、ドッペルゲンガーを見た人は死ぬという噂だ。

 ———————死ぬ

 そう意識した時にはもう楓の全身に寒気と鳥肌が走っていた。

 ドッペルゲンガーなんてただの都市伝説。それに、あの子がドッペルゲンガーとも限らない。頭の中で自分にそう言い聞かせる。

 何とか気を紛らわせようとして、視線を空からノートに移しペンをギュッと強く握る。

 今までに無い程、先生の説明に集中して耳を傾け、言っている事を一言一句間違えずにノートに書く。先生は既に板書をしている部分を説明しているので楓は無駄な事をしているが、気にせず書く。とにかく今は何も考えないで居たい。

 けれど、いくら考えないようとしても、あの少女が頭の片隅に居て離れようとしてくれない。まるで楓に強い執着を持って憑りついているかと思うほどに。

 授業の終わりを告げるチャイムが響くと、ピンと張ってあった緊張の線が限界まで伸ばした輪ゴムのように勢いよく切れて、全身の力が抜ける。そのままだらりと腕を前に出して机にうつ伏せに伸ばし、握っていたペンを離すと、手のひらにはペンの形をした真っ赤な跡がくっきりと残っており、随分と強い力でペンを握っていたことを物語っていた。

 逃げ出すように立ち上がった楓は、引き出しに入っている財布を即座に引き抜いて教室を出ていく。とにかく今は誰かが隣に居て欲しい。そう思って隣の教室に駆け込み、教卓の目の前席に座って教科書とノートを片付けている海飛の肩を強引に引っ張る。

「うおっ」

 海飛は驚いた顔をして楓の方に振り向く。

「ど、どうした?急に?」

 普段ならはっちゃけている楓が妙に不安な顔をしていて何かおかしいのを読み取ったのか、海飛はすぐさま驚いた顔を裏に引っ込めて、代わりに笑顔を作る。

「学食」

 楓は海飛の肩を掴んだままぶっきらぼうに言葉を放つ。

「今にも死にそうな顔して、そんなに品切れで昼抜きになるのが不安なのか?」

「うん」

 楓は取り敢えず頷く。

「毎日のように閑古鳥が鳴いてる学食が品切れになるなんて、天地がひっくり返っても、そうそう起きないぞ」

 いつも通りの海飛と話している内に、どす黒い不安は一夏の中から少しずつ消えてゆく。

「それは学食のおばちゃん達に失礼だよ。あの人達いつも喧嘩してるけど」

 毎日学食で昼御飯を食べている楓だからこそ分かるのだが、いつも行く度に、三、四人いる学食の職員の中の誰か二人は絶対に喧嘩している。そして、その声が受け取り場所の前でグラウンド直結のテラス席にまで聞こえてくるのだ。

 もはや、学食の喧嘩は栄学園の名物にまでなっている。

「確かに、日替わりの弁当は売らないくせに、日替わりで喧嘩はしてるよな」

 全員が喧嘩している日は特盛とでも言うのだろうか。

「海飛は外れを引くのが嫌で、例え日替わり弁当があったとしても買わないでしょ」

「そりゃ勿論。俺はカレー一筋って心に決めてるから。勝手に浮気者扱いされても困る」

 海飛は自信満々な顔をして、どんと胸を叩く。

「そう言えばそうだったね」

 楓は視線を机の横に掛かっている鞄に寄せて、それとなく学食に行く準備を早くするよう海飛に催促する。それに気が付いた海飛は鞄を漁って、黒い長財布を吊り上げる。

「珍しく体調不良のお嫁さんがそんなに心配なのか?」

 海飛は半ば呆れたような顔を浮かべている。楓の事をどれだけ芽衣馬鹿だと思っているのだろうか。

「心配なのはそうだけど……って、まだお嫁に貰ってないから」

 海飛が嬉しそうに首を傾げる。

「まだ?」

「あ……」

 慌てて口に手を当てるがもう時すでに遅し。乗った船はエンジン全開、白い波を大きく立てながら猛スピードで大海原をかき分けている。

「プロポーズするんだったら本人の居るところでやってもらわないと。居ないところじゃ何にも意味ないぞ」

 楓の肩に手を置きこくこく頷く海飛。

「……」

 恥ずかしくなってきた楓は、置かれた海飛の手首を強く握って教室から連れ出し、廊下を早歩きして学食へと向かう。

「下向きながら歩くと危ないぞ」

 へらへらした海飛の注意を

「うるさい」

 と下を向いたまま蹴り飛ばす。真っ赤に染まった顔なんて男の海飛にも見られたくない。

「うへぇ。怖っ。そんなに怒ると眉間の皺が取れなくなって、これからずっと老け顔になっちゃうぞ」

「毎日怒ってるわけじゃないんだから、そう簡単にはならないよ。というか、ずっと老け顔なんてごめんだし」

「二十歳くらいなのに、中年に間違えられる楓とか見てみたいな」

 階段の踊り場でピタリと止まり、少し考えてみる。

 二十歳まであと五年。五年後、高校一年生の楓は大学二年生になっている。朝は今よりも遅く私服で学校に登校して、長い講義を受け、講義が終われば合コンに行ったり、サークルの人達と飲みに行く、そんな生活をしているのだろうか。少なくとも、今の楓ではイメージの欠片も湧かない。

「未来の自分なんて全然想像つかないな」

「まあ、今はそういうもんでしょ。高校もあと二年半あるし、その内に想像できればいいんじゃないか?」

「確かに、それもそうかも」

 そう口では言っても、自分の心とは別だ。あと二年半の間で将来を想像する、イメージすること自体の想像がつかない。

 そんな漠然とした不安が、楓の中では少しずつ大きくなりつつある。

 痛っ」

 がら空きの背中を、急に海飛が叩く。

「何ぼーっとしてんだよ。早く学食行きたいんじゃないのか?」

「う、うん」

「……」

 先程からの楓の煮え切らない態度に、海飛は明らかに不信感を募らせている。これ以上挙動不審な仕草を見せたら、問い詰められることになるだろう。

「何でもないって」

「本当か?」

 海飛が真っ直ぐ疑問の眼差しを向けてくる。その視線の先にある楓の顔には、何かある、と書かれているはずだ。そんなのは、顔が見えない楓でも分かる。

「本当だって。僕の事信じれないの?」

「そこまで言うんだったら信じるけどさ……」

 それでも、海飛は納得出来ていない様子だったが、楓が強引に話を終わらせ、学食へと向かった。

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昨日の君と明日を刻む 茅河臨 @kayakawarin

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