第2話
ひばりが丘駅を出てから約十五分。最初は空いていた車内は駅に止まるにつれ混み始め、途中の石神井公園駅からは身動きが取れない程の満員電車となっていた。
そんな車内も、中村橋駅に着くと栄学園の制服を着た生徒たちが一気に降りて人の熱気が少なくなる。
目を瞑っていた楓も、学生たちの流れに身を任せてホームに降り立ち、そのままホームの中央にあるエスカレーターへと延びる長蛇の列に加わる。
一つ大きな欠伸をしてから、ひょっとしたら夢ではないかと淡い期待を抱いて、左ポケットに手を入れスマホを取り出す。青く光って健康に悪そうな液晶画面に映し出されたのは、六月二十三日水曜日、七時五十分という文字。まだ少し痛む頭に現実を突きつけてくれたスマホをポケットの中にしまう。これ以上液晶なんて見ていたら更に頭が痛くなりそうだ。
エスカレーターを降りて、一番右の改札口に鞄から取り出した定期券を軽くタッチする。ピッという短い音と同時にゲートが開く。
改札を出た楓は前の生徒の後に続いて、小さな広場がある右手側に歩いていく。広場を遮り大通りへと続く短い道に入る。右手にはシャッターの閉まっているラーメン屋と香ばしい匂いがするパン屋。左手には全国チェーンの大手ファミレス。ファミレスの隣にある薬局を過ぎたところで大通りが見える。
朝のこの時間でも車の多いこの通りは、西武池袋線と平行に走る千川通り。このまま東に行けば目白通りと分かれ千川通りは練馬駅やその先へと続いている。
赤信号に捕まってぼんやりと待っていると、突然膝の裏に軽い押されたような衝撃が走る。
「おわっ」
楓はバランスを崩して膝から地面に崩れ落ちてしまう。
でこぼこしたアスファルトに手をついて四つん這いのような姿勢で後ろを振り返る。そこには、長身の男子高校生が屈んで楓に手を向けていた。
「朝っぱらから公衆の面前で何してくれてるの?」
そう言った楓は、差し出された手をわざと強く握る。
「楓が一人でいるなんて珍しいからつい」
爽やかな笑顔でそう答え、軽く楓を引っ張り上げた彼は神成海飛。楓と同じく栄学園の高校一年生。身長百八十センチ越えという大きな武器を持っており、所属する男子バレー部では中学時代にはキャプテン、今でもエースでチームの中心と大活躍だ。それに加えて、残念なことに顔が良い。噂によれば、上は高三、下は中一の女子達で構成されている神成海飛ファンクラブなるものが有り、その会員数は驚異の三百人だとか。そんな学校の女子半分を虜にするような海飛と、ただの一般人である楓がこんなじゃれあうような関係にある理由は、中学一年生の時のある体育の授業だ。
入学して二か月が過ぎた六月の初旬。
中間試験も終わり本格的に中学一年生の仮入部が始まる時期でもあった。
その日の授業はバレーボールだった。
二人一組でペアを作るように教師から言われ、そこそこ顔見知りも出来ていたので誰か知っている人を誘おうと思っていた楓だが、のんびりしていたが故か、ものの見事に売れ残ってしまった。
そんな楓と同じく、身長がずば抜けて高くイケメンで、クラスの男子からはお高く留まっていると思われ煙たがられていた海飛も後ろの方で一人佇んでいた。
こんな流れで海飛とペアになったのだが、ここで終わっていたら今みたいに仲は良くなっていない。
では何故これ程になったか。
元々バレーは得意だった楓は、大人しく教師の指示を聞いて、目立たないようにこの時間をやり過ごそうとしていたのだが、段々と楽しくなってしまった。
それは海飛の方も同じだったようで、二人は教師の指示なんぞ聞かずに、夢中になってパスをし続けていた。
その結果、授業後に二人そろって呼び出され、お叱りを受けることになったのだが、楓はとても心が躍っていた。
そして、説教が終わって教室に帰る途中に初めて交わした海飛との会話は今でも覚えている。
「俺の名前は神成海飛。海を飛んで神に成る男って覚えて」
自信に溢れた満面の笑みでこう言った海飛に、まだ幼かった楓の心はいとも簡単に動かされ、海飛を憧れるようになった。
この事があってから、楓は海飛と仲を深めていくのだが、その過程で、海飛の様々な一面を知って楓自身も成長し、憧れの対象ではなく友達として絡むことになった。
「本当、こんな奴だとは思ってもいなかったわ。中一の僕はどんだけ馬鹿だったんだか」
「それ地味に俺の事ディスってるよな?」
「気のせいだよ。ただ、なんでこんな子供っぽいやつが好かれるのかは分からんけどな」
海飛は苦笑いをして明後日の方向を向く。
「どうしてだろうな」
「本当は分かってるくせに。謙虚は場面によっては悪い事だぞ」
海飛がモテる理由の大部分はその容姿や運動神経などだが、こんな高身長なのに子供っぽいという所謂ギャップ萌えという物もあるのだろう。
信号が青に変わって楓と海飛は歩き出す。
「というか、楓。可愛い可愛いお嫁さんはどうした?まさか喧嘩して別々に登校なんてないだろうな」
楓は歩いている海飛の左足を軽く蹴り、顔を見上げて睨みつける。
「だからその言い方やめろ」
「なら、芽衣夫人にするか?」
「なんで皇族風なんだよ。うちの家も芽衣の家も一般庶民家庭なんだが」
「じゃあ、奥さん?これなら庶民感出てるでしょ」
「芽衣要素消えてるし、芽衣と結婚してないから。そもそも結婚できる年齢じゃないから」
「でも、毎朝芽衣の事起こして、一緒に朝御飯食べて、登校して、学校から帰ってもずっと一緒に居るんだろ?明らかにカップルというか夫婦の一日なんだよな」
これには楓も思い当たる節しかない。
「確かにそうだな。なら芽衣は僕のお嫁さんか。……って、なわけあるか」
海飛のたくましい腹筋をパーの手で叩く。
「見事なノリツッコミだったな」
先程から二人の会話に出てくる芽衣というのは、楓のマンションの隣に住んでいる美波家の一人娘、美波芽衣の事である。
この美波家に、物心ついたころから親が何故か居ない楓は助けられてきた。楓が中学生になって、自分の事がある程度一人で出来るようになるとお世話になる事は少なくなったが、朝の弱い芽衣を毎朝起こしたり、たまに晩御飯を食べるなど交流は続いている。
相も変わらず今日も芽衣を起こしに部屋まで行ったのだが、芽衣は布団を頭まで被り、いつも元気で騒がしい芽衣とは思えない程弱弱しい声で、頭が痛い、気分が悪い、吐き気がすると楓に訴えた。
そんな状態で無理矢理学校に連れていくわけにもいかないので、芽衣は体調不良が悪くて欠席するという旨を芽衣の母親に伝え、一人で学校に向かったのだ。
「芽衣は今日体調不良」
楓が簡潔に述べると、驚いた海飛が大きな声を上げる。
「三年間皆勤賞の芽衣が?何かの病気にでも罹ったんじゃないか?」
「流石にそれは無いと思うけど……昨日まで元気だったし。そういう日もあるんじゃない?」
「だとしても心配だけどな。というか、楓は心配じゃないのか?」
「もちろん心配はしてるけど、芽衣ならすぐ元気になってくれるから、そんなに深刻に考えては無いよ」
「やっぱり、共に一生を添い遂げる覚悟をした旦那さんは違うな」
甘い隙を少しでも作るとすかさず海飛が口撃を仕掛けてくる。だが、楓もサンドバックになるつもりはないので、海飛に仕返す。
「……羨ましいならそこら辺の女の子でも捕まえればいいのに」
「何とも俺がチンピラみたいな悪い言い方だな」
海飛は顔に苦笑いを浮かべる。
「でも、それぐらいしか方法なくない?」
「まあ、検討しとくよ」
そう言った海飛と楓は、ビルの間に挟まって縮こまっている校門を通りすぎ、校舎の中へ入って行く。
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