昨日の君と明日を刻む
茅河臨
第1話
一年で一番太陽の上る時間が長い夏至。
今年の夏至は六月二十三日、今日だ。
梅雨真っただ中の湿った空気の朝七時半。
灰色のブレザーを着た柳沢楓は、通勤ラッシュで混雑を極めている西武池袋線ひばりが丘駅の三番ホームに一人ぽつりと立って、数分後に到着するはずの各駅停車池袋行きの電車を待っている。
西武池袋線は、埼玉県の南西部秩父市から東京都豊島区池袋までを結ぶ大手私鉄西武鉄道の本線の一つで、楓が通っている私立栄中学校高等学校は、このひばりが丘駅から六駅先の中村橋駅が最寄り駅となっている。
栄高校は都内有数の私立共学校であり、生徒数は合計で約千五百人に上る。また、高校の応募をしない完全な中高一貫制なので、楓がこうして通うのも四年目だ。
朝の眠気と闘いながら向かい側のホームを眺めている楓の後ろや横には、スーツを着た社会人、制服を着た学生十人程が二列で並び、手元にあるスマホとにらめっこをしていたり、新聞を読んでいる。
四年間なに一つも変わっていない朝の光景。
突然、線路と線路の間にある黄色のランプ二つが回転して警告音を歌い出す。それに加えて、上からぶら下がっている電光掲示板は、ランプのリズムに乗るように赤色の文字を点滅させる。
ちらりと右側を覗き込むと、黒いガラスと白い縁の顔をした電車が時速約百キロのスピードで近づいてくる。
電光掲示板のスピーカーから
「三番ホーム、電車が通過します。黄色い線の内側でお待ちください」
という駅員の放送が流れる。
このひばりが丘駅のホームは先端に行くにつれて段々と狭くなっていき、最終的には人が数人しか並べない程になる。それなのに、近年増加しているホームドアは設置されそうにもなく、いつ事故が起きるか分からないので心配でしかない。
そう思っていると、轟音と共に電車が楓のすぐそこまで来ている。
いつも通り、このまま何事もなく通過すると楓は思っていた。
けれど、そうはならなかった。
身長は百六十センチの楓と同じかそれ以上、色白で華奢な体つきをしており、セーラー服とブレザーを合わせたような栄高校の制服を着ている。顔の正面は見えないが、後ろで一本に結んである、黒い艶やかな髪がよく似合う、とても子供とは思えない大人な雰囲気。
そして、少女は楓の横から、線路めがけて勢いよくホームを飛び立つ。
「え?」
予想外の出来事に楓の頭は追いつくことが出来ない。
楓の右からは通過電車が時速約八十キロで迫ってきている。
でも、時速八十キロの通過電車、飛びだした少女、回転する黄色のランプ、楓が今見えるものすべての動きがスローモーションになっている。
ゆっくりと流れる時間の中で、楓は必死に短い腕を少女に向けて伸ばす。
が、楓の手が少女を掴むことも、少女が楓の手を取ることもない。
伸ばした手の一寸先を通過電車が過ぎ去っていく。
止まっていると思えるほどゆっくりだった時間の進みが一気に早くなる。
——また、届かなかった。
伸ばした右腕がだらりと力なく垂れる。
ゆっくりと顔を上げて目に入ったのは少女を轢いて尚走り続ける通過電車。そして、血の一滴も付いてないホームのアスファルト。電車の警笛も誰かの悲鳴も聞こえない。
そこにはただ、いつも通りのホームの景色と、まるで変人でも見ているのかのような後ろからの冷ややかな視線があるだけ。
まるで楓だけが違う世界に居たかのように。
「今の……何……だったんだ……」
ぶら下がっている右手を、何かを確かめるように握る。
——また……?
少女の手を掴めなかった時、確かに楓はまた届かなかったという悔しさのような、自分への呆れのような感情が自然と湧き出て来たが、それに問題は無い。けれど『また』という言葉も同時に浮かび上がったのだ。楓がこの世に生まれて来てからの十四年と数か月、しっかりとした記憶がある小学校入学以来から今までで、目の前で人が電車に轢かれるなんて経験は一回もしたことが無い。それなのに何故『また』と思ってしまったのか。少なくとも、今の楓には理解できるものではなかった。
突然、頭が痛くなってくる。
時間が経つにつれて段々と痛みが増していくのが、まるで莫大なデータをダウンロードして脳の容量が圧迫されているかのようだ。
そして、本当にそうなのか、時折、自分自身ではない記憶が目の裏側に投影される。
どこかの砂浜の風景や狭くて少し暗い密室、西武線ではない電車と、あまり関連性が感じられない。が、どこもかしこも見覚えがあるように思える。
それなのに、何も思い出すことが無ければ、分かることもない。
どんどん満たされていく頭とは反対に、心はぽっかりと穴が開いてしまっているように寂しく感じる。
そんな楓を嘲笑うかのように、また黄色のランプが呑気に回りだす。
今度来る電車は通過ではなく、楓の待っていた各駅停車の池袋行き。全体が黄色で銀色の線が横に一つ入っている車体がゆっくりと楓の前を通り過ぎてやがて止まる。
ガタゴト、という音を出して開いたドアを通り、少々混んでいる車内に足を踏み入れる。楓は、空いている席には座らず、奥のドアまで進んで銀色に光る手すりに背を向けて寄りかかる。
そして、いつものように目を瞑る。
眠気は一切ないがこんな訳の分からない現実から早く逃げたかった。
けれど、楓の瞼の裏には、先程の光景がハッキリと映し出される。
飛び出す瞬間、顔の全体は見えなかったが、彼女は笑っていた。それも、自らがこれを望んでいるという程清々しく。
楓が実際にこの目で見て、脳裏に流れ込んできたのは何なのか。何が起こったのか。そして、彼女は何者で何を思っていたのだろうか。その全ては、まるで割れたガラスの破片のように楓の頭の中に散らばっている。
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