真夏の合理性
秋原 零
真夏の合理性
日差しがカンカンと照りつける夏。ミンミンと蝉が鳴いている。夏休み前の終業式を終えた私は制服のネクタイを締め直し、歩みを進める。
私は、夕刻になると必ず行く所がある。自宅から雑木林を抜けた先にある河川敷だ。
「この時間には、いつも彼女がいる」
最初の出会いは今年の春、私が高校に入学して間もない時であった。勉強に疲れ、散歩がてら河川敷を訪れた。ゴツゴツとした岩や、その隙間に生える雑草を踏み締め、私は岸に沿って歩いていた。ふと対岸に目をやると、白いワンピースに季節外れの麦わら帽子を被った少女が大きな石に座り、こちらを見て微笑んでいる。少女の肌は、白く透き通っており、空を背景に溶けていきそうであった。私は恥ずかしくなりつつも、少女に微笑み返した。あれからだ。私は何かに取り憑かれたように、学校終わりの夕刻、毎日河川敷に通った。その度に少女は同じ石に座り、こちらを見て微笑んでいた。私は、川を挟みそれに応えるのだ。
雑木林を抜けた。目の前には、二つの岸に挟まれた澄んだ水が流れる川が広がっていた。私はいつものように、河川敷におりた。そしていつも彼女が座っている石の方に目を向けた。あるはずの微笑みはなかった。よく目を凝らしてみたが、結果は同じだった。私が踵を返そうとした時、背後から声がした。
「いつも来てくれるね」
その声は優しく、空気に溶けていきそうな柔らかさがあった。私は後ろを振り返った。見覚えのある白いワンピースと麦わら帽子が目に入る。彼女だ。いつも対岸にいるはずの彼女だった。私は、いつもと違うこの状態に、ひどく慌てた。私が言葉を失っていると、彼女は
「学生さん?」と訊ねてきた。私は、困惑しつつも
「そうだよ」と答えた。彼女の顔に一瞬切なさが現れたように感じた。そして、彼女はいつものように微笑んだ。私は、ぎこちなくそれに応える。しばらくの沈黙の後、私は
「君も高校生?」と同じ質問をした。しばらく間を置いて、彼女は
「うん。そうだよ」と答えた。彼女は
「私はここが好き。あなたもこの場所が好きなの?」と続けた。偽りになるが、真実を言う選択はなかった。目当てはこの場所ではない。しかし私は
「ここが好き。勉強の疲れが癒やされるんだ」と答えた。彼女は、少し寂しそうな様子を見せつつも、
「じゃあ、同じだね」と嬉しそうであった。
「お勉強してて、えらいね。私は全然」
彼女は舌を出し、そう言った。私は、その表情に心奪われた。動揺しつつも
「夢があるんだ。数学者になる夢がね。だから勉強してるの」と語った。これは、真実だ。少女へ対する後ろめたさが若干薄らいだ。
「素敵な夢ね。数学ってどんな所が面白いの?」
彼女は純粋無垢な表情で私に質問してきた。数学の面白いところか。私が数学に魅了された理由は一つだ。数学は科学という真実と偽りを選別する機能の礎となるからだ。非合理な偽りを排除し、合理的な真実を追求する。未知の命題を真と偽に分ける。その美しさに私は惚れ込んだのだ。私はこの数学が好きな理由をストレートに彼女に伝えた。彼女は不思議そうな顔をしていた。
「非合理なものって偽りなの?」
彼女は質問した。
「偽りさ。だって理に合わないんだからね」
私は答えた。すると彼女は素足に履いたサンダルを脱ぎ、岸に座って水に足をつけた。真っ白い素足と水の境目が溶け落ちたようであった。
「あなたもおいでよ。気持ちいいよ」
彼女は笑顔で私を誘った。私は同じようにローファーと靴下を脱ぎ、彼女の隣に座り、水に足をつけた。水の流れを肌で感じる。
「さっきの話の続きだけど、非合理なものってどんなもの?」
彼女は不思議そうだった。
「科学的じゃないものさ、妖怪とか幽霊とか」
私は答えた。彼女はますます不思議そうな顔になった。
「じゃあ、妖怪とか幽霊って偽りなの」
彼女は続けて質問した。
「まあ、そういうことになるね。そんなものいないし。いたらちょっと怖いかな」
彼女はどことなく悲しげな顔になった。またもや、しばらくの沈黙が続く。その沈黙を蝉の鳴き声が埋めていた。すると彼女は
「人間ってなんで幽霊を怖がるのかな」と問いかけてきた。なかなか面白い質問だ。人はなぜ幽霊を怖がるのだろう。私は、しばらく考えて
「幽霊ってのは、人間の想像の範疇を超えた存在だからだよ。人間は、得体のしれない未知のものを恐れるからね」という答えに至った。
「でも、あなたの好きな数学だって、未知のものを発見しようとするのでしょう、新しい定理とか公式とか。だったらなんであなたは数学が怖くないの。どうして好きなの」
彼女はまたもや不思議そうな顔をした。なかなか鋭い視点だ。確かにそうだ。数学は未知のものへ対しての関心が糧となる。しかし私は数学を恐れない。むしろ、愛している。私の理論でいけば、数学を恐れなければならない。私は、再び考え込んだ。
「数学と幽霊って何が違うの」
彼女は私に詰め寄った。私は、焦りながら必死に考えた。そしてある結論を出した。
「つまり幽霊という存在は、未知のものであり続けると考えているんだと思うよ。科学が発展していけば、学術的な未知は明らかになるけど、幽霊という科学の扱う範囲でない存在は、未知であり続ける。つまり明らかになる見込みがないということだよ。未知のままあり続ける存在は確かにちょっと怖いかもね」
彼女は腑に落ちない様子だった。
「幽霊と人間がお友達になる見込みは、ないってこと?なんかちょっぴり悲しい感じがするよ」
なんて無邪気なんだろう。たいていの人間が恐れる幽霊と友人になろうというのだ。はたから見れば荒唐無稽な話に思えるが、彼女のそんな純粋無垢な発想に私の口角は緩んだ。
「もし、幽霊がいたとして、その幽霊とお友達になるのは嫌?やっぱり怖いと感じる?」
彼女はそう私に問いかけた。どこまでも可愛らしい発想をする。私は彼女の幼さのとりこになった。私は、
「幽霊とお友達になるなんてありえない話だよ。だって幽霊はいないんだから」と答えた。彼女は、むっとして
「そうじゃなくて、もしもいたらの話だよ」と言った。その様子はまるで子供のようであった。私はこの純粋な気持ちを、無碍にするまいと思い、何と答えるべきか悩んだ。もし幽霊がいたとして、その幽霊と友人になるのは、やはり不気味だ。しかしこれを正直に伝えると、彼女の童顔がゆがむような気がした。それに彼女と話すうちに、幽霊に対する考え方も少しずつ変わってきたように感じていた。なので私は
「もしいたとしたら、友達になりたいかも。なんか面白そうだし」と答えた。彼女の表情がパッと明るくなった。
「本当!じゃあ、幽霊と人間がお友達になれる日は来るかな」彼女は無邪気な笑みを浮かべ、そう言った。
「きっと、来ると思うよ。そうなるといいね」私は、彼女の笑みに見惚れつつ、そう答えた。
彼女は鼻歌を歌いだした。私はその鼻歌を聴きつつ、水に浸した自分の足を見ていた。すると、彼女は小さい声で
「じゃあ、私たちお友達になれるね」と呟いた。私は疑問に思った。友人になれるのは、私もうれしいが、なぜ幽霊の話がそういう結論に帰着したのか。そう思い、彼女の方を見た。彼女と目が合う。私の顔を紅潮させ目をそらした。彼女は私の手を握り締めた。その感触は異様に冷たかった。再び彼女の方を見た。彼女の体が透けている。私は驚いた。そして、彼女の細い輪郭はあいまいになっていき、彼女は空気中へと溶けて消えていった。
真夏の合理性 秋原 零 @AkiharaRei
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