ノスタルジーは異世界の鏡を割る

雨色銀水

ノスタルジーの鏡

『美月、待ってて。必ず助けに行くからね』


 今日も月明かりの下で鏡がささやく。制服姿の少女は涙をこらえ、小さな手鏡を抱きしめた。

 異世界ヴィレンの夜空は今日もきれいだ。青と白色をした二つの月が浮かび、淡く発光するオーロラが揺れている。きれいだ、と思うたび、ここが自分のいた世界でないことに気づいて、美月は鏡を抱きしめたまま唇をかんだ。


 この世界に来て、もう一年の月日が流れていた。最初のころは、異世界転移なんて事態に混乱しつつも、どこか冒険心をくすぐられ気分が高ぶってもいた。

 けれど、一年だ。その間に様々な事件や出会いを重ねたせいで、いつしか元いた世界が遠いものに感じられてしまっていたのも事実で。まだ帰りたいという願いを持っていることの証として、美月は今でも制服を着続けていた。


 今日も月がきれいだから、鏡からの声もよく聞こえる。大切な幼馴染の声が聞こえるたび、いつか帰れるのではないかと――そんな幻想にすがり続けたくなって、悲しくなった。


「また、その鏡を見ていたのか」


 不意に足元に影が差して、美月は鏡から顔をあげた。月明かりを背にして、背の高い男性が立っている。印象的な青い色をした長い髪をなびかせ、彼――オーレンは、美月に歩み寄ってきた。


「いつまでも殊勝なことだな。そんな鏡から声が聞こえるわけもなかろうに」

「聞こえるわよ! 信じてもらえなくてもいいけど、確かに聞こえるの。『たか』の声が」


 必死に言いつのっても、オーレンの表情は全く動かない。ただ、鏡を抱きしめる美月を淡々と見つめるだけだ。

 オーレンはこの世界でさまよっていた美月に手を差し伸べてくれた、最初の一人だった。異邦人である美月を疎んじることもなく、辛抱強く助けてくれた。


 それでも彼は、断固としてこの鏡から聞こえる声のことだけは信じてくれない。そんなものは所詮、戻れないからこその幻想、ノスタルジーだといつも吐き捨てる。


「それで? その『たか』とやらの声が何か役に立ったか? この一年、その声がお前を守ってくれたことがあると?」

「それは……! だけど、声が聞こえるってことは、この鏡と私の世界は繋がってるってことでしょう? だったら、いつか帰れるかもしれない」

「俺には何も聞こえない」

「だからそれは、オーレンがわたしの世界の人じゃないから……!」


 美月の言葉に、オーレンは薄く笑う。嘲笑とは違う、少しだけ苦さを含んだ笑みだった。


「異邦人は元の世界には戻れない。それがこの世界の摂理だ」

「だとしても! 鏡から声が聞こえるもの。たかは絶対に私を助けてくれる」

「ありえない。どうしたって戻れないということは、お前だってわかっているはずだ」


 これまで何度も繰り返されてきた言葉に、美月は唇をかんだ。異世界ヴィレンには定期的に異邦人が流れ着く。その数は多くないが、元居た場所に帰りつけた人間は誰もいない。


 それは、異世界からの来訪者を管理する一族であるオーレンから見れば、明白な事実だったのだろう。異邦人は例外なく、この世界で生きて死んでいくしかない。たったそれだけの事実が、美月はずっと受け入れられなかった。


「だって、たかはずっと言ってる。助けに行くからね、って」

「お前はいつも同じことを言っているな。鏡の声に変化はないのか」

「……っ」

「……自分が元いた世界に帰りたいと思うのは、当然のことだ」


 何も言えなくなってしまった美月の肩に、オーレンが触れる。その手のぬくもりは、どんな世界にあっても同じであるのに、どうやっても元の世界にはつながらない。

 それが悲しくて、苦しくて。美月の目から熱いものがこぼれ落ちる。どうやったって戻れないとわかってもなお、美月はずっと、事実から目をそらし続けていたかった。


「私、帰れないの? もう二度と、お父さんやお母さん……それに、たかにも会えないの?」

「……戻れないよ。たとえその鏡に祈ったって、もう二度とな」


 オーレンの優しさが、胸を切り裂いてしまう。美月の手の中で、鏡は冷たい感触しか返さない。本当はとっくの昔にわかっていた。この鏡に映りこんでいるのは、結局のところ自分自身の願いだけなのだということは。


「嫌だよ」


 現実を拒絶できるだけの想いなんて、もうほとんど残っていない。どんなに泣いても叫んでも、目の前にある世界は元の姿を取り戻さない。こんなやり取りだって本来は無意味なのだと、ずっと前から気付いている。


 それでも嫌な顔一つしないオーレンは、どんな思いで美月を見ていたのだろう。少しだけ痛々しい目をした男に向かって、美月は叫びをぶつけた。


「ここは私のいる場所じゃない。ここには私の好きな人たちはいない。なのに、私はここで生きていかないといけないの? 何が悪かったっていうの? 私、悪いことしたからこんなところに飛ばされたの? 私が、悪かったから?」

「お前は何も悪くない。悪いのは世界の方だ」

「じゃあ! じゃあ、帰してよ! 私を、私の世界に!」

「無理だよ」


 無慈悲な言葉が心をばらばらにした。帰りたいのに帰れない。帰り道を失った迷子のように、美月は涙を流す。どうせ帰れないなら、こんな場所で生きる意味なんてない。


「その鏡から聞こえる声は、希望なんかじゃない。美月の……心残りが見せているだけの、幻想だ」


 はっきりと口に出されてしまえば、もう目を背けることができない。美月は光を弾くだけの鏡面に問いかける。


「たか、たか……答えてよ。私の声が聞こえているなら、答えて!」


 言葉は返らない。波紋一つ生まれないガラスには、懐かしい顔さえも映り込まない。

 『助けに行く』なんて、美月の心が形作っていた幻だった。ただそれに縋っていなければ心を保てなかった頃の、優しいだけの虚ろな声。


 都合のいい幻想で誤魔化して、現実を見なかったのは美月自身だ。オーレンは長い間、美月の儚い夢に付き合ってくれただけに過ぎない。


『美月、待ってて。必ず助けに行くからね』

「うそつき」


 鏡を振り上げる。嘘つきなのは自分自身の心だ。戻ることが叶わないとわかっていたくせに、こんな幻で自分を誤魔化し続けていた。


 ――けれど、もうそんな夢はいらない。

 鏡を地面にたたきつける。脆いガラスは簡単に砕けて、きらきらと宙を舞った。輝きの中に涙が落ちる。さようなら、『私』の夢。もう二度と戻らないことを願っているから。


「もう、いいのか」


 オーレンが静かに問いかけてくる。美月は顔を上げ、涙をぬぐった。


「うん。……もう、いいわ」

 ただひたすらに、混じりけのない笑みで空を見る。



 もう二度と戻れないから、自らの意志で鏡を割った。

 ばいばい、私の世界。私は私の意志で、この世界を生きていく。


   【了】

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