その橋で祈りし事

ちびゴリ

その橋で祈りし事

「え?よく聞こえなかったんだけど」


 思わず足を止めてそんな言葉を発したものの、実際のところ頭の中で受け入れまいとしていたのかもしれない。


「だから、おばあちゃんが―――」


 掛けてきた相手は実家の母親だった。病に臥せっているなんて話は聞かされていたけれど、まさか亡くなるなんて。こんなことなら無理をしても一度くらいは帰っておくんだったと、二言三言話すと私は液晶にそっと指を触れた。


 ただでさえ重い足取りがさらに重くなって、しばし私は歩くことさえ出来ずにその場所に佇んでいた。無理もない。今日は仕事でミス続き。実家からの電話はダメ押しみたいだった。



 MS工業という自動車関連の会社に就職したのは一年前のことだ。従業員は全体で100人ほどの中小企業。仕事は主に事務だが、女子社員もそこそこいる割に私はいつも孤立していて、お昼ご飯も一人で食べていた。仕事上の会話はもちろんあるけれど、プライベートの付き合いは皆無。従って飲みに誘われることは一度もない。


 要するに仲間外れなのだ。自分でも人付き合いが苦手なのはわかっていた。だから特に落ち込むでもなく、時間から時間を過ごしてただ家に帰るだけ。毎日がそんな繰り返しだ。


「普通に出来るあなたが普通じゃないこともあるのね」


 励ましているのか皮肉ってるのかわからないような先輩の秀美さんの言葉に、とりあえず謝ってはみたものの、立ち去っていく時に小声で「ブスが」というのが耳に届いた。すぐに自分のことだと思った。


 そんな悪態をついても何もなかったかのような笑顔を浮かべて、若い係長に色目を向けるのだから変わり身の早さには驚かされる。


 中道係長。同期の男性はよく昌平と下の名で呼んでいる。


「中道係長~っ。今度飲みに連れて行ってくださいよ~」


 あんな秀美さんの性格が時に羨ましくも見える。私には出来ない芸当だ。


 中道係長はちょっとしたイケメンで、女性社員からも人気があった。背もスラッとして性格も優しい。ミスをした時、私も何度かフォローしてもらったりした。でも話すのは仕事の話だけ。話しかける勇気もないし、きっと会話は成立しない。



 仕事を終え夕暮れの中を一人歩くと、仕事のミスと祖母の話が重なって思わず目頭が熱くなった。なんだか私一人だけが不幸のような気がして、いくら口をギュッと引き締めても目元までは締められなかった。


「おばあちゃん・・・」


 思わず口から零れた。その直後だった。俯いて下を見ていたはずなのに、何かにつま先を引っ掛けたみたいで、ほとんど大の字のように全身を強打した。もう最悪を超えている。どこからともなく数人の笑い声が耳に届く。恥ずかしさのあまり慌てて立ち上がろうとすると激痛が走った。


「痛っ・・・・」


 痛みの本源と辿ると有り得ない感触が指に伝わる。ストッキングが破れていて、仕事でささくれた指先が赤くなっていた。悪い事は重なるってこういうこと。

 その数時間後、私は実家の和室で大の字になったまま溢れ出した涙を畳に落としていた。



「レオ!」


 久しぶりに実家に帰った私は沈んだ気持ちを少しでも浮かせようとその名を口にする。レオは私が小学生の高学年の時に家に来た犬で、何度も散歩に行ったりと思い出は数えきれない。社会人になってなかなか会えなくなってしまったけれど、実家に帰った時は家族よりも先にレオが出迎えてくれた。


 そのレオが姿を見せない。きっと散歩にでも。そう思って母親に尋ねると、母親は視線を落とした。


「後を追ってったんかね~」レオは私が到着する数時間前に亡くなって段ボールに入れられていた。


「ミチコ。悲しいのはわかるけど―――」


 いそいそと通りがかった母親が足を止めて呟く。



 ミチコ。



 私はこの名前も好きじゃなかった。みっちゃんみちみちと小さい頃はよくからかわれた。お母さんは奇麗だとよく言われた。娘だから似ているとも。でも、鏡を見た時にそんなことを思ったことは一度もなかった。


 化粧っ気が無いから。たぶん、それだけが理由じゃないんだろうと、会社勤めを始めてから何度思っただろうか。


 喪が明けて仕事に戻っても、つまらないミスが多かった。それでも身内が亡くなったことで周りの人もある程度は配慮してくれているが、いつまでもこの調子ではだめだと自分に言い聞かせた。



 その声は届いていなかったのか、会社の二階の食堂でお昼ご飯を食べた後、お母さんからLINEが来てると、画面を見ながら階段を下りていたら、途中で足を踏み外し、気が付くと固い床の上で蹲っていた。それを誰かが見ていたのだろう。「ドジッ」と吐き捨てるような声が聞こえた。


 持っていたはずのスマホは手元には無かった。あちこちから伝わる痛みに苦悶の表情を浮かべながら私はスマホを探した。


 ちょうどその時だった。


「大丈夫かい?長澤さん」と温かいトーンの声が届いた。


 慌てて顔を向けると中道係長が手にしたスマホと私の顔を交互に見ている。もしかして落ちるところも見られちゃったのかと目を逸らした。


「ケガは?」「あ‥いえ…大丈夫です」


「そう…あ、画面割れちゃったみたいだよ」


 差し出されたスマホを見て、色づいた顔が青に変わるようだった。手に取ったスマホは先月買ったばかりだった。その液晶には無残とも言えるヒビが入っていて思わずため息を漏らした。


「長澤さん。このところアンラッキーなことが続いているみたいだから、一度お祓いでもしてもらったらどうかな?」


「お祓い…ですか」


 爽やかな声を聞きながら私は独り言のように呟き返した。


 その場しのぎに出た係長のジョークだと初めは思っていた。だが、積み上げられたかの不幸に、なんでこうなるんだろうって信仰もしてない神様を呪った時、私は心の中で「あっ」とつぶやいた。


 ただのこじ付けに過ぎないのかもしれない。でも神様とお祓いという言葉が神聖な紅い色に結びついた。いつだったか仕事帰りに招かれるように入った路地の先の橋だ。紅く塗られた小さな橋。


 私は躊躇いながら近付いた。ふと目を端に向けると『願い橋』を記されていた。


 橋の中央まで歩いて下を見下ろす。眼下には水が流れていなかった。


 平凡過ぎて退屈な毎日と橋の名前からつい祈っていた。するとそれまで全くなかった風が突然私の髪を揺らした。嫌な出来事が起こったのは確かそれからだったような…。


(もしかしたら…あの願い事のせい?)


 霧のような根拠だけれど私はあの橋にもう一度行ってみようと決意した。




 夕方、仕事を終えた私は記憶を頼りに建物の間の路地を曲がった。あの時はただ闇雲に歩いてたので、覚えているものはほとんどないに等しい。何となくという勘だけが頼りだ。


 狭い路地を曲がる。しばらく行くと袋小路になっていた。慌てて引き返す。次の路地を右へ折れる。ここも違った。そんなことを繰り返す間にどんどん陽光は明るさを失っていく。それを見て急に閃いた。スマホで調べれば良いんだ。


 地図のアプリでこの周辺を探せばきっと見つかる。なんでこんな他愛もないことが浮かばなかったのかと、我ながら呆れて笑いさえ零れた。ポケットからヒビの入ったスマホを取り出す。そして、恐る恐る画面に二度ほどタッチする。


「!?」


 会社を出る時にはちゃんと使えたのに全く反応が無い。もう一度タッチする。やはりダメで画面には何も表示されなかった。もしかして壊れた?私はガッカリしながらそれをポケットに戻した。こうなれば自分の足で探すしかないと再び歩みを進める。


 とは言え、いくら歩いても見つからない橋に、次第に無駄な抵抗という文字が浮かび始めた。この路地を進んで見つからなかったら諦めて家に帰ろう。そう思った時、視線の先に黒みがかった紅が映った。


「あった」と思わず足を止める。同時に口元が少しばかり緩んだ。


 一つなくて完成できないジグソーパズルのピースが見つかったような気分だった。


 やっとたどり着いたと、あの時と同じように橋の真ん中に立った私は、手だけ合わせ一言心の中で祈る。するとあの時と同じように私の髪が揺れた。アパートに帰ったのはそれから一時間後だった。




「長澤さん。常務が呼んでるみたいよ」


 背後から聞こえた声に私の身体は一瞬にして強張った。緊張で頭はプチパニックに陥ろうとしている。


(もしかして…クビとか…)


 立て続けに起こる不運な出来事に、もはや私は悲観的なことしか考えられなくなっていた。


 恐る恐るドアをノックする。それから常務の言われるまま椅子に腰を下ろした。常務の近くには工場長が立っていた。


「先月の発注書の件なんだがね」そう聞いた途端、私は下に視線を落とした。


「毎月100個程度しか頼まない部品の数が1,000個になってて、取引先から連絡が入ったんだよ」


 やっちゃったと咄嗟に思った。完全な入力ミスだ。すみませんと口を開きかけた時、


「それでとりあえずオーダーが入った分は何とか確保するって言ってくれたんだが、君も知っての通り今月に入ってから海外の工場の稼働が悪くてね。つまりは今月のオーダー分の納期はしばらく先になるようなんだよ」


 そう言って常務は明るく笑った。私は聞いているだけで何も話せなかった。


「通常なら過剰な在庫と社長から大目玉を食らうところだけど、今回に限っては社長も先見の明があると上機嫌だ。なんせ他の会社はこの部品が底をついて製品が出来ず未納続出だからね」


「いえ…そんな…私は…」そこまで言ったところで工場長が右手を挙げた。


「不幸中の幸いというと聞こえが悪いだろうから、ファインプレーってことで」



 それから何を話したのかはよく覚えてないけれど、自分の指定席に戻った時には張り詰めた緊張がほどけて全身から力が抜けていくようだった。


「あのさ・・・」


 その日、帰り支度をしている時に中道係長から声を掛けられた。


「工場長から聞いたよ。ファインプレーの話」ただの入力ミスが、いつの間にか独り歩きしてしまっている。良いのか悪いのか私は答えに窮した。


「そうそう、それで良かったら。これから飯って言うか───」誰にも聞こえないような声で係長は周囲を気にしながら呟いた。


「もし、都合が悪いんだったらいいんだけどさ」「いえ…そんな…ハイ」


 好意だけ仕舞い込んでいた人からの誘いに戸惑ったけれど、私はただ首を縦に振ることしか出来なかった。どんな味だったのかもわからないほど夢のような時間だった。ほとんど仕事の話もせずにあれこれと楽しい話を係長は聞かせてくれた。


 LINEも交換し、それから何度目かの食事の後だった。

「これから付き合ってもらいたいんだけど――」


 突然の告白と思ったけれど、それは私の勘違い。誘われるまま向かった先は美容院だった。


「うちの姉貴がやってる店なんだ」


 看板の明かりが消された店内に足を踏み入れると、二人を待っていたように微笑みながら女性が歩み寄って来た。


「いらっしゃい。こちらね。噂の彼女って方は」


 意味も分からずキョトンとしていると、お姉さんはお客さんを案内するように私を椅子に座らせた。


「そうね~?髪も切ろうと思うんだけど任せてくれるかしら」急な出来事に私は戸惑ってしまった。

「えっ?…ええ。でも…今日はお金が…」


 すると近くにいた係長が、「今日はサービスデーだから安心して良いよ」と楽しそうに笑った。


 手際よくカットされ、それからメイクもしてくれた。私の前にある鏡は何かで覆われていて自分の姿は全く見えない。どのくらい経ってからか、お姉さんが覆っていたものを外した。


「素敵よ。思った通りベースが良いわね」


 鏡に映る自分を見て驚いた。


 これが私。なんだか別人みたい。そういえばお母さんにも似ているかも。


 何気に振り向くと係長と目が合った。優しく微笑んでくれている。私も微笑み返した。


 使ったコスメは奇麗な紙袋に入れて帰り際に手渡してくれた。お金は後でお持ちしますと言うと、お姉さんは首を振って、「お代はそちらの男性からいただきますから」と係長に目を向けた。


「付き合ってなんて言うから最初ビックリしちゃった」


 お店から出て二人で肩を並べて歩いているとき私はつい苦笑を浮かべた。すると「あれは店の話だけじゃなくてさ」と係長は歩きながら呟いた。


「え?」思わず足を止める私に、「答えはすぐじゃなくてもいいから」そう言って暗い空を見上げながら係長は歩き続けた。



 翌日、教えてもらった通りにメイクを済ませて出勤すると誰もが私に注目した。


「新しい人?」などという声も聞こえた。秀美さんは気が付いたようだが、口はあんぐりと開けたままだった。余所余所しかった男性社員から話しかけられる機会も増えた。


 それからどのくらい経ってからか、係長という肩書は、仕事を終えた途端、彼へと名を変えた。


 悪い出来事が一転した。きっとあの橋のお蔭かもしれないと、私は再び訪れてそのことを報告しようと思った。以前そのことは彼にもしていて興味を持ったようだ。俺も一緒に行きたいと二人で行くことにした。



 あの日のように道に迷ってはいけない。私は新しくしたスマホで地図を表示させる。実は壊れたと思ったスマホはその後は普通に使えていた。なぜあの時だけ使えなかったかは未だに不明だ。


 地図を見ながら細い路地を曲がった。二人で歩いているからか殺風景な景色ですら明るく見えた。しかし、私を嘲笑っているかのようにお目当ての橋は地図にも目にも現れない。まるで迷路ゲームを楽しむカップルのようだった。夢中で画面をスクロールさせる。橋も川も表示されず、途方に暮れかけた時だった。


「あ!あの建物よ。その先の脇道を入るの」


 ようやく見つけたとばかりに二人で速足で歩いた。だが、そこには人が通れるほどの道は無かった。


 唖然と立ち尽くす私に、


「今日は一人じゃなかったから神様に嫌われちゃったかな」と、彼は優しく微笑んだ。


「神様?」「そう。きっとあったんだろう」


 嘘とも勘違いとも言わない彼の言葉が心の隙間を埋めて行ってくれる気がした。


「そういえば、どんなこと祈ったか聞いてなかったっけ?」


 その問いに答えようか迷っていると遮るように彼は掌を向けた。


「やっぱりやめよう。願い事は秘密にしておいた方がいいから」

「そうね」と私は微笑み返した。


 夢物語だったのかと、今でもふと考える時がある。嫌なこともあったけれど、たぶんそれは祈らなくてもきっと起こった。人も動物もいつかは死ぬし、不注意からケガだってする。だからこの恋も祈ったからではなく、言葉にすることで自ら引き寄せたんだろうと思えるようになってきた。




 あの出来事から二年と二ケ月。


 今日も私はお掃除やお洗濯、そしてお買い物と平凡な生活を繰り返している。それでもあの頃と違って今は胸を張って幸せと言える。


 玄関から出た私は夫となった昌平を満面の笑みで見送った。


「いってらっしゃい!」

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