ネヌ

結騎 了

#365日ショートショート 148

 と出会ったのは、ボーイフレンドに手厚く振られた帰りだった。


 君には俺よりふさわしい人がいるから、なんて、自分だけが気持ちのいい振り方。こんな男と付き合っていたなんて虫唾が走る。その優しい言葉がどれだけ小狡いか、自覚がないのが恐ろしい。

「よお、姉ちゃん。しけたつらしてるな」

 薄暗い高架下で、私はに話しかけられた。ガタン、ガタンと、忙しく行き交う電車の音に紛れた幻聴だと思った。だって、そこにいたのは段ボールの中の動物だったから。湿ってよれた段ボールに包まれて、泥まみれの毛むくじゃらがむくむくと動いていた。猫だろうか。いや、犬だろうか。どちらにせよ、傷心か怒りで頭がおかしくなった私のせいだろう。

「そうじゃない。俺はお前に話しかけたぞ」

 毛むくじゃらはすくっと立ち上がり、その目でまっすぐ私を見た。脚があった。尻尾もある。しかし、これはなんだろうか。猫のように三角の耳が伸び、長い髭も生えている。でも、全体の体つきは…… どう見ても犬だ。猫のような曲線の体つきではない。直線で、凛々しく立っている。なんだ、これは。

「ああ、言わなくていい。姉ちゃんがなにを思っているか、俺には分かる」

 あろうことか人間の言葉で喋っている。イケオジとでも言おうか、渋い声だ。その昔、人面魚のゲームが流行したとワイドショーで見たことがある。あの時に感じた奇妙な感覚が、脳裏から一瞬にして蘇った。私は気でも触れてしまったのだろうか。

「ごめんなさい、あの、私、家に帰るところなので」

「奇遇だな、俺もそろそろ宿が欲しかったのよ」

 てくてくと、は私の後をついてきた。高架下を抜け、街灯に照らされた路地を歩きながら、何度も振り返る。絶対に、いる。いる。付かず離れず、1メートルほどの距離を保ちながらは歩いていた。余裕のある歩調を見るに、仮に私が駆け出してもすぐに追いつかれるだろう。あの四本の脚は犬なのだ。私が振り払えるとは思えない。嗚呼、なんてこと。なんでこんな妖怪のような生き物に纏わりつかれなきゃならないのよ。災難だわ。

「残念だな、姉ちゃん。俺は妖怪じゃあないのよ」

 えっ、今、私、口に出してたっけ。いや、そんなことはない。あいつ、私の考えていることが分かるのかしら。どういうこと。妖怪じゃなかったら……

「宇宙人でもないのさ。見ての通り、猫であり犬だ。俺のことはネヌと呼んでくれ。猫のネと、犬のヌ。どうだ、覚えやすいだろう」

 渋い声で自己紹介され、私の頭はどうにかなりそうだった。ネヌ、だって。さっぱり事態が掴めない。私はあいつに食い殺されでもするのだろうか。まあ、でも、それならそれでいいや。あんな男と付き合ってた私の人生なんて、いっそ無くなってしまった方がマシよ。


 困惑か、怒りか、諦念か。やや乱暴に鞄をまさぐり、キーケースを取り出す。後ろを警戒したのも束の間、改めネヌは玄関に滑り込んできた。「お邪魔するぞ」。誰も招待などしていない。変な動物を家に上げてしまった。まあ、でも、いいや。こんな夜には話し相手がほしい。

 ネヌは勝手に風呂場に入り、あろうことかシャワーを浴び始めた。猫の顔をした犬が、二本の脚で立ってシャワーを浴びている。その信じられない光景に、ははっ、と乾いた笑いが出た。やっぱりこれ、幻覚かな。私は、もう疲れた。今日はシャワーをさぼってしまおう。

 プシュッと、冷蔵庫に一本だけ残っていた缶ビールを開ける。私はビールなんてろくに飲めやしない。あのクズが置いていった土産だ。でも、飲まずに捨てるのもなんだか癪。ぐびぐびと喉にそれを叩きつけ、込み上げるゲップを飲み込む。

「やけ酒はやめておけ」

 タオルで体を拭きながら、ネヌがリビングにやってきた。

「いきなり人の家のシャワーを浴びるあんたに言われたくないわ」

「それもそうか」

 自嘲ぎみに笑いながら、ネヌは自分の右腕…… 前脚の片方をじいっと見つめた。すると、にょき、にょき、にょき、と。脚はおもむろに膨れ上がり、硬質の、白い塊になっていく。「なにそれ」という私の問いが終わらないうちに、ネヌの右腕はドライヤーになっていた。

「なにって、毛を乾かさなきゃならんだろう」

 ゴーーーっと、けたたましい温風の音。私は一体なにを見せられているの。体の一部を変形させられる、新種の動物。妖怪ではないらしい。宇宙人でもないらしい。それでは、こいつは……

「ペットだよ、ペット。猫であり犬」。ネヌは、丁寧に毛並みを整えながらドライヤーのスイッチを切った。「猫は人間のペットだろう。犬だって同じだ。だから、俺はペットなのさ。どこまでいってもな」

 試しに頭をぶるんと振ってみる。だめだ、醒めない。これは夢じゃないらしい。もう一度ビールを流し込む。ごくんっ、と、それで

「それで、私になんの用なの。どうしてうちに来たの。私、今日はちょっと荒れてるんだけど」

「そうだろうなあ。ボーイフレンドに丁寧に振られた晩だもの」

 その得意げな顔が憎らしい。どうやらこのネヌ、私のことはなんでもお見通しらしい。

「なあ姉ちゃん、知ってるかい。ペットっていうのはな、飼い主が求めるものになるのさ」

「どういうこと」

 もういい。今夜はとことん、こいつの訳の分からない話を聞いてやろう。

「猫を飼う人間はな、憧れているんだ。猫みたいな自由気ままな生活が。誰にも縛られない、その日暮らしのような生き方にな」

「じゃあ犬は」

「忠犬って言うだろう。犬は律儀で、上下関係を重んじるペットだ。犬を好んで飼う人間は、その上下関係が好きなのさ。犬を従えることに愉悦を覚えている。よほど、実生活で誰かの下なんだろうよ」

 そうだろうか。いや、そうかもしれない。実際に猫であり犬である生き物がそう言うのだ。そうなのかもしれない。

「じゃあ、ネヌはなにを反映しているの」

 待ってましたと、私の質問をしたり顔で受け止めながら、ネヌは答えた。

「分かっているんだろう、姉ちゃん自身が」

 自分が求めているものを、ペットは反映する。飼い主に不足している感情を、埋めようとする。そう考えたその時、ネヌの体がおもむろに、ぶくぶくと膨らみ始めた。にょき、にょき、にょき。さっきのドライヤーの比ではない。体のサイズが変わっていく。縦に伸び、腕が生え、脚も、そして股間の間には……。瞬く間に、そこには成人男性が立っていた。数時間前、私に優しい笑みで別れを告げた、あの男の顔だった。

「やめて」

「分かっているんだろう」

 ネヌの声は、あいつの声だった。あいつが覆いかぶさってくる。何度も撫でた胸板が、嗅いだ汗の匂いが、しがみついた肩が、私の感情にふたをしようとする。「やめて、って、ばっ……」。次第に小さくなる声。いつもそうだ。迫られると私は弱い。つい、こうして体を任せてしまう。

 高熱にうなされたかのように、私たちは求めあった。それは何度も知った体だった。彼のものが、深く優しく私を貫く度に、押し出されるように吐息が漏れた。そう、これは嫌いじゃない。どうしても嫌いになれなかった。でもこのひとには、私以外のひとがいるのだろう。クソ野郎。クソ。クソ。クソ。悪態をつきながら、幾度となく果てた。倒れた缶から流れ出たビールが、カーペットに染みを作る。それは少しずつ広がり、緩い刺激臭を漂わせた。分からない。それを思考の隅で嗅いでいる私は、一体なにをしているんだろう。もう、どうにでもなってしまえばいい。彼の腕の中で、私は意識を閉じた。


 小学生の声が聞こえる。

 このアパートの横は通学路だ。誰かの腕の温度を感じたと思ったが、どうやらそれは錯覚だったらしい。恐る恐る目を開けるも、部屋には私だけがいた。あれ、あの男は。ネヌは、どこにいったのだろう。右から、視線を横切るように飛んだ蝿がカーペットに止まった。さそがし美味しかろう、ビールの味は。立ち上がり、蝿ごと乱暴にカーペットを丸めた私は、ビニール紐でそれを縛った。これは捨ててしまおう。そうだ、あいつと何度も寝たこの布団だって、捨ててしまおう。ふふっ、誰かに話したら笑われるだろうか。猫でも犬でもない変な生き物と一晩を共にしたと言ったら。夢だと馬鹿にされるだろうか。うんん、さっきのカーペットには沢山の毛がついていたもの。ドライヤーで散れたんだわ。でも、見なかったことにする。私がそうしたいから。

 上司に電話して、嘘をついてしまおう。今日は気分が悪いんです。丸っきり嘘だ。カーペットを捨てて、ついでに布団を捨てて。シャワーを浴びてから、お気に入りの服を着て……。

 さて、ペットショップにでも行こうかしら。私がなにを飼うか、あの渋い声に見せてやらなきゃね。

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