足跡

秋原 零

異端の足跡

 皆寝静まり誰もいない大通りに、こつんこつんと足音が響く。視線を落とし、薄明るい街灯に照らされながら、ポケットに手を突っ込んで歩みを進める、死に場所を探しに。背負ったリュックサックの中の縄の存在を外から掴んで確かめる。

「さてどこにするか」

 私が社会のレールを外れ始めたのは、いつからだろう。自分の異常性には、早くから気づいていた。あれは、小学一年の頃であったか、何人かが集まって校庭を探検していた。私は、その集団に三メーターほどの距離を取り、ついていった。集団は、校舎の裏や中庭、裏山に続く道などをどんどん探検していく。その歩みに遅れるまいと私は、やはり三メーターほどの距離を取り、必死についていく。ちょうどプールの横に差し掛かったところであろうか、集団の一人が後ろを振り返り、私を怪訝そうに見つめた。

「ついてこんで」

 振り返った少年は、私にそう吐き捨てた。

 あの時からだっただろうか、私が「普通」に固執し始めたのは。「普通」とは正に、砂のようであった。つかんでもつかんでも手から零れ落ちていく。どれだけ望んでも、どれだけ藻掻いても、どれだけ泣き叫ぼうと、決して手にすることのできない存在、それが「普通」だ。私は中学以来、不登校だ。周りから奇異の目を向けられ、排斥された結果だ。何度か精神科に連れていかれた。そこで私は、自閉症と診断された。私は普通ではない、すなわち異常と正式に認められたわけだ。それは、私と社会の隔たりを一層深めた。

 どこまで歩いただろうか。そう思い、目線を上にあげた。カラフルな雑居ビルが目に入る。秋葉原だ。

「つまらないところに来てしまったな」

 秋葉原は異常な街、異端とされた魑魅魍魎の行き着く街だ。アニメやゲームのキャラクターといった架空の存在に成り切ったり、恋をしたり、「普通」では考えられない愚行だ。正に、「普通」を求める私には、忌むべき場所だ。こんな場所早く出ようと、足早に駆けだそうとしたとき、私は何者かに声をかけられた。

「こんな遅くに何してんだ」

 薄暗い夜を背景に、ひときわ黒い影が見える。じっくりと目を凝らす。黒のスラックスに黒のカッターを着たくたびれた男が立っている。年のころは、二十代後半であろうか。声の主はこの男のようだ。私は、ホームレスか何かだと思った。最近は、ホームレスでもある程度小綺麗にしているものだ。私は、これ以上関わるまいと踵を返そうとした。すると、

「待て、俺に付き合え」という声がした。何故私が、見ず知らずの男に付き合わねばならないのかと静かな怒りを覚えつつ、危ない人間に絡まれてしまったという恐怖を感じ、走りだそうとしたその時、腕をぐっと掴まれた。私は、思わず振り返った。男の顔が間近に見える。無精ひげが目立ち、やはりどことなくだらしない印象だ。

「お前をこのまま行かせる訳にはいかない」

「何故です。私とあなたは無関係じゃないですか」私は、言い放った。

「俺の街で死体になってぶら下がられちゃ、困るんでね」

 男はそう返した。私は、ぎょっとした。何故この男は、そのことを知っているのか。激しい疑念と、えも言えぬ不気味さに包まれた。

「………」

私は沈黙するしかなかった。

「話を聞かせてくれないか」

 男は、どこか不思議な笑みを浮かべ、私に問いかけた。自分でもわからない。見ず知らずの男に私は言葉を発していた。

「私は、異常なのです。社会に馴染めなかった異端児」

男は黙って聞いている。

「こんな私は、もう社会では生きていけない」

 男はにたりと笑った。

「なるほど。自分で言うのだから、お前は本当に異常なのだろうな」

「はい、そうなのです。だからいつも「普通」に憧れていました。今だってそうです」

「はっはっははは」男は大声で笑いだした。そして

「これも現代日本の愚かしさの一つなのだろうな。いや、日本と言わず、世界中の人間の習性かもしれん」と続けた。

「どういうことです」私はむっとした。

「まあ、缶コーヒーでも飲みながら話そう」と男は言うと、近くの自販機に行き、二百円を入れ、缶コーヒーを二つ買った。そのうちの一つを私に手渡し、近くの垣根に座った。男は口を開いた。

「いいか、人間ってのは、異端を徹底的に排斥しようとする。自身の想像の範疇を超えたものに恐怖するからな。異端とは、正に想像の範疇を超えた存在だ」

「そして異端に対して否定的な評価を下す。時代や場所を問わず普遍的な現象だ」

「俺も最初は世間の異端へ対する評価を鵜呑みにしていた。そして「普通」に憧れていた。お前と同じようにな」

 私は男の冷静な分析に驚くとともに、どことない親近感を覚えた。

「一流の大学に行ったさ。そして、一流の企業に就職して、世間でいう高給取りになった。だが今は、こうして秋葉原で漫画家をやっている」

 私は衝撃を受けた。

「どうしてそんな素敵な生活を手放したんですか」

私は問いただした。

「その答えは、ここにはない。少し歩くぞ」

 そういうと、男は立ち上がり、歩き出した。男の正体が気になり始めていた私は、着いていくことにした。男が歩く。私は、あの時と同じように、三メーターほど距離をとり男に着いていく。

「どうした。そんなに離れてちゃ、話せ無いだろ。近くに来い」

 男に促され、わたしは男の隣に行った。

「お前、いくつだ」

「十八です」私は答えた。

「十八か。多感な時期だもんな」

男は、憐れみつつ、納得した様な様子だった。指先から伝わる缶コーヒーの温もりが、私に一抹の安堵感を与えた。その安堵感に促される様に私は

「私は大学受験に失敗したんです」と明かした。

「異常な私ですが、勉強だけはできました。だからそれだけが自分の取り柄だと思っていて……」

私にとって勉強は唯一の取り柄だった。人並みにできるこれで社会を渡っていこうと思っていた。これが自身を「普通」へ導くたった一つの架け橋だと信じていた。だからこそ、今回それを否定されたことは、私の心を鋭く抉ったのだ。「普通」に憧れていたからこそ。

「なるほど」

 男は一言呟くと沈黙した。沈黙の中の足音は一際うるさく聞こえた。私が缶コーヒーを飲み終え、居た堪れなくなってきた頃、

「着いたぞ」という声がした。私が顔を上げると、眩しい光が目に飛び込んできた。それはネオンの光であった。小さなビルの一角をネオンが彩っている。光り輝く看板には「月光書房」の文字が見えた。まさに私の嫌う秋葉原を集約したような様相であった。

「ここ、本屋ですか」

「本屋といえばそうだが、普通の本屋じゃない。まあ入ってみればわかるさ」

男はそういうと、店の錆び付いた鉄の扉を開けた。鈍い音を立てて扉が開く。私は、男に促され中に入った。店主と思しき初老の男がカウンターに座っていた。

「いらっしゃ…、おや千田先生じゃないですか」

 どうやら男は千田という名前で、この初老の男と知り合いのようだ。

「先生ってのは、やめてくれっていつも言ってるじゃないか、おっちゃん」男は恥ずかしげだった。

「そちらの方は」私のことに言及した。

「こいつか。ついさっき見つけた迷える子羊さ」

私はなんだか侮辱された様な気がした。

「「足跡」あるか」

男は初老の男に訊ねた。

「ありますよ。なかなか売れなくて、今倉庫で埃かぶってます」そういうと、初老の男は、奥に入り、暫くすると、埃だらけの両手に乗るほどの小さな紙製の箱を持ってきた。遠くからだが、箱の面に一人の少女が描かれているのがはっきりと見えた。これが「足跡」なのか。千田はそれを受け取ると、私を店の奥の休憩スペースのような所に座らせた。何も分からず、私は沈黙していると、男が口を開いた。

「これはな、アダルトゲームなんだ」

私は理解に苦しんだ。なぜこの状況にアダルトゲームなのか。

「さっきから何なんですか。私のこと馬鹿にしているのですか」

 私は、怒りに身を任せて、そう言い放った。

「そういうのも無理もない。ふざけていると思うだろう。でもな、俺は真剣だ」

「このゲームはな、俺がキャリアを捨てて、漫画家を目指すキッカケを作ったのだよ」

 私はますます理解に苦しんだ。なぜ、アダルトゲームがそんなきっかけを作るのだろうか。そしてこの男に心を許し、付いていった自分を呪った。この男は、完全に変人だ。こんな男に自分の時間が奪われていると思うと腹立たしかった。そんな私の様子を察知したのか、男はその「足跡」というゲームについて語り出した。

「アダルトゲームって言ってもね、これは単なる性的消費を目的に作られたものじゃないんだ」

「どういうことです」

 私の疑問は増幅した。性的消費を目的にしないアダルトゲームなんてあるのだろうか。

「このゲームは2000年代に作られたのだけど、この時代のゲーム全般に言えることだね。アダルトゲームっていうのは、表現の幅を広める手段に過ぎないんだ。つまり子供には見せられないような過激な表現や性的な表現ができるようにってことさ。通常のハードではできないそう言った表現を必要とした物書きたちが、アダルトゲームに目をつけた。アダルトゲームのアダルトの部分は、ほとんど形骸化している」

 私は半身疑いつつも、そんなことがあるのかと感心した。

「つまり、表現の幅が広まった文学作品ということですか」

「まあそういうことになるな」

 男は答えた。そして男は、箱に書かれた「足跡」という文字を指でなぞった。その部分の埃が取り除かれ、くっきりと元のフォントが見えた。

「歩んできた道には、必ず「足跡」が残る。その「足跡」が次に誰かの道標となる。誰も歩んだことのない道なら尚更、道標が必要だ。そんなことをコイツは教えてくれた。誰が作ったかも分からないこのゲームがな」

 男は、「足跡」の被った埃を払いながらそういった。

「どういうお話なんですか、このゲーム」

 私は訊ねた。男は一呼吸置いて、ゆっくりと話し始めた。

「平安時代のある村の話なんだ。一人の少年がいたんだ。その少年は所謂変人で皆から村八分にされていた。そんな時、ある遊郭の女に出会ったんだ。その女は、家が貧しく遊郭に売られた。そしてそこで病に倒れ、死を待つばかりであった。そんな女に同情した少年は、古くから伝わるどんな病でも治す伝説の秘薬を作ろうとした。皆そんな伝説を信じていなくて、少年のことをあざ笑った。でも少年は諦めずにとうとう秘薬を作ったんだ」

「じゃあ、ハッピーエンドですね」

 私は意気揚々とそう言った。

「お前は単純だな。ところがそう単純なものじゃないんだ。遊女は秘薬の完成を待たずして、死んでしまった。少年は失意に暮れ、秘薬を置いてどこかに消えてしまった」

「そんな…」私は自身の単純さを恥じた。

「ところがその村で疫病が流行ったんだ。皆がバタバタと死んでいく中、ある人がその少年の書き残した秘薬の作り方を見つけ、皆に施した。すると疫病はパタリと止み、皆助かったという話さ」

「それじゃあ、少年も遊女も報われないじゃないですか」私はそう言い放った。

「馬鹿か、お前。そう容易くハッピーエンドが得られると思うか。お前は幸せになって当たり前と思っているんだよ」男は私を嘲った。

「この話において、少年はまさに異端の道を歩いた。伝説なんて誰しも信じないものだからな。しかしその異端の道に秘薬の作り方という「足跡」をつけた。その結果多くの人々を救った」

「アダルトゲームだってそうだ。アダルトゲームなんてものに文学性を与える試みなんて異常でしかないだろう。しかし、笑われながらも努力し続けた先人たちによって、数多くの名作が生まれた」

「俺はアダルトゲームを始めとするオタクカルチャーに魅了されたんだ。だから漫画家になった」

 私は自分の知らない世界に感動を覚えた。

「いいか、「異常」というのはすなわち前人未到の道だ。誰も歩まぬ道だからこそ、そこに発見があることもある。「異常」であることを恐れるな」

 本屋を出た。すでに日は登り始め、秋葉原は微かに明るかった。私は空の缶コーヒーを握りしめ、帰路に就いた。


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足跡 秋原 零 @AkiharaRei

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