夢灯籠
棗颯介
夢灯籠
高校の屋上から見える空は徐々に白み始めていた。
どこまでも伸びる朝日の光を一身に受けながら、私は新しい朝に自らの終わりを求め、躊躇うことなくフェンスを乗り越えその身を投げた。
一瞬の浮遊感を覚えた次の瞬間、私はこの星の見えない力に従って勢いよく地面へ落下していく。このままどこまでも加速していけば私は終わりの向こう側へ行けるのだろうかと曖昧な妄想が頭をよぎる。死が目前に待ち構えているというのに。しかしその加速は数秒後に終わるのだ。固い無機質なコンクリートの地面に止められて。
———さようなら、私の人生。
全身に終末の予感を覚え、私は覚悟を決めるように目を閉じた。
———。
———。
———。
———………ん?
鈍い感触と鋭い痛みが自分を襲うものと思っていたが、いつまで経ってもそれは訪れない。それとも一瞬過ぎて自分の身体で感じるより先に魂があの世へ渡ってしまったのだろうか。
恐る恐る閉じていた瞼を開いてみた。
———え?
目の前に私がいた。恐怖を感じさせない覚悟を決めた表情で目を閉じ、地面にぶつかるギリギリのところで宙に静止している。
その常識外れの現象に困惑していると、幼さを感じさせる声が耳に届いた。
「ご愁傷様です」
「?誰?」
「はじめまして、僕は死神です。死を前にしたあなたに、一時の猶予を与えるために参上しました」
声の主は、私より明らかに年下の少年だった。小学校高学年か、よくて中学一年生程度といったところだろうか。喪服を思わせるフォーマルな黒服を着ているが、概ねその辺りにいる子供と何ら変わらないように見えるが。
「死神?あなたが?」
「そうです」
「死神って実在したのね」
「はい。………なにを笑ってらっしゃるんですか?」
「え?私、今笑ってるの?」
「いや、誰がどう見ても笑っているとしか」
死神を名乗る少年に指摘され、私は両手で自分の顔に触れてみた。確かに、口角が上がっている。
「ごめんなさい。多分、死神とか死後の世界とか、そういうのが実在するって分かったのが嬉しいんだと思う」
「話には聞いていましたが、あなたもあれですか。生きる意味とか喜びを見出せなくて来世とか死後の世界に希望を見出して命を粗末にしたタイプですか」
一見年端のいかない少年にそう冷めた声色で的確に指摘されると、どうにも居心地の悪いものを感じる。
しかし、私は決して自分の人生に絶望して屋上から身を投げたわけではなく。
「確かめたかったの」
「?何をですか?」
「死の感触、って言えばいいのかな。終わる間際に人が何を感じて、何を想うのか。あわよくばその先にあるものもとは思ってたけど、本当に死神なんてものがいるとは思わなかった」
「月並みなことを言うようですが、死の感触を確かめたいにしても自分が死んでしまっては意味がないのでは?」
「人っていうのは馬鹿な生き物なのよ」
「はあ」
少年は明らかに困惑の表情を浮かべている。仮にも死神と呼ばれる存在に対してどこか優位に立っているようで、死の淵にいるというのに意味のない優越感を覚えた。
「それで、死神さんが私に何の用?今そこにいるもう一人の私と、何か関係があるのかな」
「ビックリするほど話の早い方ですね。少し調子が狂いますが、そうですね。先程も言いましたが、僕はあなたに猶予を与えるためにやってきました」
「猶予?」
「今のあなたは魂が肉体から抜けた状態です。魂だけが切り離されている。そこで宙に止まっているのはあなたの身体ということになりますね」
「あなたがそうしてくれたの?」
「はい。あなたが地面に激突して死亡する直前で。そして魂だけの存在になったことで、あなたは時間の壁を超えることができるようになりました」
「時間の壁?」
少年は服の内ポケットから外見年齢に似つかわしくない銀時計を取り出す。見たところ針は止まっているようだ。
「これからあなたに六十分、つまり一時間ですね。死ぬ前に猶予を与えます。そしてあなたはその時間の間、自分が望んだ過去に立ち戻ることができる。あなたがこの世に生まれた時点までに限りますし、向かった先で誰かと接触することも、物に触れることもできませんが。要するに死ぬ前に自分のこれまでの一生を振り返ることができるというわけです」
「死神ってそういうことするの?てっきり怪しいフードを被って大鎌で命を刈り取ったりするものだと思ってたけど」
「今時そんな時代錯誤なことをしてる死神はいませんよ。最近はわざわざ死神が動かなくても勝手に死ぬ人が増えましたしね、あなたみたいに」
「でも、なんでそんなことを?過去に戻った先でただ傍観することしかできないならわざわざそんなことする意味もないと思うんだけど」
「死ぬ前の心の準備、みたいなものです。なるべく今生に未練を残させないための」
「ふぅん」
死ぬ前の心の準備に一時間の猶予。一切の干渉ができないとはいえ、望んだ過去に戻ることができる。
———そんなの、確かめてみたいに決まってる。
「じゃあ早速だけど—――」
「………?どうされました?」
「いや、立ち返りたい過去。私、あんまりないかも」
私がこの世に生まれて今年で十八年になるが、私には後ろ髪を引かれるような眩しい過去はない。心の友と呼べる親友がいたこともなければ、青春と呼べるような瑞々しい経験をしたこともない。
どこへ行こう?特に行きたい過去はないが、かといってこの機会をみすみす逃すのも惜しい。
思案していると、少年の方から提案があった。
「悩むようでしたら、あなたが生まれてから今日までを順になぞっていくのはどうでしょうか?あなたのように戻りたい過去がないという方、結構多いんですよ。そういう人にはとりあえずダイジェスト形式で過去を振り返らせるように我々もしていて」
「なにそれ。死神にそんなマニュアルがあるんだ」
「まぁ、仕事なので」
「でも、そうだね。それでいい。任せるよ」
「承知しました」
そう言うと、少年は手に持っていた銀時計のスイッチをカチッと押す。
私の大したことのない平凡な人生を振り返る六十分が始まった。
▼▼▼
「可愛いなぁ」
「えぇ、本当に」
白い床に白い壁に白い天井。それだけでここが病院だと分かる。白い空間でこれまた白いベッドで横になっていたのは、少々若いが私の母だ。その隣で目を閉じ横たわっている赤子は、きっと私。
つまりここは、私が生まれた日だ。
「きっとママに似て、可愛い子に育つんだろうな」
「大きくなったら、アイドルか女優にでもなるのかも」
そんな荒唐無稽なことを言って笑い合う若かりし日の両親を見て、私は少しだけ罪悪感を覚えた。
二人の期待に応えられなくてごめん、と。
両親が思い描くような眩しい人生を、私は過ごせなかったから。この先を見れば分かる。
▼▼▼
「まーぜーて」
「いーいーよ」
場面は変わり、見覚えのある砂場が目に飛び込んできた。畳二畳分程度の本当に小さな砂場。成長した今になって思うと、幼稚園という場所は何もかもスケールが小さかった。遊び場も遊び道具も食器も、自分自身も。
小さく、そして単純だった。真っ白で、無垢だった。よく笑い、よく泣き、よく遊び、よく寝た。
幼すぎてもう記憶にないが、きっとこの頃の私は今ほど世界を悲観していなかっただろう。悲観するほど、当時の私の世界は広くなかったのだから。家と、幼稚園。それがこの頃の私の世界の全てだった。狭く小さいが、同じように小さかった当時の私には有り余るほど満ち足りていた世界。
「あはは!」
泥だらけになって砂の城を作る当時の私の顔には、曇りのない笑顔が浮かんでいて。何がそんなに楽しいのか、今の私には理解できなくて。それが、少しだけ寂しかった。
▼▼▼
「ねぇねぇ、みんなと一緒に外でドッヂボールしない?」
「あぁ、うん。私はいいや」
本棚が広がる部屋。通っていた小学校の図書室だ。窓から差し込む穏やかな日差しから察するに、きっと昼休みだろう。窓の向こうに見えるグラウンドでは子供たちが青空の下で無邪気に走り回り、ボールで遊んでいた。
この頃既に、私は少しずつ世界の歯車から外れ始めていたんだろう。誰かと歯を噛みあわせて一緒に回るよりも、自分一人で回っている方が心地よかった。他に影響を与えない代わりに、影響されない。自分の世界で延々と回っているだけ。
でも。
「ふぅん。じゃ私も今日はそうしよっかな」
「え?」
当時のクラスメイトはそう言うと、過去の私の隣の席に座る。目の前にいた私は、どこか破顔してるようにも見えた。
———歩み寄ってくれる人もいたんだ。
▼▼▼
「………」
学生服に袖を通した私が、教室の隅でいずこかを眺めている。手にした本で顔を隠しながら。視線の先にいるのは、同じクラスの男子生徒。中学生になって、私は初めて恋をした。
でも、自分みたいに可愛くなくて友達もいない女子に彼が惹かれるわけがなければそもそも接点すらなくて。こうやって毎日、友達と一緒に楽しそうに笑う彼を遠巻きに眺めていることしかできなかった。
———結局、告白もしないまま卒業して縁が切れたけど。
「………っ」
———なんか、幸せそう。私ってこんな分かりやすい顔してたんだ。
———彼、元気にしてるのかな。
▼▼▼
「はぁ………」
記憶に新しい、少しくすんだ薄暗い天井。高校の保健室のベッドで、今の私とほとんど変わらない背格好の私が横たわっている。アクティブではないにしろ不健康というわけでもない私が保健室の世話になることは数えるほどしかないはず。この時は確か—――。
「あれ?――さん。どこか具合悪いの?」
部屋の扉の向こうから顔を出したのは同じクラスの女の子。成績優秀で友達も多いクラスのマドンナみたいな人。つまり私とは対極にいる人だ。
「ううん。ちょっと、この前の数学のテストでやらかしちゃって。先生に小言とか言われたら嫌だから抜けてきたの」
「サボり?――さんって意外と不良だね」
「あはは」
そう愛想笑いを浮かべる過去の自分は、明らかに気まずそうな表情を浮かべている。授業をサボったのを咎められたことというよりは彼女と同じ空間で二人きりであることに対してだろう。
「ねぇねぇ、——さんって、どんな人なの?」
「え?」
「だって——さん、普段うちのクラスの人とあんまり絡まないじゃん?どういう人なのかなって気になってさ。他の皆も言ってるよ、ミステリアスな人だって」
「ミステリアスって」
私は自分の世界に閉じこもっているだけのただの陰キャだ。周りの人が勝手に勘違いしているだけ。
「そういえば、今度の学校祭の後にクラスの女子で打ち上げしようって計画してるんだけど、——さんも来る?」
「え?えっと………」
過去の私はどうしたものかと口ごもる。
この時の私はなんと答えたんだったっけ。
▲▲▲
「———戻ってきた?」
気付けば過去の情景は霞のように消え去り、元の時間―――早朝の校舎、目の前で私の身体が宙に浮いて静止している―――に戻っていた。
「与えられた時間が残り五分になりましたが、いかがでしたか?」
同じくいつの間にか私の傍に現れていた死神の少年が手元の銀時計を見ながらそう言った。
「なんというか、改めて客観視させられるとつくづく私って退屈な人生過ごしてたなって思うよ。未練どころかあの世に持っていきたい思い出もないくらい」
「そうですか」
「でも、こうして過去を振り返る体験ができたこと自体はすごく新鮮で楽しかった。最後に良い思い出ができたよ」
「やっぱり、どこか変わった方なんですね。あなたは」
「変わった人間じゃなかったら、きっと私は屋上から飛び降りたりしなかった。そして死神のあなたと出会って過去を追体験することもなかった。自分が立派な人間じゃないことは自覚してるけど、自分が変わった人間だってこと自体はそこまで悪くも思ってないかな」
「僕、今日が死神としての初めての仕事なんですが、最初の相手があなたみたいな人だと良くも悪くも忘れられなさそうです」
そう嘆息する少年の表情は、丁寧な口調とは対照的に外見相応の幼さを感じさせた。
そういえば。
「ねぇ、あなた名前は?」
「仕事で関わる相手に個人情報を漏らすのは禁止されているので」
「死神さんにも決まりってあるんだ」
「というか、そんなことを知ってどうするんですか?」
「どうもしないけど、自分に引導を渡してくれる相手の名前くらい知っておきたいじゃない?」
「じゃあ、それは死んだ後のお楽しみにでもしておいてください」
「約束だよ?」
そう言って、私たちは笑う。あともう少しで死ぬというのに、死への恐怖は微塵も残さず消え去っていた。
「さて、あと十数秒ですが、何か言い残すことはありますか?」
幼い死神の問いに、私は答えた。
「アイルビーバック!」
「いやなんでですか」
彼がそうツッコんで笑った直後、彼の姿が視界から消え、ほとんど同じタイミングで私の意識も消え去った。
***
***
***
「—————————てんごく?」
「——!目が覚めたの!?誰か!誰か来てください!!」
「………かあさん?とうさん?」
「お前、ずっと眠ってたんだ。学校の屋上から飛び降りたって………。あぁ、本当に良かった………っ!」
意識を取り戻した私を出迎えたのは、顔をクシャクシャにして泣き腫らす両親と、真っ白とは言い難い年季の入った天井の染み。天国とは程遠い現実感を伴うその光景は紛れもなく、今生のものだ。
———私、助かったの?
———というか、私、飛び降りた?
———………そうだ、飛び降りたんだっけ。
———飛び降りて、それで………。
———何が、あったんだっけ?
何かを忘れている気がした。やっと手にした宝物をどこかに置き忘れてきたような感覚。
でも、筆舌しがたくも確かな手ごたえを感じるものもあった。
———死の感覚。まだ、私の肌に残ってる。
———ようやく分かった。あれが、死ぬときの感覚。
死というのがどういうものなのか確かめたくて、身を投げた。好奇心を抑えられなくて。
私の身体が重力に身を任せていた間、夢を見ていた気がする。私が生まれてから今日までの記憶をなぞる夢。身を投げていたのがほんの数秒だった割には妙に濃密な夢で。あれが走馬灯と言うのだろうか。私みたいな人間は、特別後ろ髪を引かれるような楽しい思い出はないのだけれど。
でも。
———好奇心に任せて命を粗末にしようとしたこと、ちょっと反省するくらいには惜しい人生送ってたのかも。私。
私が助かったことに大きな意味があるのかは分からないけど、自分の人生を少しだけ惜しく思えるようになったことについては良かったのかもしれない。そういう意味では屋上から身を投げたことについて、私はこれっぽっちも後悔していない。
———それにしても、あの高さから落ちて助かるとか。
———私のところにやって来た死神はよほど人を殺すのが下手か経験不足の新人さんなのかな。
———………新人の死神?
そのフレーズにどこか引っかかるものがあった。落ちた最中に見ていた気がする夢はもうだいぶ曖昧になっているが、やはり何か大事なことを忘れている気がする。
でも半人前で子供みたいな姿の死神がミスで自殺志願者をうっかり殺し損ねた、というのは妄想にしてもなかなか面白い話だと思った。
———身体が動かせるようになったら、一度文字に起こしてみるのもいいかも。
———あぁ、早く書きたい。
私が自殺未遂の体験をネタにして書いた小説がネットでちょっとした反響を呼ぶのは、もう少し先の話だ。
タイトルは、『
夢灯籠 棗颯介 @rainaon
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