第9話 どうしようもなく、恋をしている。
足元の小石を意味もなく蹴り飛ばした。バイトも写真部の活動もなくて、早く帰ればそれだけ好きなことが出来るのに、駐輪場から動けないまま時間だけが過ぎていく。ぎゅっと握りしめた手に自転車の鍵が刺さって痛い。
「ちか、いいの?」
立ち尽くして動けない俺の後ろを、三人分の足音が追い越していく。
「べつに、どうでもいい」
ちかの声は硬く張り詰めていて、昨日彼女を追いかけていた矢崎は、その中に居ない。振り返って、思わず手を伸ばしかけて、でも届く前に背中が遠ざかっていく。
なにを、言おうとしたんだろう。なにが、言えるっていうんだろう。ちかの目からこぼれた雫が駐輪場のコンクリにシミを作って、彼女の後を追っている。
矢崎は、知っていたんだろうか。
ちかが、泣くって、知っていて、ちかを追いかけてたんだろうか。
「中堀くん!」
唇が震えて声が出なかった。ゆっくりと振り返る。矢崎の目元は真っ赤に腫れていて、でも笑顔は晴れやかで。俺は初めて、矢崎加奈とちゃんと目があった気がした。
「ごめんなさい」
走ってきたのか、乱れた呼吸のまま、矢崎は目の前に止まって頭を下げる。黒髪が揺れるのを呆然と見ていた。
「ウソ、吐いて、ごめんなさい」
口の中がからからに渇いて、呼吸すら上手にできなかった。謝らなきゃいけないのは、きっと俺の方だった。
「私、本当は、優しいウソなんて知らない」
まっすぐ、目を見つめられて、思わず半歩下がる。強くて、正しくて、それが怖かった。あぁ、正しさは怖いんだって、ようやく分かる。きっと、矢崎はとっくにその事を知っていた。
「私が捨てたのは、正しさ振りかざす身勝手さじゃなくて、誰かに手を差し伸べる優しさの方だった。だから、中堀くんのお手本には、なれない」
もう、いいよ、とか。優しくないのは俺の方だった、とか。身勝手にヒーローなんて押し付けてごめん、とか。言わなきゃいけないことは、たくさんあるのに、全部言葉にならなかった。声が出なかった。
「ごめんなさい」
まっすぐ、頭を下げられて、また、半歩下がった。言い訳ひとつしない矢崎は、やっぱり、世界で一番正しくて優しいひとだった。間違ってるのも、優しくないのも俺だった。
「ごめん」
気が付いてしまったら、涙が出た。声はみっともなく震えて、滲んでいる。それでも、矢崎がまっすぐ俺を見てくれるから、聞いていてくれるから、ちゃんと言わなきゃいけないと思った。
「矢崎が、いろんなこと考えて、守ろうとしてたもの、壊してごめん。矢崎のこと、なんにも知らないのに、勝手にヒーローだと思っててごめん。さきに、謝れなくて、ごめん」
ゆっくり頭を下げる。心臓が暴れまわるみたいに痛かった。許されないくらい、酷い言葉を吐いたのに、それでも許して欲しかった。勝手に作った虚像の矢崎じゃなくて。ウソを吐かせたままの矢崎じゃなくて。目の前にいる矢崎加奈と、これからも話がしたかった。
俺は、矢崎加奈に、どうしようもなく、恋をしている。
「うん。じゃあ、おあいこにしよう」
涙を孕んだ声が聞こえて、地面を見つめる視界の真ん中に矢崎の細い手が差し出される。視線をあげたら、泣きながら笑ってる矢崎が居て、つられるように口角が上がった。
「うん」
頷いて、そっと手を握る。初めて触れた手は思っているより小さくて、思っているより豆が出来てて、思っていた通り、綺麗だった。
****
「芹沢先生、何見てるんですか? にやにやして」
隣のクラス担任の笹野に問いかけられて、芹沢は彼女の言うところのにやにやした顔のままで答える。
「いや、掃除です。そんだけです」
視線の先には、ひとりぼっちで俯きながら机を運んでいた少女も、後ろめたそうな顔で去っていく少女も居ない。面倒くさいと嘆きながら、それでも笑って、箒を動かす三人の姿がある。笹野はぱちくりと瞬きをして、芹沢の横を通り過ぎた。廊下には、三人分の笑い声に目を細める担任だけが残った。
欠けた部分を君に恋う。 甲池 幸 @k__n_ike
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