第8話 彼女はウソを剥ぎ取る。
心臓が波打っていた。六時間目はさっき終わって、ホームルームはいつも通り適当に済まされて、掃除の時間になる。動きがぎこちなくなっているのが、自分でも分かった。教室から出ていく直前の芹沢先生と目が合った。がんばれよ、と唇が動く。本当に、なんでもお見通しなひとで、それがなんだか癪だった。でも、そのおかげで肩の力が少し抜ける。
「加奈―」
ちかちゃんが私を呼ぶ。振り返って、ごくりと唾を飲み込む。
「はやく帰ろー、掃除は楠さんがやってくれるって言うしさー」
ぎゅっと手を握りしめて、息を吸い込んだ。飲み込んだら、楠さんを傷つける。吐いたら、きっとちかちゃんを傷つける。それは、ひどく恐ろしかった。びしょ濡れで泣いている尾形理絵の顔は、いまも、瞼に焼き付いている。震える息を言葉と一緒に吐き出す。
「ごめん、ちかちゃん。私、掃除してから帰る」
ちかちゃんは目を細めて、私を睨む。菜穂ちゃんと南ちゃんは目を見開いて、呆然と私を見ていた。
「今までずっと、ちかちゃんに付いてくことで自分を守ってた。利用して、ごめん」
頭を下げる。私はたぶん、最初からこうすべきだった。振りかざした正しさから目を背けるんじゃなくて、逃げ出そうとする自分と戦うべきだった。
「あっそ」
ちかちゃんのスカートが翻って、遠くなっていく。冷たい声が痛かった。傷つけたのが分かって怖かった。ぐ、と奥歯を噛んで声を飲み込む。扉が開いて、ちかちゃんが教室を出ていったのが分かった。固まっていた二人も、ぱたぱたと彼女を追いかけていく。顔をあげて、楠さんを見た。その目が滲んでいる理由が、私にはやっぱり分からなかった。
「楠さん、今まで、ずっと、蔑ろにしてごめんなさい。たくさん傷つけて、ごめんなさい」
顔があげられなかった。謝ったって、楠さんの傷は消えない。心の深いところに刺さったまま、ずっと、彼女を傷つけ続ける。
「いいです、顔、あげてください」
震えた声が落ちてきて、視線をあげる。泣いている楠さんの顔を見たら、心臓が痛くて勝手に涙が出た。泣く権利なんて無いのに。罵倒されたって、涙なんか流しちゃいけないのに。止める方法が分からない。
「分かるから」
楠さんの柔らかい手が、右手を包む。
「クラスで居場所なくなるのが怖いとか、自分守るために誰かを傷つける狡さとか、わたしも知ってるから」
楠さんの声は涙で濁っていて、それでも心臓の奥深くまで、刺さるように届いた。
「分かるから、いい。わたしも、おんなじこと、人にしたことあるから、いい」
なにか、言いたいのに、喉の奥で震える熱い塊をどうにか言葉にしたいのに、開いた口から零れるのは嗚咽だけだった。ぎゅっと、楠さんに抱きしめられる。あったかくて、もっと涙がでた。私が抱えたズルさと、いつかの楠さんが抱いたズルさが、溶け合って、涙になって、ぜんぶ無くなっていくみたいだと思った。そうであったらいいと思った。
「馬鹿だねぇ、わたしたち」
泣きながら楠さんが笑う。その笑顔が、綺麗で優しいから、肩から力が抜けた。笑ってくれるのが嬉しかった。つられて笑顔が浮かんだ。
「ね、今日は、わたしたちも掃除サボらない? わたし、矢崎さんともっとお喋りしたい気分」
何かに怯えていない楠さんは、思っていたよりずっと強くて自由だ。思わず声をあげて笑った。行こ、と手を引かれて、でも足を踏み出さずに手を握り返す。
「ごめん、楠さん。私、先に、謝らなきゃいけないひとが居る」
楠さんは目を瞬かせて、それからにっこりと笑った。握り返した手にぎゅっと力が込められて、そこに楠さんの言葉が落ちてくる。
「分かった。じゃあ、待ってるから、いってらっしゃい。がんばれ、矢崎さん」
込められた念をそっと握りしめて、笑顔を返す。
「うん。行ってきます」
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