第7話 彼が優しいひとを見つけた日。

  苛立ちが顔に出ている自覚はあった。でも、ロッカーに取り付けられた鏡に映る自分は想像の三倍は凶悪な顔をしていて、ぎゅっと奥歯をかみしめる。いつもは冗談交じりに話しかけてくれる後輩がまったく寄り付いてこなかったのは、この顔のせいらしい。その目で見て反省しても、顔つきは変わらなかった。

 心臓の奥で獣がのたうち回っている。獣が吠えている。痛くて、苦しくて、どうにもならない。

 矢崎加奈は中堀涼のヒーローだった。


「え、それなにがすげーの?」

 自分がまた間違ったことを言ったらしいと気が付いたのは、周りの空気が嫌な固まり方をしてからだった。気が付いたときには言葉は口から出ていて、もう戻らない。実験中のビーカーの下でアルコールランプの火が嘲笑うように揺れていた。

 せめて自分で挽回しようと口を開いても、乾いた喉から上手い言葉が出てくるはずもなく、冷や汗だけが背中を伝う。どうにかしなくては、と空回った頭で助けを求めるように、視線を巡らせる。クラスメイトの刺すような視線が中堀を捉える直前、ガラスの割れる音が空気を裂いた。

「わ、加奈何やってんの!」

「ごめん!! 消しゴム取ろうとしたら手が当たっちゃって」

 眉を寄せる矢崎加奈の足元で乾かしていた試験管が粉々に割れている。固まっていた空気は無理やり動かされて、みんなの意識が俺の失言から割れた試験管に移っていくのが分かった。

 は、と吐き出した息にはありありと安堵が滲む。困った顔で笑いながら、矢崎加奈は手際よくガラス片を片付けていく。

 怪我した人いなくて良かった、と息を吐き出す矢崎の指先からは血が滲んでいる。泣きそうだった。

「矢崎、血、出てる」

 カタコトの言葉で伝えて、怪我をしていない方の手を引く。心臓の奥が熱くて、目頭が痛くて、怪我をしたのは俺じゃないのに泣きそうだった。

「ごめん」

 年中埃っぽい理科室を出て、手を引いたままで短く告げる。

「え? なにが?」

 矢崎は背後で首を傾げたようだった。足を止めて、振り返って、目を真っすぐ見て続きを吐き出す。

「試験管、わざと落としたの、見えた」

 そう言えば、矢崎はぱちくりと瞬きをしてから、照れたように笑った。

「バレちゃうと恥ずかしいね」

 その笑みが、あんまり普通だから、彼女にとって誰かを助けるために試験管を割るなんてことは、日常なのだと分かった。それで怪我をするのも、いつものことなのだと知った。

 綺麗なひとだと、漠然と思った。

 気が付けば目で追っていた。気をつけて見てみれば、彼女のドジの大半は誰かのためだった。なんて、優しいひとだろうと思った。なんて、正しいひとだろうと思った。


 ロッカーの鏡に映る自分の顔は、怒っているのか泣きそうなのか、ともかく情けなくて、視線を落とす。ぐにゃぐにゃと足元が揺れているような気がした。目を瞑って、バイト先の制服をロッカーに投げ込んで、強く、扉をしめた。苛立ちは、そんなことでは少しも消えてくれなかった。

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