第6話 彼が化け物を知った日/彼女が化け物になった日。

「あ、楠さーん」

 ちかちゃんが優しい声で楠さんを呼ぶ。放課後の教室。掃除が始まる少し前。芹沢先生はいつも通り居なくて、私は菜穂ちゃんや南ちゃんと一緒にちかちゃんの後ろに居る。いつも通り、楠さんはちかちゃんから目を逸らして、箒を握りしめる。

「ほんといつもごめんねー」

 わたしら今日も忙しくてー。空々しいちかちゃんの声が右耳から素通りしていく。私は視界の端で動き始めた中堀涼を見ている。時間が奇妙に引き延ばされたような気がした。ドクドクと心臓が逸る。恋の高鳴りというには、あまりに生々しく痛かった。

「ちか、掃除やんねーの」

 眉を寄せて、分かりやすく怒った顔で中堀涼はちかちゃんを断罪する。

「ちか達、今日忙しーの。ほら、楠さんヒマそうじゃん? だから適材適所で、お願いって。ね? 楠さん、別に嫌じゃないでしょ?」

「あ、うん、ぜんぜん、私は大丈夫」

「忙しいって、ただのデートだろ。掃除くらいちゃんとやってけよ」

 ん、と楠さんから奪い取った箒を中堀涼がちかちゃんに押し付ける。ちかちゃんは小さく吹きだすようにして笑った。

「なーに、涼、楠さんのこと好きなの?」

「は?」

 ちかちゃんの声にははっきりと嘲笑が混ざっていて、中堀涼の声は低く床に落ちる。肌から浸み込んだ空気がひりひりと内臓を焼く。

「だって、楠さんのことすっごい庇うじゃん、ねー?」

 ちかちゃんが振り返る。私は一瞬中堀涼に視線を投げてしまう。怖くて動けなかった。

「ね、加奈?」

 目ざとく裏切りを察知したちかちゃんが私を呼ぶ。明日からの教室で居場所がないことも、中堀涼の信頼を裏切ることも、全部怖かった。全部嫌だった。中堀涼の視線が突き刺さる。ちかちゃんの笑顔が視界の中心で膨れ上がる。生唾を飲み込んで、拳を握った。

「うん、ほんとに。恋人みたいだね」

 こんな時でも、染みついた愛想笑いはたぶん完璧だった。ちかちゃんはにっこり笑って、中堀涼に視線を戻す。

「ほら、恋人同士、仲良く二人で掃除しなよ。私ら邪魔者は退散するからさー。そっちのがいいよね? 楠さん」

 怯えたように肩を震わせて、眼鏡の奥の両目に涙を溜めて、楠さんは頷いた。

「私、暇だし、掃除好きだし、ぜんぜん大丈夫だよ」

「だよねー、良かった。じゃ、行こ」

 長くて綺麗な黒髪を揺らして、ちかちゃんが振り返る。その目と視線が混ざって、私の体はまるで人形になったようにその後を自然に追っていた。中堀涼の視線が背中に突き刺さる。いつもと同じようにちかちゃんの正解に従ったのに。それは、私の答えを求めてくる先生の問いかけよりずっと、ずっと、簡単なことなのに。息苦しさが拭えなかった。叫び出したいような衝動が消えなかった。

「矢崎」

 後ろから腕を強く引かれる。あぁ、と思う。

「なんで、そっちに居んの」

 あぁ、化けの皮なんて、剥がれるときはあっという間だ。

「なんで、なにも言わねーの」

 私は振り返れないままで視線を落とす。ちかちゃんは一瞬だけこちらに視線を向けて、先行ってるよーと手を振って遠ざかっていく。向けられた視線も、いつもとは違ってちかちゃんからかけられた言葉も、ぜんぶが私の心臓を縛り付ける。

「矢崎」

 苛立った様子で中堀涼が私の腕を強く引く。無理やり視線が合わされて、その顔が滲んでいるから、自分が泣いていることに気が付いた。

「なんで矢崎が泣いてんの。なんで、楠にぜんぶ背負わせて平気なの」

 言葉が体に突き刺さって肌を切り裂いていく。

「矢崎は、優しいんじゃなかったの」

 ウソが剥がれて、露わになった化け物の顔は、中堀涼の目にどう映っているのだろう。睨みつけてくる視線の強さに雫が落ちた。卑怯だと怒るみたいに、握られている腕にさらに力が入る。

「なぁ、なんで? なんでさっきからなんにも言わねえの? 言い訳すらねえの?」

 言い訳、なんて。そんな卑怯なものを許すつもりもないくせに、中堀涼は手の力を弱めて私を見た。まだ、虚像を信じようとしている顔だった。心臓が痛かった。化けの皮が剥がれても、ズルさを暴かれても、私は、中堀涼の視界に居ない。手を振り払って、滲んだ視界の真ん中に中堀涼を見据える。

「中堀くんには、分からないよ」

 『正しさ』の正しさを、そんな幻想を、まだ信じている中堀涼には絶対に分からない。

「中堀くんは、正しいけど正しくない」

「なんだよ、それ」

 低い声だった。吐き出した声は恐怖に震えている。私を見せるのは怖かった。恐ろしかった。でも、このまま虚像を見られているのも我慢できなかった。

「中堀くんは考えた? ちかちゃんが怒ったら、明日から楠さんがどんな目に合うか。中堀くんがどんな目に合うか。二人がどんな風に扱われるか。そういう風になった教室が、どんな空気になるか」

「それが、なに。明日からのことと、今、楠が蔑ろにされてることの、何が関係あんの。明日から俺がいじめられるかもしれねえから、楠が今傷ついてんの見逃したって言いてえの? 見逃せって、言ってんの?」

「そうだよ!!」

 衝動のままに叫ぶ。涙が散った。心臓が痛かった。そんな行動が正しくないことなんて、誰に言われるでもなく知っていた。

「掃除押し付けられるのがなに? ちょっと嫌がらせされるのがなに? クラス中にあることないこと言いふらされて、クラス中から敵認定されて、学校これなくなるよりずっと良いでしょ!」

「そんなの、逃げてるだけだろ!」

 中堀涼は、その正しさで、その強さで、私の弱さを切り裂いていく。言葉が突き刺さって痛かった。そんなことは、中堀涼に言われるでもなく知っていた。逃げている。ちかちゃんからも、楠さんからも、正しさからも、弱さからも。

「楠が明日からいじめられんなら、それも間違ってるって言えばいいだけだろ。ちかが分かるまで、先生に伝わるまで、声あげてればいいだけだろ」

 言葉が出なかった。中堀涼の言葉はあまりに正しくて。私はその正しさを良く知っていて。私が傷つけるのが怖くて捨てたそれを、中堀涼は傷だらけになってもまだ抱えていて。それが、あんまり眩しくて。

 なにも、言えなかった。

「おいおい、その辺にしとけよ、忠犬」

 中堀涼の後ろから間延びした声が飛んでくる。

「お前、バイトの時間だろ」

 芹沢先生は、私の涙も中堀涼の怒った顔も見えないフリでそう言って、時計を指した。中堀が昨日帰った時間よりも随分早いのに、ぐっと背中を押して中堀を追いやる。抗おうとした中堀に、芹沢先生はなにかを言ったようだった。中堀涼は睨みつけるようにこちらを見たきり背を向けて、廊下の向こうに消えていく。今更になって震えがきた。力が抜けて座り込む。

「おーおー、だいじょぶかよ」

 芹沢先生の大きな手が乱暴に頭の上を往復する。言葉が出なかった。息が苦しかった。中堀涼が羨ましかった。彼のようになりたかった。そんな、もう捨てたはずの願いを掘り起こされて苦しかった。

「せんせい」

 溢れてきた涙に濡れた声で問いかける。

「わたし、間違ってますか」

 先生は手を止めて、座り込んだ私と視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。無理やり顔をあげられて、視線が交わる。

「答えは、お前のなかにあんだろ。……なぁ、矢崎」

 目元を先生の武骨な指が撫でていく。

「お前の正しさに背いて生きんのは、それを捨てんのは、信じてた頃より、楽か?」

 首を横に振る。こんな苦しさが楽なわけがない。間違っていると思うことに従って、笑顔を張り付けるのは苦しくて辛い。

「でも、わたしの正しさは、人を傷つけるんです。わたしはもう、誰かを悪者にしたくない」


 中学のとき、女王様のような女の子がいた。顔が整ってて、スタイルが良くて、運動が出来て、勉強はちょっと苦手で。分け与える優しさと、奪い取る傲慢さを併せ持った、女王様みたいな、ただの女の子がいた。中学生にとって学校は世界そのもので、そこに女王様として君臨する彼女は、中二の夏、ちょっと気に入らないなんて理由で、私の友達に嫌がらせを始めた。上履きが無くなるとか、悪口を言われるとか、他の友達が居なくなるとか。そんなありふれたいじめだった。

 最初にそれに耐えられなくなったのは、友達じゃなくて私の方だった。先生に訴えて、直接おかしいと断罪して。友達に嫌がらせをしていた女王様とその配下は、こっぴどく怒られ、泣きながら謝罪の言葉を吐いた。そこで、私が描いていたお話は終わりだった。友達と平和な日常を取り戻して、今まで通りの、誰の悪口も聞こえてこない居心地のいい教室を取り戻したはずだった。

『どの面下げて学校来てんだって感じだよなー、オガタ』

 誰が言い出したのか、その一言で、女王様はいじめられっ子の位まであっという間に転がり落ちた。彼女は私の友達に嫌がらせをした悪者で。正しさという武器を手に入れたクラスメイトは、女王様のいびりなんて可愛く思えてくるくらいの苛烈な嫌がらせを彼女に課した。泣いても喚いても、誰も助けなかった。先生すら、自業自得だと笑った。

 女王様が、ただの同い年の女の子だった尾形理絵が、いじめにたえきれなくなって転校したのは、中二の冬だった。


「正しさなんて、いつでも人を傷つけるもんだよ」

 トイレでびしょ濡れになって泣いている尾形理絵の顔が頭の奥にこびりついている。彼女の涙に溺れそうな私を先生の言葉が鋭く刺す。

「でも別に、ぜんぶ捨てちまうことねーんだよ、矢崎」

 芹沢先生は的確に私の弱いところを突いて、言葉を投げてくる。

「正しさが誰かを傷つけることをお前は知ってる。矢崎、お前が身につけなきゃいけねーのは、正しさから逃げ出して愛想笑いする技術じゃねえよ」

 もう一度、先生の手が頭を撫でた。

「正しさ抱えたまんま、生きてく技術だ。傷つけない工夫とか、傷つけたときに逃げないで向き合える覚悟とか、そういうもんだよ、矢崎」

「先生は、そういうもの、身につけてここに居るんですか」

「……今でも、しょっちゅう間違えるよ」

 私の問いかけに一瞬言葉を詰まらせて、結局先生は素直な言葉を吐いて、苦く笑った。その顔は今までよりもちょっとだけ幼く見えた。

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