窓辺でひとり、月を眺める

Kanon

1.春嵐

 たたとん。ととたん。

 

 車輪がレールを叩く音が、一定の規則に合わせて繰り返される。

 

 ととたん。たたとん。


 繰り返されるリズムに合わせて、車体が小さく揺れる。列車の揺れに身を委ね、瞼を閉じていると自然と眠気が襲ってくるというもの。私は列車に乗りながら、船を漕いでいた。意識を手放してしまえば、いつでも眠りに落ちることができる。けれど私は昼下がりの陽気のほの温かさが心地よくて、意識を手放さずいつまでもこの心地よさを感じていたかった。だから、意識を手放すことはしなかった。


 たたとん。ととたん。


 目を閉じれば今でも鮮明に思い出すことができる。あの燃えるような恋をしていた時間を。



   * * *



 してはならない恋だった。彼には配偶者がいて、子供もいた。けれど、私は踏みとどまることができなかった。心の底から湧き上がる「これは運命だ」という声。私はそのとおりだと思った。だから直感に身を委ね、流れるままに逆らわず、声のするほうへ突き進んだ。夢の中にいるようだった。否。いまでも、私は夢の中にいるのだと思っている。


 後悔はない。罪悪感もない。ただ、幸せだった。


 それは、夢中だったのだ。


 私には何の取柄もなかった。何かを生み出す才能も。何かを変える力も。そんな私を必要としている人間なんて、これまで一人もいなかった。だから私はなにも考えず、ただ言われたことを教えていれば、余程大きな問題を起こさない限り生きていける教師という仕事に就いた。


 教師になってからは、毎日が一層無味乾燥としていた。大学生の頃は、なんだかんだと大学生らしいイベントを満喫していたし、恋人もいた。だから退屈だと思うことはあっても、毎日が無色だと思うことはなかった。


 けれど大学を卒業後、友人たちは皆それぞれの仕事が忙しくなり、当時付き合っていた彼とも似たような理由で別れてしまった。私は特に彼との関係に固執することもなかった。もともと暇つぶし程度に、男女交際というものを経験しておきたくて、「この人とならまぁ付き合ってもいいかな」という軽い気持ちで付き合い始めたから。

 「恋焦がれる」というほどの気持ちもなく、お互い時間をつぶす相手が欲しかっただけ。どこかへ出かけるときに気軽に誘える相手。性欲が高まったときに無料で発散するための相手。コミュニティの中で話題に困ったときに話の種に使える相手。今思えば恋人関係ではなく、都合のいい異性関係という記号を当てはめるのが一番しっくりくる。


 それでも、色やにおいだけはしっかり記憶に残っている。一緒に出掛けたテーマパークの観覧車の赤色。温泉旅行に行ったときに二人で嗅いだ硫黄の香り。初めてを経験したときの痛み。少なくとも彼と過ごしていた時間はそんな思い出が私の中に残っていた。


 けれど今は、本当に無味無臭。大海原のど真ん中で、ただ漂流しているクラゲのような。水のない砂漠のなかで、ただ日照りを受け続けるサボテンのような。晴天のなかを風に吹かれる雲のような。そんな連綿と続く日常の中を、意思もなく漂っているかのような感覚だった。


 「この感覚があと何十年も続くのだろうか」

 そう考えるだけで暗い気持ちになった。であればもういっそ、すべてを終わらせてしまってもいいんじゃないだろうか。そう考えることもあった。

 


「なんで私、生きてるんだろう…」


 職員室の自席でひとりごちた。思わず漏れ出た心の残滓だった。けれど、そんな魂の汗に答えが返ってきて、私は驚いた。


「そりゃ、死にたくないからじゃないかな?」


 声のしたほうを見ると、はす向かいの席に人影があった。その人は確か、私の5つ上の先輩で、同じ国語教師だった。

 その人は右手に小説を持ち、左手にはコーヒーの入ったマグカップを持っていた。

彼は右手に持った小説を、そのまま右手で器用に畳んで、机の上に置いた。


「死にたくない…?」


「そう。桜井さんには、生きたい理由じゃなくて、死にたくない理由があるんじゃないのかな?」


「そんなの…ありません。私はもう、いつ死んでも後悔なんてありません」


「ほんとに?僕は死にたくないけどなぁ…。奥さんと娘を守らないといけないし。おいしいものもまだまだ食べたいし。ウユニ塩湖も生で見てみたいし。自分で小説だって書いてみたい。桜井さんは、ほんとにもうやり残したことはないの?どんな小さなことでもいいから、やってみたいことを話してみてよ」


 そう言われて、私は考えた。すると、心の底からふつふつと泡沫が浮かぶ。


「…バッティングセンターに行ってみたいです。世界のおいしいお酒をたくさん飲んでみたい。ライトノベルっていうものも読んでみたいです。それから…」


 これから言おうとしていることが、子供じみていることを自覚して、私は下を向いた。


「…お嫁さんに、なりたいです」


 耳まで「かあっ」と熱くなる感じがした。

 笑われる。そう思った。

 けれど彼は嬉しそうに声を上ずらせた。


「お嫁さん!うんうん、いいね。やっぱり女の子の夢だよね」


 そう言ってくれたとき、脳からつま先まで、痺れるような感触がした。痺れが脳から伝わると同時に、目を開けていられないほどフラッシュが焚かれる。それは外からの刺激ではなく、自分の中にある刺激だということに、遅れて気づいた。


 心臓がうるさい。体の芯が熱い。手が震えている。彼のことを直視できない。これまで熱を持たなかった体にじんわりと温かいものが巡っていく。


 この日、私は生きる理由を見つけ、それからの日々は極彩色に塗りつぶされていった。これまでは憂鬱でしかなかった残業が楽しみになった。彼と休日に会うことはできないから。一秒でも早く帰りたいと思っていたのが、少しでも長く残っていたいと願うようになった。帰りが遅くなれば彼の車に乗せてもらい、少し遠回りして一緒に帰ることができたから。適当だった化粧や洋服に悩むようになった。彼には少しでも綺麗だと思ってもらいたかったから。伸ばしていた髪を切った。彼が短いほうが好きだといったから。


 彼は鈍感ではなかった。むしろ私の気持ちに気づいている様子で、彼もまんざらではないようだった。

 その日も遅くなり――あえて遅くなるように仕事をしていたのだが――、彼に車で送ってもらうことになった。いつものように、少し迂回した道を通って私の家を目指す。その道中には情事のための簡易ホテルがあることを、私は知っていた。ホテルの前を通りかかる少し前の信号に引っかかり、停車したタイミングで私は言った。


「少し休憩して帰りませんか?」


 信号が青に変わる。彼は私を一瞥しただけで、なにも答えなかった。そのまま2分ほど車を走らせたところで、減速し、例のホテルで車が止まった。彼が先に車を降り、続いて私も車を降りた。受付へ向かう道中で、彼が私の手を指と指を絡ませるように握った。

 お互い何も言わなかったけれど、部屋に入るまでの間、手を放そうとはしなかった。

 

 焦がれるように想う相手と初めてひとつになったとき、私は涙を流したのを覚えている。それは痛みからくるものではなかった。最愛の彼の一部を自らの中に受け入れられることが、こんなにも安らぎを感じるもので、愛おしいものなのだと思えたからだ。あのときも私は、体が揺れるたびに感じる稲妻に身を委ねていた。

 

 「そろそろイきそう…」と彼は絞り出すように言った。


 「イっても…ん…いいですよ」と私は喘ぎながら答えた。

 

 「名前呼んでいい?」


 彼はとろけるような顔で私を見つめながらそう言った。


 「いいよ。いっぱい呼んでください。私も呼びたい」


 「菫…菫ッ…」


 私の腰をつかむ手に一層の力が込められた。それと同時に私も絶頂を迎え、彼の名前を叫んだ。脳が焼き切れんばかりに痺れた気がする。刹那、彼が硬直した後、体の芯を貫く快楽が止んだ。私の中に、温かいものが注ぎ込まれる感覚がした。行為が終わってしばらくの間、彼は私を撫でられる体勢で包み込んでいた。

 彼越しに薄いレースカーテンが目に入った。カーテンを透かすように、月の光が差し込んでいた。その夜は、綺麗な月が出ていたのを今でも覚えている。私は彼の温もりを少しも逃すまいと、彼のことを包み返した。しかしこの温もりは、やがて業火になる種火だということに、この時は気づかなかった。



 「昔ギリシャのイカロスは、蝋で固めた鳥の羽。両手に持って、飛び立った。」


 そんな歌が頭の中に流れた。体の芯を熱くする想いや彼の温もりが、最初は焚火程度に私を温めてくれていたが、やがて劫火となり、私の身を焼き尽くす。


 初めて彼と関係を持ってしまってからは、頻繁に体を重ねるようになった。最初は警戒していつものホテルでしか情事を重ねることはなかった。けれど次第に彼は背徳感を性的興奮に変え始めた。彼の家族がいない日は、彼の部屋で情事をしたこともあった。その当時、文字通り盲目だった私は、それが危険だとは露も思わなかったし、私自身も快感に感じていた。

 


 異変に気づいたのは彼の娘だった。そして、彼の娘が見慣れぬブローチをしていたことに、母親が気づいたのである。


 「どこで貰ったの?」


 という母親の問いかけに対し、娘は「パパの部屋!」と無邪気に答えた。これは想像だけれども、無邪気な笑顔で言う娘に対して、母親は凍てついた表情をしていたことだろう。


 あるとき、いつものように職員室で授業の準備をしていると、ドタドタと靴底を打ち付けながらこちらに迫る音がした。やがて音が部屋の前で止まり、激しくドアが開かれる。勢いよく開いたスライド式のドアはけたたましく打ち付けられ、不愉快な轟音を鳴らした。何事かと私は音のしたほうへ顔を向けると、そこに彼女は立っていた。

 目が合うと、彼女は一直線に私めがけて歩み寄る。やがて距離はゼロになり、彼女が右手を大きく振りかぶるのが見えた。振りかぶる動作はやけにゆっくりと見えたのに、私の頬に走る痛みは一瞬で駆け抜けた。ぶたれた箇所がじんわりと熱を帯びる。何が起きたのかわからなかった私は、理解が追い付かないまま、さらにもう3度同じ場所を叩かれた。

 5度目に彼女が振りかぶったところで、ようやく彼女が羽交い絞めにされた。彼女を羽交い絞めにしていたのは、私が愛した彼だった。そこで「ああ、私はすべてを失ったんだ」と気づいた。


 彼の部屋で情事を重ねることに快感を覚えていた自分自身が、ひどく浅ましい人間だとやっと気づいた。



   * * *



「次は、須磨。須磨です。お出口は左側です。」


 社内アナウンスの声によって、微睡から引き戻された。


 私は頭の中で彼女に叩かれた場所を左手でそうっと撫でる。今はもう痛みは無いはずなのに、なぜだか頬が熱い気がしたからだ。やはりまだ私は、夢と現実の狭間にいるような気がしてならない。彼との情事を思い出して下腹部に宿る熱も、彼女にぶたれたシーンがフラシュバックして頬に帯びる熱も、現実として私に刺激を与えてくる。もう終わったはずのことなのに、それを振り切って次に進もうという気がまるで起こらない。あれ以上の夢など、得られるはずがないのだ。これから先、心から誰かを愛することも、愛されることもない。そう考えると仕事を探す気にもなれなくて、こうして毎日須磨海岸へ通い、読書に時間を費やす日々を続けている。


 物語はいい。目の前のどうしようもない現実を忘れて、別の人間の人生を生きることができる。

 人生で最初で最後の一大ストーリーが始まり、そして自ら幕を下ろしてしまった私には、もう彼と過ごしたあの頃以上に充実するイベントなどないと思えた。だから、他人の人生を生きることが最も楽な在り方なのだ。


 たたん。とっと。

 たたん。とっと。


 普通電車が須磨駅に近づくにつれ、減速を始める。先ほどまでとは揺れのリズムが変わる。ポイント部分に差し掛かり列車が一度大きく揺れる。その後、慣性の法則に従って、体が進行方向とは逆方向に引っ張られる。やがてけたたましいブレーキの音が鳴り、体が元の位置に揺れ戻った。ドアが開く。


 肩からずり落ちたトートバックのストラップ部分をかけなおし、立ち上がった。

ホームに降り立つと、そよ風がふわりと潮の香りを運んでくる。このにおいを嗅ぐと、「海に来たんだな」という実感が押し寄せてくるから、私はこのにおいが好きだ。私が乗っていた先頭車両からホームに降りると、駅舎を出ずとも須磨海岸を一望することができる。

 雲がまばらに出ているものの、十分に陽は照り付けている。私はホームにしばらく立ち尽くしたまま、瞳を閉じて、磯の香りと波の音に耳を澄ます。


 ひらひら。ひらら。

 ざざん。


 ひらひら。ひらら。

 ざざん。


 海は陽光を受け、蝶の羽ばたきのように光を反射させている。反射した光が瞼の裏で白く光る。列車の中の太陽の光もそれは心地よいものだったが、直接浴びる陽の光は一層心地よかった。私は両手を大の字に広げながら、そよ風を目いっぱい浴びる。

 

 うん。気持ちいい。


 満足した私は目を開けて、大阪方面にある階段を目指す。須磨駅の階段はやや急なので、運動不足の足には少々優しくない。踊り場に展示されている生け花を横目に一段飛ばしで登りきると、膝がわずかに笑っていた。乳酸が溜まった足を慣らすように動かし、改札を出る。そのまま右手に進むと、駅のホームよりも少し高いところから須磨の海が一望できた。


 須磨海岸は近年整備が進められていて、昔に比べてかなり道や建物が綺麗になっている。直接砂浜につながっているのではなく、駅を出てすぐにある舗装路と砂浜の境界は1段の幅が広い、3段ほどの階段状になっている。なので、砂浜にシートを引いたりするのではなく、階段にスペースを陣取って過ごす人が多いようだ。


 平日の夕方なこともあって、海岸にいる人影はまばらだった。近くの学校の中学生、高校生と思しき少年少女が楽しそうな声を上げながら波と戯れているのが見える。私は駅舎の階段を降り、浜辺へと降り立った。それから、ゆっくりと読書をするために、いつもの場所へ向かって歩き始める。


 道中、犬の散歩をしている女性や、しっかりとウェアを着込んだランナーとすれ違う。それは一瞬のことで、明日にはまた違う人とすれ違うことになるのだろう。なので、特段気に留めることもなく、私の意識からはすれ違った人のことは消えていく。

   

 けれど一人、記憶に残っている人がいる。その人は、いつもだいたい同じ場所に陣取っていて、キャンプチェアを置いて本を読んでいる。中性的な顔立ちをしていて、客観的に見て、イケメンに分類される人だと思う。


 私がこの人のことを覚えている理由は二つある。

 まず一つ目は、年齢が私に近そうだなと思ったから。おそらく私と同い年、あるいは少し年下くらいのように見える。大学か、社会人2、3年目のような印象を受ける。学校や会社に行かなくてもいいのだろうか?と心配になったりしたが、それは私も同じことなので深くは考えないようにしていた。


 もう一つの理由は、彼がいつも本を読んでいるということ。そう、私と同じ行動を取っているのだ。「どんな本を読んでいるのだろう?」と気になって、彼が読んでいる本を一度盗み見たことがある。そのとき彼が読んでいた本は、『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』というタイトルだった。「タイトル長すぎない?」と心の中で、誰にでもなく突っ込んだことを覚えている。「どんな内容なんだろう?」と気になって調べてみると、いわゆる"ライトノベル"というやつで、捻くれた考え方をするぼっちの少年を中心にして繰り広げられる青春群像劇のようだった。


 これまで高校の国語教師をしてきたということもあって、日本の名文学と呼ばれる作品や、純文学というジャンルにはたくさん触れてきたけれど、"ライトノベル"というものは読んだことがなかった。興味自体は前からあって、自分が可愛いと思った女の子が表紙の本を何度か手に取ったこともある。が、購入して実際に読むにまでは至らなかった。けれど、他人が夢中になっている様子で読み入っている姿を見て、ついに先日購入してみる決心がついたのだった。購入したのは、彼が読んでいた『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』。実際に読んでみると、やはり文体自体はその名の通り軽いものだったけれど、展開は構成がしっかりしていて、そして時折繰り出される筆致には鋭いものがあって、文学のひとつのジャンルとして確かに成立しているものであった。


 これをきっかけに私はライトノベルにハマった。最近はラノベばかりを読んでいる。いま読んでいるのは『千歳くんはラムネ瓶のなか』という作品だ。この作品は、著者の方が純文学が好きなようで、綺麗な表現がたくさん使われていて私好みの作品だった。


 こうして私にこれまで知らなかった世界を教えてくれたのが彼だった。いや、彼自身は別に教えたつもりも、自分が他人に影響を与えたことも知らないだろう。私が個人的に彼を知っていて、感謝をしているというだけのことだ。以来、私は彼に対して特別な感情。――といっても恋といった好意ではなく――興味を寄せている。


 今日もいつもの場所へ向かう道中、彼のお決まりの場所を通りがかり、彼がいないかどうか探してみた。――今日も彼は、いつもの場所にいた。けれど、いまは本を膝の上に置いて、淡路島方面をぼうっと眺めているようだった。淡路島方面を見やると、先ほどまでとは変わり、雲が空を覆いつくし始めていて、若干風も強くなり始めていた。


 「なにか考え事だろうか?」と思ったものの、その内容まで知る由もない。私は彼を横目に見つつ、いつもの場所に向かって歩を進めるのであった。



 いつもの東屋に着いた私は、ベンチに腰掛けてトートバッグの中から読みかけの本を取り出した。今読んでいるのは『こうして彼は屋上を燃やすことにした』。一生を誓うほど好きだった彼に振られて死のうと思った女の子が屋上に上り、そこで出会った人たちに「どうせ死ぬなら復讐してから死のう」と持ち掛けられる話だ。


 あらすじを見て、なんとなく今の私にぴったりの内容だと思ったので、買ってみることにしたのだった。まあ私は一生を誓うほどに好きだった彼に捨てられれても、死のうとは思わなかったけれど。


 そもそも私は、彼に家庭があることを知ったうえで、彼のことを愛してしまったのだ。それに私は、私が勝手に彼のことを好きになっただけだ。その証拠に、幾度となく体を重ねても、彼も私に対して最後まで「愛してる」とは言わなかった。だから、私は彼の一番になりたいなんて微塵も思わなかったのである。そんな烏滸がましいこと、考えもしなかった。所詮私なんて、彼の心の隙間に入り込んだ厭らしい女でしかない。


 けど、私は愛してしまったのだ。この人しか私にはいないと思ってしまった。そうなった時点で、私の負けだった。例え2番目の女だったとしても、それで私は幸せだった。未来永劫2番目の女でよかった。

 その代わり、ずっと近くにいたかった。彼の1番になれなくても、彼が幸せそうにしている姿を見ているだけで、私も幸せになれるはずだった。けれども分不相応に、私も彼に愛されたいと願ってしまった。初めて彼に抱かれたとき、私は涙を流した。それは、私も彼に愛してほしいという気持ちの裏返しだったのだと、そのとき初めて気づいた。実際に愛の言葉を口に出されなくても、私の体だけを求めていたのだとしても、彼に求められることが嬉しかった。一度求められる喜びを知ってしまったら、知る前には戻れない。それからは何度も彼に抱かれることを望んだ。


 そして分不相応に彼を求めた結果、私はすべてを失ったのだ。愛する彼が幸せな姿を見ていられればそれでよかったのに。彼は家庭を失い、仕事を失い、社会的信用も失った。私の存在が、彼を不幸にしたのだ。


 だから私は死のうとは思わなかった。死んでしまえばなにも感じることはなくなる。一番楽な逃げ道だからだ。私は、私の幸せと彼の幸せのすべてをぶち壊した罪を背負って一生を過ごすことが、自分への罰だと思っている。そしてこれから先、私は誰にも愛されることもなく、愛することもなく。誰かの幸せを壊した私は、誰からも愛される資格なんてない。だからこれから私はひとりで生きていく。そう決めたのだ。

 では、『こうして彼は屋上を燃やすことにした』の主人公は、どんな結末を迎えるのか?私とは違う答えをこの小説の中に求めてみたくて、私はこの作品を読み始めた。


 それから集中して小説を読んでいると、先ほどまでの波の音に、雨粒が刺さる音が混じり始めたことに気づいた。そういえば、雨のにおいも漂っている。

 顔を上げてあたりを見渡すと、すっかりアスファルトは黒く染まり、雲が太陽を覆い隠していた。みるみる内に風は強くなり、東屋のなかにいるとはいえ、雨の雫が白いブラウスを濡らしている。雨に濡れていない場所を見つけ、そちらへ移動した。それと同時に一瞬空が光ったのが見えた。遠くでゴロゴロと音がする。春雷の音に混じって、駆け足でぬれた地面を蹴る音が聞こえ、それは対照的にこちらへ近づいてくる。


 やがてその音が止まったかと思うと、ぶわっとひと際強い風が吹いた。木々が揺れ、木の葉がこすれ合う音が、波の音と雨の音と和音を奏でる。春の嵐はいたずらをするように、容赦なく吹き荒れる。そんないたずらに紛れるように、私の目の前に大きな影が飛び込んできた。それは、濡れた髪を滴らせる、中性的な顔立ちをしている男の子だった。


 春嵐吹きすさぶ彼誰時。

 風に紛るるは運命か、神の悪戯か。 

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