いまもの怪

小此木センウ

いまもの怪(1話完結)

 作業着の老人は、縁側に腰を下ろしながら答えた。

「化け物なのかわからんが、『いまも』ってのがいるぞ」


 老人が手招きするので、私も敷地に入り、失礼します、と隣に腰かける。

「いまも、ですか。こちらでは有名な話なんですか?」

「そうさね。そこの峠道」

 話しながら老人は身を乗り出して、軒の向こうに見えるなだらかな山を指差した。

「あそこにほこらがあってな。どうだ、良けりゃ行ってみるか。儂もまあ、ヒマしとったところだし、案内するぞ」

「お願いできますか。ありがとうございます」

 私は頭を下げ、内心で胸をなで下ろした。


 民話の採集のために山間のこの村まで来たはいいが、約束の古老が体調を崩して街の病院に運ばれてしまった。急なことで代わりの当てもつかず、収穫なしで帰るしかないと私は諦めかけていた。せめて道祖神でも探してみようと歩き回っていたところ、たまたま庭で草刈りをしていたこの老人と出会ったというわけだ。

「車は……」

「あ、大丈夫です。私ので行きましょう」

「そうか、すまんな」

 峠を往復し、街まで降りられる程度のガソリンが残っていることを確認してから、助手席に老人を乗せ、私は車を出した。


 目的地まで片道で二十分足らず、車の中ではどちらかというと私の方がよく喋った。「いまも」についてたずねても、なんとなくはぐらかされてしまったからだ。その話は峠に着いてからするのが良いと、どうやら老人は一人で納得しているようだった。

 峠に到着して、路肩にあった狭いスペースにぎりぎり駐車する。車から降り、すぐそばのガードレールから見下ろすと、さっきまでいた集落の屋根が意外と近くに見える。牧歌的で悪くない眺めだ。

「おおい、こっちだ、こっち」

 つい景色に見入ってしまった私に、後ろから声が飛んだ。老人は道の反対側から手招きしている。その横には、かなり古そうな石段が、緑の中に伸びていた。


 道路を渡って見上げた石段は曲がりくねって、また盛り上がった木の根でところどころ崩れている。しかし足を乗せてみるとぐらついたりもせず、かなりしっかりできていることがわかった。

 老人が先導し、ひょいひょい身軽に石段を上っていく。

「ここから十分と少し歩けばほこらだ」

「ええ」

 私はうなずいてから聞いた。

「この石段、丁寧に作られてますね。昔は石を持って上がるのも大変だったろうに」

「昔から、えらく大切に祀られてきたからなあ」

「『いまも』がですか」

「いや、ほこらの神さんだよ」

 老人はそこで足を止めた。

「そろそろいいだろう。聞きたいか?」

「はい、もちろん」

 私は慌ててメモを取り出した。


「この石段を見てわかる通り、ここの道はな、儂らも知らないくらい昔からあった。峠を通る村人はみんな、一旦ほこらに寄って頭を下げてたんだ」

 老人の口調は抑制の効いたゆっくりしたもので、歩みもそれに合わせ、一段いちだんを踏みしめるようなものに変わった。

「ところがある時、噂が立ってな。なんでも、石段の途中に人間の手が転がってたそうだ」

 私はぎょっとして足を止めた。急に曲がり道になった石段の先に、本当に人の手が落ちているように見えたからだ。

 しかし、よくよく見ればそれは石を彫った彫刻だった。何本か欠けた指があり、ひび割れも見える様から考えると、石段と同じくらいに古いものに見える。

 老人は、ははっと笑った。

「怖がらなくていいさ。そいつはむしろ、儂らを守ってくれてんだ」

「守る、ですか? どういう意味でしょうか」

「話の続きを聞けばわかる」

 石段の上の方から風が吹いてきて、老人の言葉を運んでいく。

「噂が広まって以来、拝みに来る村人が途絶えちまった。それもまずいから、本当に人の手なんかあるのか、若いもんが何人かで行って見てこようってことになってな。それでここを上ってくると――」

 老人はちらりと石でできた手を見る。

「な、何かあったんですか」

「いや、何もなかったのさ」

 私は拍子抜けしてしまった。

 額に手を当てると、少し汗をかいている。雰囲気に呑まれたかな、と思って苦笑する。

「その若い衆もな、あんたと同じように笑って、こう言い合った。やっぱり噂はいい加減だ。まあ昔はそんなこともあったかもしれないが、今はないだろう」

 淡々とした喋りなのだが、そこには妙に引き込まれるような迫力があった。

「その時だ。どこからか、こんな声が聞こえた」


『いまも』


 身体の芯を揺すぶられるような衝撃を受け、私は一瞬固まった後、急いで周囲を見回した。

 声を発したのは確かに老人だ。しかし、それと合わせて、ここにいる何か、あるいはこの場所そのものか、とにかく、まるで空気そのものがどよめくように、老人の言葉に感応したものが、確かに存在する。

「ははは、それも同じだ」

 老人は笑ったが、それはやけに甲高い、乾いた笑いで、私の緊張をまったく緩めてくれなかった。

「その場にいた者たちも、驚いて辺りを見た。すると上の方からどさっと、こいつが落ちてきた」

 老人の指差す先には、先の石彫りの腕があった。私は薄気味悪くそれを眺めた。

「そんな目で見るもんじゃない。そいつが、まさに今もそこにあるから、これ以上の怪異が起こらないんだ」

 だがそれは、私の足をすくませるのには十分過ぎた。

「じゃあ行こうか。次はな、鬼の首だったかな」

「待ってください」

 歩き出した老人を引き止めて聞く。

「ここからほこらまでに、まだこんなものがあるんですか」

「あ? ああ。二、三あるぞ。今の話の続きで――」

 私は首を振った。

「すみません、これ以上は行けそうもありません」

 足を止め、老人はゆっくり振り向く。

「あんた――それはよした方がいい。ここまで来たならほこらを拝め」

「案内いただいて申し訳ないですが、ここは私が来るべき場所ではなかったようです」

 先ほどよりも、空気の密度が高まった気がした。

「あんたなあ、悪いことは言わん。気味悪く思うかもしれんが、ほこらは拝んどけ」

 老人はなおも言う。

「さっき、いまもの話をしたろ。あれがしきたりなんだ。それで、いまもの話をするといまもが来る。だからほこらで神さんに拝んで祓ってもらうんだよ」

 私は、石段の向こうを見上げた。空気は重たく垂れこめて層となり、来る者を絡めとろうと待ち構えるようだった。

「何と言われても、ここからは上がれません」

 老人は大きなため息をつくと、後頭部をぼりぼりとかいた。

「しょうがない。儂は行くから、勝手に帰れ。だが、どうなっても知らんぞ」

 そのまま背を向けて、石段を上り始める。

「車でお待ちしてます」

「いいよ。儂は山歩くのは慣れてるから、お前は先に帰れ」

 そう言われて私はほっとした。正直言って、一刻も早くここから遠くに行きたかった。

「すいません」

 老人はこっちを見ずに首を左右に振る。

「気をつけて帰れよ」

 その背中に一礼すると、私は振り返って石段を一歩下る。そこで、老人の独り言のような声が聞こえた。


「だが、いまもが出たなら、あんたの周りには今しかない。帰るとかそういう、これからのことがあんたに起きるのかな」


 透明な壁をくぐり抜けたような、変な感覚があった。私は思わず振り返る。しかし、老人の姿はない。石でできた腕だけが、さっきよりさらに生々しく、今にも動き出しそうな雰囲気をまとわりつかせて転がっている。

 私の心で恐怖が沸騰した。早足で石段を下り始め、やがてそれは一段跳びになり、しまいにはほとんど駆け降っている。

 ポケットで車のキーがかちゃかちゃ鳴った。とにかく、早く車に戻りたい。左右の景色がどんどん通り過ぎる。だがいつになっても車道は見えない。

 そんな馬鹿な。上っていた時間は五分程度のはずだ。どうして車道に出ない。

 老人の言葉が頭を廻る。私の周りには今しかない。ならば私は果てしなく、この山道を降り続けるのか? そんなことはない。そんなことは。


 異常な環境のせいで私の精神は追い詰められていたに違いない。だから、木々を通して灰色のアスファルトが見えた時、安心のあまり両頬を涙が伝った。


 車に乗りこむと、少し心が落ち着いた。同時にさっきの体験は夢のようにかすむ。

 冷静に考えれば、やはり恐怖で感覚がおかしくなっていたのだ。老人が消えたと思ったのは、木か何かの向こうに隠れただけだろう。降りるのに時間がかかったように感じた原因は、同じ光景の繰り返しで催眠状態に近くなったのかもしれない。

 いまもという化け物も、もしかするとそんな異常心理の産物かもしれない。同じ道がずっと続く山の中で、ふと時間の感覚を失って、今が無限に連なっているような気分に陥る。そんなのが、ないともいえない。

 集落に戻ったら、聞きそびれた話の続きを調べてみるか。


 車に乗ってからは時間感覚がおかしくなることもなく、往きと同じく二十分かからない程度で集落に着いた。

 古老の家の前の空き地に車を停める。

 道祖神でも探してみようと、私は車を降りた。歩き出してすぐ、庭で草を刈っている老人と目が合った。

 挨拶を交わし、私は聞いてみた。

「民話を集めにここに来たんです。もし良かったら、この辺りに伝わる話を教えていただけますか」

 なんとなく思いついて、付け加える。

「例えば、化け物の話とか」


 作業着の老人は、縁側に腰を下ろしながら答えた。

「化け物なのかわからんが、『いまも』ってのがいるぞ」

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