50度線のおまじない
ピィィイィ―――ッ!
汽笛一声。
気づけばフェンスは消えていて、線路は境界を越えてどこまでも続いていた。
「来たな」
老婆が言う。
「今年も来たか、『50度線のおまじない』が。」
白く輝く汽車が、境界の向こうに姿を表した。
ここまで少年が乗ってきた電車とは似つかない、古めかしい蒸気機関車だ。少年はその面影を――それはもう、鮮やかに覚えていた。
「……これだ」
少年の手にしたスズランが、同じように白銀の光を灯す。
それはまるで、呼応しあっているかのようで。
「おばぁちゃん!列車が!」
おもむろに娘が叫ぶ。
その声に老婆は、ぐっと目を凝らして喫驚する。
「……ばかな、汽車が。」
スズランと示し合わせるように、汽車はゆっくりと速度を落とし始めたのだ。いつもならただ通り過ぎて行くだけの、汽車の幻が。見たこともない事態に誰もが騒然となる。
ただ一人、プラットホームに立つ少年だけは動じなかった。
汽車は木張りの乗降場へ滑り込んで、少年の前へすっと止まる。
「扉が……、」
「開いた…!」
まる迎え入れるかのように少年を煌々と照らす客車。
一歩も躊躇することなく、一輪のスズランを胸に少年は乗り込んだ。
ピストンが音を立ててガタリと切り替わり、加圧弁が急に動きだした。汽車の様子がおかしいと誰かが悟ったのもつかの間、汽笛が空気を
誰もが唖然とする中、汽車が動き出した。
「ごめんな、長く戻ってこれなくて。」
少年は汽車の窓から老婆へ声をかける。
「きっといつか。また、会いに来るから」
呆然と見送る誰彼。
老婆は一層、唖然としていた。
「…――今の声。まさか」
そう言ったきり、境界の向こうへ消えた汽車を見送るだけだった。
◇
燃えていた。
夕陽に照らされて、参道から見下ろす集落は燃えていた。
「隠れろぉっ!」
轟音が響く。
学校の建物が刹那、爆炎を吹き上げる。
「ちくしょう、なんでソ連軍が!」
「中立条約は!?どうなったんだ!」
そんな声もする。
直上には紅星章、空を舞う鉄の鳥。少年もたまらず睨めつけた。
「逃げるよっ」
「どこにですか」
少年は少女の手を引いて駆け出す。
焼け落ちた鳥居を飛び越えて、駅のほうへ。
「汽車を動かす」
「…できるんですか」
「見習いだけど、それでもおれは機関士だから」
石段を飛ばす足はもつれ、何度も転びそうになった。
駅のすぐ裏山の神社だったから、幸いにも眼下に駅が見えた。プラットホームは、避難しようとする人でごった返していた。
けれど肝心の、汽車を動かせる人がいないようだった。
「はぁっ、はぁ…!」
参道は曲がって、広い丘腹に出る。冷夏、八月の丘陵は、一面にスズランが咲き乱れていた。
そのまま突っ切って駅の方へ下ろうとする少年。
「……だめっ」
少女はおもむろに袖をつまんで、少年をとめた。
「っ、なぜ」
「はぁっ、やっぱり、わたし、いけません…!」
肩で息をして少女は言った。
「本殿のほうにまだたくさん、怪我をした人がいて!」
「あそこにいたら機銃掃射の餌食だぞ?!」
「でもっ…!」
でも、と少女は手を握りしめる。
それから巫女服の両裾を、両手でちょっとつまみ上げて、諦めたように微笑んだ。
「私は――こんなだから」
少年は奥歯を噛みしめる。
「一人離れるわけには行きません。わたしの持ち場、ですから。」
「……神社なんかっ、」
言葉は喉元まで出かけて、少年は溜飲を下げる。
捨てちまえ――そんなことが言えたら、どれほど楽だろう。いっそ、それぐらい身勝手になれたら。弱い自分を、少年は心底呪う。
その様子を見かねたか、少女は立ち上がった。それからおもむろに御幣を取り出して―――バッ、と薙ぎ払う。
キィィィ――ン!
耳を劈く風切り音。
馳せ抜ける烈風。
ひゅおぉお、と暫し残響して、それから少年は気づく。
「……これ、は?」
銃声も、爆音も、聞こえない。時は止まる。
黒煙は消え去り、茜色に染まった世界で少女は佇んでいた。
「おまじない♪」
えへへっ、と笑って、少年へと振り返る。
「たった三十秒で、解けちゃいますけどね」
驚きで少年は声も出ない。
あたり一面に咲き誇る八月のスズランは、光の粒を誘って揺れていた。
「砲弾ひとつ防げない、これっぽっちの能力です。それでも巫女として、神様に授けられた力で――これで、助かる人がいますから。」
少女はそこで言葉を留めた。続きは言わずとも、その決意は確かだった。
「……君が逃げないんなら、俺も逃げない」
「っ……。そしたら誰が汽車を、動かすのですか」
スズランの蕾のように、少女はうつむく。
「ふたり出逢ったのは、この丘だったよな」
少年の言葉に、少女は目をぱちくり瞬かせる。
「?」
「幼い頃の話だよ。あの春は少し暖かくて、このスズランも早く咲いてたよな」
「……はい」
「きみを連れ出す――それでいいかな。」
意を決して、少年は手を差し出した。
逢月出で立つかたわれ時。一世一代の提案を。
「この手を取って。そしたらおれが、きみを攫う」
「あなたの…、手を……」
少女はおそるおそる、手を伸ばす。
まるで、歌詠鳥に誘われるように。
「わたしが……取れば」
とればっ。そこまで口にして、少女は声をつまらせる。
凛冽な琥珀色の眼を精一杯取り繕って。
「知って、ますか。」
それでもこらえきれずに、一滴、二滴。
手の甲に染み落ちて、少年は初めて顔を上げる。
「巫女は――神様と結婚しているんです」
少女の両頬に伝う涙。その手をとることは遂になく。
差し伸べた少年の手は、空を切る。
淡い紫の差し込める少女の髪が揺れて、目元の涙滴が舞う。虚しく立ち尽くす少年の前に散った、茜色に染まる光の粒は、ただひたすらに儚く、美しかった。
「鈴蘭」
少女は呟く。
「約束です。また、この鈴蘭咲く場所で、」
髪を留めていた白銀の鈴蘭を、ぱっと少女はするり抜く。
すっと差し出されたそれに、思わず少年は掬おうと手を伸ばす。
「ここで。絶対また――」
言い終わらないうちに、二人の狭間を一陣の風が吹く。
初風か、峯風か。
それとも幾星霜の悪戯か。
世界は君を隠す。
「ぁ……。」
少女の姿は跡形もなく。
茜色の丘に佇む少年の手には、一輪のスズランだけが残っていた。
「っ……!」
懐に差し込んで一歩、踏み出す。
「走らせなきゃ、汽車を」
駆け下りる。スズラン咲き誇る丘を、石段を。
「果たさなきゃ、約束を。」
銃弾の雨の中を。燃え盛る街のほうへ。
「答えることすら――できなかったんだから!」
君と契った三十秒。ぷつりと切れた三十秒。あまりにも呆気なかった三十秒。
されど、もう一度だけ手繰り寄せるために。
「汽車が出るぞー!」
人波をかき分けて一声。少年の声に人々が目を輝かせる。たった1両の小さな客車に、数十人が乗り合わせていた。
大急ぎで炭車を回して、ボイラーに石炭を掻き入れる。火は誰かが先に入れていたようで、慣れない手付きの燃やし方だったけれどそれでも十分だった。
逆転機をねじ込んで、加減弁を引き上げる。
シリンダーが重苦しい音を立てて、白い蒸気を吹き上げた。
_______
そう記された駅名標が、ゆっくりと後ろへ流れる。
汽車は燃える集落をあとに、最北の駅から、最北の街から、ひたすらに南を目指して漕ぎ出した。
冷夏、八月十一日。北緯50度。
日ソ国境を彩る白い花は、初夏の風物詩たるスズランだった。
右手に薄紅の間宮海峡。左手に朧月のぼる西樺太山脈。挟まれた海岸線も、冥刻を告ぐ
「ソ連機だ!」
誰かが叫んだ。どこまで行けただろうか。
しばし時間が経った気もするし、そうでない気もする。
「椅子の下に潜れ!」
叫ぶ。空の一点、機銃掃射が来る。
「伏せてください!」
そう言いながら加速桿を突き上げる。
圧力計を読もうとしたが、赤く汚れていてメーターが見えない。
「かっ…、は…」
飛び散った紅の中で、最後まで少年は加速桿を離さなかった。
それから。
気づけば――誰もいない線路の上。
少年は、高いフェンスの前に立っていたのだ。
◆
『御交内』- Wikipebia
御交内(おまじない)とは、1945年8月11日まで
この日から始まったソ連の対日侵攻において最初に攻撃を受けた集落であり、奇襲とともに砲爆撃を受けて、退避の余地もなく、集落は全滅した。
現在は日露国境に沿って設けられている非武装地帯の中にあり、民間人の立ち入りは厳しく禁止されている。
集落には国鉄
地元では年に一度、8月のこの日、御交内からの避難列車が来ると信じられており、安別分断点駅のプラットホームを手入れする慣習がある。戸籍上は未だ「行方不明」扱いとされている住民117名を乗せた列車が着く場所をつくるのだという。
1988年にはJR
◆
「ふぅ…っ」
吐息を漏らす。
あの日と寸分たがわない夕暮れの中、少年は終着駅に降り立った。
まもなく野分立とうと露を零す熊笹に、ひっそりと隠れた木板の破片がのぞく。
『御交内駅』――まだなんとか、読むことはできた。
「ここかな」
分け入ればすぐに見つかった。
ガラリ、扉を開けて一呼吸。
誰もいない。
久々に舞ったと思われる埃だけが、淋しげな返答を寄越した。
カレンダーの日付は八月十一日。
昭和二十年という文字は、きっと終ぞ、替えられることはないのだろう。ずっと時を止めたままの日付はどこか滑稽で――差し込む暖かな橙色に誘われるように、ホームの裏へ出る。
「わぁ……っ」
白い花が、一面に咲いていた。
今年は80年ぶりの冷夏だった。
石の欠片が散らばった野道を登る。きっとあの参道があったところだ。
少し行って振り返ってみれば、見下ろす街は原野に呑まれていた。家々の面影はすでになく、遠く広がる茜色の海峡だけが、無情にも無常だった。
「あの」
最初は、峯風の悪戯かと思った。
「神様に、なられたのですか。」
白銀の長髪を揺らして、一輪のスズランが佇んでいた。
少年はしばらく呆然と立ち尽くして、ふと、懐に挿したあの花がないことに気づく。それから、そっかと安堵の息を、深く静かに吸って――笑った。
「うん。ずっと
二つの世界が交錯するその一瞬を、北緯50度線は契る。
「もっと早く気付ければ、……もったいない」
「そんなこと、ありません」
幾星霜を越えて、またこの場所へ。
「覚えておいででしょうか」
そして少女は微笑んだ。
「巫女は――神様と結ばれるんです」
「……あはは、そうだったね」
少年少女は背を合わせ、
ここだけが、いつかのときから時を止めたかのようだった。
「まもなく日が暮れますね」
「うん」
「今ならまだ、
丘の麓。赤錆色のたどたどしい線路に白煙を靡かせる汽車を指して、少女は言った。
「そっか、戻ろうかな」
「――ぇ」
固まる少女を傍目に、すっと立ち上がった少年。
一歩を踏み出そうとすると、後ろから、どんと衝撃が来る。
「っ……!」
背中を両手で抱きしめられていた。
涙ぐんだ声で、少女は少年に訴える。
「また……私を、一人にするおつもりですか」
躊躇うことなく少女は顔を埋めて、ぎゅっと引き留めた。
「まるでスズランだ」
少年はおもむろに呟いた。
「その可憐な小さい白銀の花とは裏腹に、毒を持つ。」
スズラン。本州の高原地帯から北海道や樺太に広く自生し、夏の初めに淑やかな下向きの花を咲かせる。にもかかわらず毒を持ち、摂取した者を死へいざなう。
その毒にずっと――囚われていたいくらいの、あぁなんと、心地のよい夢であろう。
「身体の隅々まで回りきって、到底解けそうにないさ」
「…そうでしたか」
「心配しなくていい。最初から全部、君の毒に委ねるつもりだったから」
ほのかにあたたかい陽だまりの中で、八月の鈴蘭は淑やかに笑う。
誰も立ち入ることのできない境界の
久遠の彼方へ巡り続ける、ふたりぼっちの世界は。
それはもう、恋と見紛うほどに。
ただひたすらに、美しい眺めだった。
50度線の契り 占冠 愁 @toyoashi
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